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自尊心について(加筆) [アート論]

自尊心というのは、
自己が生きていることの、その存在や、
社会的な在り様を、重要に思う感情のことである。

基本的なこの感情は、
しかし実際に生きて行く時には、
十分に自尊心を持てないで、
苦しむ人、
病む人が、
沢山いる。

私の回りにも、問題を起こしている人は、
具体的にいるのである。

その苦しみは気の毒だと思うし、
同情する。

私の場合には、
幼児より、常に自尊心を脅かされて、
鬱病の状態の中で生きて来ている。
それは小児結核で、小学校1年2年と、
学校に満足に行けなかった事から始まりる。

日本が1945年に敗戦すると、
日本社会に、未曾有の結核の流行が襲う。
栄養の失調と、衛生面での劣悪化が、結核を流行らせたのである。

中学2年では1年間病院生活をおくり、
さらに高校3年でも再発しているからである。

そういう闘病生活の中で、自尊心そのものの崩壊を、
なんども経験している。

中学2年生段階で、キルケゴールの『死に至る病』を読んでいるのも、
そういう絶望状態で、生きて行くための、すべであった。

絶望の中では、哲学書は、有効なのである。
あるいは、絶望している人しか、哲学書を読む事はできないのかもしれない。

しかも、
キルケゴールの『死に至る病』というのは、
絶望についての書だったのであるから、
なおさらである。

6月7日から、マキイマサルファインアーツで、
南泰裕さんと、2度目の2人展をやるが、
南泰裕さん自身は、すぐれた建築家だが、
彼もまた、高校生でキルケゴールの『死に至る病』を読んでいる人で、
彼もまた生きる事の絶望をくぐり抜けている人なのである。

自尊心と、似た言葉には、プライドや自惚れ、というものもあるが、
心理学的には違うとされている。

プライドや自惚れよりも、もっと基本的な自己肯定感が、自尊心であって、
人間の人格形成や、情緒の安定のためには重要であるという。

自尊心を持てない人は、自分自身を信じることができないために、
自分自身の能力にたいしても懐疑的となってしまい、何もなすことができない。
つまり鬱病になってしまって、コントロールを失い、
さまざまな症状を起こす。

しかし今日のような激しい時代には、
自分自身の能力に対する自信などというものは、
持ちようの無い事であって、
否応も無く、私たちは、絶望と、将来に対する不安と向き合うことになる。

キルケゴールの主張している事は、
絶望している自分自身、その自己自身になれという事である。
逃げないで、自分を引き受けて行く自己責任にこそ、
救済があるという、教えなのである。

私はそうして生きて来ているから、
自分を肯定する自己満足や、万能感といった感情にたいしては、
むしろ、否定的である。

普通の意味での自尊心は、原始的な自然性の感情であって、
こうした自己肯定感覚を否定して、
その後を生きる事が重要であると、思っている。

つまり自尊心の崩壊を経なければ、
文明人ではないと思うのである。

美術作品や、文章を書くという事でもそうなのだが、
なまじの自然性としての自尊心を持っている人は、
つくったり、書いたりする事は出来ないのである。

自分が作品をつくれないということ、
あるいは自分が文章を書けないという事、
そういう絶望に出会って、
書けないこと、作れない事を認めないと、始まらない。

絶望した所からしか、始まらないのである。

自分が作品を作れないということを、
骨身にしみて理解すると、作品を作れる様になる。

つまり自尊心を捨てる所からしか、
制作は、始まらないのである。

これは私だけが言う事ではなくて、
それこそ村上龍や、村上春樹も言っている事であって、
自分が文章を書けないと言う事実を認めてから、
初めて書ける様になるのである。

つまり自尊心を否定し、捨てる後から、
始まるのである。
素朴な自然性としての自尊心は、
むしろ邪魔なのである。

自尊心の高い人や、
自尊心を守ろうとしている人は、
結局、自分という蛸壺にこもっている人のように、
私には見える。

蛸壺に止まるという欲望を捨てないと、
何も始まりはしない。

私は自閉主義ではなくて、
自開主義者なので、
とにかく蛸壺からでて、社会や、異なるジャンルに出て行く事が、
大切であると、考える。
その越境の時には、自尊心は捨てなければならない。

自尊心など捨ててしまって、
蛸壺から出て、
生きる事の出来ない、死の世界に出て行かないと、
現在のこの激動の時代を生き抜く事自体が出来ない様に思う。

早い決断と、早い動きが必要であって、
それは自然性としての自尊心があると、
むしろ邪魔であって、そんなものを捨ててしまう。

蛸壺の外の、
屈辱の中を平然と生き抜かなければ、
現在の弱肉強食の世界を生き抜けない様に思うのである。

自尊心の欠如は、セルフ・コントロールを失い、
依存症や摂食障害などの精神障害を引き起こす。
特に、うつ病の患者は自尊心を失っていることが多く、
患者の自尊心の回復が重要であるというのだが、
そんなことは、あきらめてしまう。

アーティストの場合には、
自尊心の回復よりも、作品制作による自己回復を目指す事が、
重要だからである。

ラカンはそれをサントームという、第4の輪として考えたのだが、
芸術の制作は、こうした崩壊状況にある自己自身をつなぎ止め、
狂気に転落することを、つなぎ止めるのである。

作品をつくり、芸術を追求し続ければ、
とにかく、目前の完全崩壊を回避できる。

芸術が、崩壊状況に、有効な機能があることから、
実は現在は、芸術をそうした機能性としてに、重用されるようになってきている。

越後妻有トリエンナーレや、深川の商店街の町おこし、
そして雫石の町おこし、長野の望月町の町おこしなどに、
ささやかだが私自身は関わって来て観察した事は、
地域が自尊心を失って崩壊して行く時に、
芸術は、新たな人間関係を結び直させ、
もう一度コミュニケーションを成立させるために、
ささやかにだが、有効なのである。

現在の社会は、昔の古い大きな社会構造が解体され、
破砕されて、ばらばらになり、崩れて行くから、
自然性の自尊心も、ずたずたになってしまう。

それは避け得ない事である。

そのずたずたの自尊心のままに、
回復を違う次元に転移させる。

精神医学的な「自尊心」とは、
ありのままの自分に誇りを持ち受け入れるということであるというのだが、
芸術家としての視点では、
むしろありのままの自分自身の惨憺たる状態を、
そのまま逃げずに引き受けていく、
自己責任の覚悟の感覚こそが重要である。

そしてその惨憺たる自尊心の回復を、
サントームに転化させる。

それは、古い武士道の言葉、つまり『葉隠れ』の言葉で言えば、
犬死にしていく覚悟であり、
犬死にによる転移である。
親鸞の言葉で言えば、《横超》である。

横っ飛びのような、超越である。

将棋でいうと、桂馬のような飛び方である。

自分自身の死が、犬死にという、
愚劣な死でしかない、そういう無意味性を引き受けて行く自己責任の覚悟で、
《横超》で、乗り切るしか無いのである。

そうした時に、芸術は、生きる意味として、
立ち現れるのである。

したがって、
人生を生きようとするというよりも、
無意味に、犬死にしていくことしかできない覚悟において、
世界や歴史を見て行こうとする、
そうした絶望者の眼差しにおいてこそ、
生きる意味が立ち上がるのである。

こういう《41流》主義の立場は、
惨憺たる救いのないものだから、
あまり、他人の勧められるものでは無い。

しかし、
人間は絶望を回避しては、生き得ないのである。

どれほど成功し、名誉を勝ち得ても、
人は、無惨に、犬死にしていく、存在である。

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コア

ラカンについて学習中の身ではありますが、臨床家としてのラカンがピカソやジャコメッティと関わっていたと、彼等の評伝から理解しています。神話的なまでに「成功」していた彼等もまた自尊心の深い危機に向き合っていたのでしょうか。(出典:フランソワーズ・ジロー「ピカソとの生活」Paora Caròla"NOTES ON A GIACOMETTI"、ヴェロニク・ヴィージンガー「芸術家、その妻そしてモデル」)
by コア (2008-05-15 11:16) 

ヒコ

ラカンは、まえにも触れましたが、ダリにも大きな影響を与えています。サントーム論は、ジェイムス・ジョイスに関するものです。

さて、ご指摘のように、ピカソもジャコメッティも、自尊心の崩壊や危機は、あったと思います。それは作品そのものが良く示しています。

ピカソの孫の書いた『マイ・グランパパ、ピカソ』という本を、藤原えりみさんが訳しておられて、私も読みましたが、ピカソは、問題が深刻にあります。
by ヒコ (2008-05-16 07:34) 

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