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社会性について [アート論]

いろいろむずかしいのですが、
人間の社会性というのは、
美術を考える時に、重要なのです。

日本の現代美術に社会性が無いという批判が、
強く出たのは、1980年代に入ってからだったように思います。

この議論を丁寧に語るのも難しいのですが、
私の考えの転機になったのは、
ある企業の、文化支援の担当者との話でした。

現代アートの、アートマネージメントの人に、
社会性が無いと言う、批判が、
その担当者から出たのです。

その理由をここで細かく書くのは、さしさわりもあるので省いて、
私の眼から鱗が落ちたのは、
どうもギャラリーや、アートマネージメントの人には社会性が弱くて、
むしろ美術家の方が、ましであるという指摘でした。

どうもアートマネージメントをすることを目指す人や、
画廊をやりたいという欲望の中に、
芸術というものを、社会からの逃避として、誤解している様な人が多いのです。

つまり実際の美術を勉強し研究したいのではなくて、
単に社会に出るのが嫌で、逃避している
社会的不適応の、駄目な人の集まりが、
日本の現代美術界の80パーセントを占めているかの様なのです。

確かに芸術家になるというのは、
出家して坊主になる様なところがありますが、
しかし坊主になれば、そこもまた社会であって、
坊主は教団と言う社会をつくり、
僧兵を擁して、軍事行動をし、
宗教戦争で100年、200年の殺戮を繰り返し、
異端審問で、魔女の名のもとに、火あぶりの刑を執行して行ったのです。

つまり僧侶になったからといって、
社会からは逃げられないのです。

同様に、芸術家になったからといって、
社会の外に出たのでは、ないのです。

芸術家になれば、
それ以上は逃げる事は出来なくて、
社会と向き合い、社会性を獲得して行く事でしか、生き得ないのです。

私にも、その企業の担当者の指摘は、
腑に落ちるところがいくつもあって、
それからは、自分で直に社会的な動きをするようになりました。

画廊やアートマネージメントの人の社会性の欠如を、
認めて、
彼らを信用しなくなったのです。

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気をつけて、追っかけていると、
《1流》という社会的な理性の領域は、
ずいぶんと深い意味をもっているのです。

音楽で一番気になったのは、ジャーニー (Journey) でした。

ジャーニー は、アメリカのロックバンドです。
1973年にサンフランシスコで結成されています。
現在も続く、30年以上も活動しているバンドなのですが、
私の聞いているのは、1981年に発表されたアルバム『エスケイプ』です。
このアルバムでジャーニーは、全米1位を獲得しています。

この音楽は、《1流》性しか無い音楽で、
非常に特殊な音楽でありますが、
それだけに《1流》という社会的理性について考える時の、
大きな手がかりになったのです。

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観察して来ている実例を細かく書く事は、
まずいことなので、
大まかに結論だけを書くと、
人間は、想像を遥かに超えて、社会性の無い存在です。

特に1991年のソヴィエト連邦崩壊以降の社会変動の中で、
社会性そのものが大きく変わって行く中で、
不適応の人が、増えたかのようです。

社会性そのものは、ほぼ、5年ごとに変わりますし、
さらに10年ごとに、ほぼ、反対と言って良いほどに、
価値の逆転が、前に出てきます。

さらに20年、25年ごとに、より大きな変化を見せます。

そして50年ごとには、
驚くほどの劇的な変化をするのです。
この50年ごとの変化は、1995年の阪神神戸大震災の年に、
体験したのですが、
戦後50年目の年の変化は、
決定的なものでありました。

私自身は、歴史的理性を探求している学者の所があって、
こういう歴史的変化を測定しつつ、
それをコンテンポラリーアートである表現の問題として
考えて行こうと言う、そういうアーティストなのです。

しかし時代の変化と、その時代の敷居を超えて行く事は、
かなり難しくて、
多大の努力を要するし、
努力しても追いつくものではありません。

一人の人間の限界が、大きくあります。
この限界を、なんとか、少しでも超えようと、
いろいろ工夫をしているのです。
このブログも、そのひとつであります。

そういう格闘をしていると、
多くの人ともぶつかるし、
友人関係も同世代の多くを失いました。
かれらは、時代の変化の本質性を認めないのです。

ですから、友人は、若い人に、
シフトが変わって行きます。

同世代で残ったのは、清水誠一さんだけで、
彼は医者になろうとして新潟医大に入っている人なので、
まず学力というか、知性があって、
それに勇気があって、いろいろなものを見に行くし、
考える人なのです。

一般的には現代美術のアーティストの知性は低くて、
そして自閉主義者が多いのですが、
清水誠一さんは、例外的に自開性があるアーティッストなのです。

日本の現代美術の
画廊も、作家も、自閉性が強くて、
時代の変化に対応する力を失って行きました。
それは社会性の喪失でもありました。

なによりも、決断の早さが必要になり、
そして脱ー領域性が重要になってくるのですが、
そうした基本的な変化をすることが出来ないで、
社会的には退場して行く人が増えます。

つまり社会性というのは、
その時々の社会に対応している事で、
今で言えば、少なくともメールが出来る事は重要ですし、
メールの返事を早くに打てないと、
社会的に動いて行く事は無理です。

しかしコンピューターを自分ではいじらない画廊関係者は
私の回りには多いです。
そういう形で、社会性を失って行くのです。

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コンビニエンスストアーで、商品を買って、
家で弁当を食べるというようなことは、
社会性とは、言わないという事です。
つまり消費では、社会性は計れないのです。

社会性というのは、
あくまでも、現実社会の中で、お金を得て行く労働を介して動きえる、
そういう稼ぎの世界なのです。
つまり生産の場だけが、社会性です。

ですから1970年代のような、
貸し画廊を中心に人が集まって形成されている世界、
たとえば、神田にあったときわ画廊を中心に成立していたような村世界は、
実は社会ではなかったのです。

こうした小さな村は、社会ではありません。
ここでの関係性は、社会性ではないのです。

社会というのは、小さな社会ではなくて、
大きな社会を、社会といいます。

どこまでの大きさかは、
実は難しいのです。

事実はともかくとして、
1991年以降は、
グローバルな大きな世界市場性をもったレベルが必要になったのは、
確かなのですが、
それが本当に、どこまでかは、
まだ正確には、わかりません。

しかし、国際社会が、《大きな社会》として、
はっきりと姿を現しているのです。
このことを哲学的思想的に書き出したのがネグリ/ハートの『帝国』という、
世界的ベストセラーになった著作です。

こういう《国際社会》性の中で、
日本社会が、実は、社会性を失ってしまっているのです。
だから日本が沈没して行くのです。

もはや日本人が働き過ぎとは言えなくて、
日本人の労働の効率の悪さが、指摘されています。

つまり、情報革命にともなう人類の社会性というものが変化したのですが、
日本は、この社会性の変動について行けなくて、
国際社会の中での社会性を、形成できなくなっているのです。

つまり、今日では日本社会に適応するだけでは、
現代の社会性をもっているという事には、
ならなくなっているのです。

それで、とにかく、大きな国際社会性が、
今日の社会性であって、
120人以内の規模のレベルの、リアルな人間関係は、
社会性とは言えないことになったのです。

ですから作品をつくる場合でも、
そうした大きな国際社会性を前提に作って行かないと、
まずい面があります。

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アートスタディーズをやっていいて、
一番最初に気がついたことは、
新人会の麻生三郎と、井上長三郎の作品が、
非常に高度な《超1流》性を示していて、
晩年まで、作品が高度化した、巨匠である事です。

しかし彼らの作品は、純粋主義で、
いくらすばらしいと私が言っても、
彼らの作品の高度性を理解できる人は、ほとんどいないのです。

麻生三郎に、特に言える事ですが、
1961年の樺美智子さんの死を描いた名作『よこたわる人』、
この絵は2枚ありますが、
これ以降、麻生三郎は、どうも歴史や社会から自分を切り離して、
高度成長経済を遂げて行く日本の社会性の変化を、
拒絶しています。

こういう態度が、麻生の作品の高度化を成立させるとともに、
そこにある純粋主義の極端さが、
作品の難解性を、増長させているのです。

私は、麻生三郎の最晩年の絵画に、
日本近代絵画の純粋主義の、頂点の成果を見ます。

この絵画を高く評価するのですが、
同時に、この頂点を乗り越える必要を感じるのです。

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歴史を具体的に観察して行くと、
美術の自立性というのは、
普通に考えられている様なレベルの自立性はありません。

社会の変化の中で、
美術と言う基準もまた、劇的に変化して行きます。

社会性を喪失すると、美術は、観念化してしまいます。

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芸術というのは、宗教に似ています。

仏教には、小乗仏教と、大乗仏教がありました。

紀元前後の仏教界は、
釈尊の教えの研究に没頭する余り、
民衆の望みに応えることが出来なくなっていったのですが、
これが小乗仏教です。

これを批判して、
自分の解脱よりも、他者の救済を優先する《利他行》の重要性を主張するのが、
大乗仏教で、
私の中には、この《利他行》への共感があります。

最初の教典は『般若経』ですが、
『般若経』は同時に《空》を説くもので、
私の芸術論の中心を占める非実体性と、関連をもっている教典です。

近年のカソリックの場合もそうですが、
20世紀になって登場する《解放の神学》の運動が、
大乗カソリックとも言うべき宗教運動です。

民衆の中で実践することが福音そのものであるというような立場を取り、
中南米、フィリピンやインドネシア、東ティモール、ハイチなどで、
多くの実践がなされています。

解放の神学は、社会正義、貧困、人権などにおいて、
《貧者の教会》の立場を打ち出しています。
こうした過激な宗教者の実践の可能性抜きには、
歴史は稼働していかないのです。

私自身は、
異端審問で著作の刊行・配布が禁止されたドイツ神秘主義のエックハルトや、
シオニストのマルティン・ブバーや、
日本の内村鑑三の無教会主義に、
共感して来た系譜を生きていることもあって、
たとえば昨年の2007年にバチカンが否定したジョン・ソブリノの開放の神学にも、
共感性を持っています。

こういう神父たちは、
つねに越境して、貧者の民衆に向かって
果敢に開いていこうとして行きます。

こうした脱ー領土化の運動を欠いては、
宗教は真の社会性を失ってしまうのです。

同様に芸術もまた、
常に、辺境に向かって開かれる運動でもあるのです。

高度な表現の追求は、
同時に、教養の無い無知無能な人々への視線への開放性を持っていなければ、
社会性を失います。

社会性の形成と追求というのは、
実は人類の文明の最初からの問題であって、
芸術の基本は、あくまでもこの《1流》性である社会的理性性をめぐって、
展開しているのです。

《社会的理性》の構成は、
人間の文化の要諦なのです。



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