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フロイトを個人崇拝する愚昧の精神 [アート論]

フロイト全集を買い始めた。
ラカンに従えば、フロイトに帰れという事なんだから、
買うべきではあったのだが、
読んでこなかった訳ではなかったので、
つい、読み切れないだろうという思いがあって、
先延ばしして来た。

読み始めると、
まず、ラカンの教えが凄い事が分かる。

個人崇拝で読まないと、
読めないのである。

フロイトに反発し、
否定する事は、簡単なのだが、
これを乗り越えて、
個人崇拝で読むと、
そこに驚くべき、人生の真理が出現する。

フロイトは錯誤に満ちている外観を超えて、
非常に透徹して近代の知性の持ち主であって、
真理に到達していたのである。

しかしその内容を、
私もまた書けない。

書き得ない内容なのだ。
秘伝と言って良い。
各自が自分で知る意外には無く、
それを語る事が禁じられている。
いやフロイトは誠実に語ったのだが、
だから錯誤にしか見えないのである。

真理とはそうしたものであったのである。

だからラカンの語りは、
宴曲を極め、晦渋で、暗喩と隠喩に満ちたものになる。

さて、そういう訳で、
私の芸術の探求の旅も、
終わったと言える。
結論を読んでしまったのである。

しかもそれを書き得ない。
立ち尽くすだけだ。
終わったのである。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

しかし、
物事は終わった所から始まる。

それは空虚だが、
なお、始まるのだ。
それがまた、
フロイトの言う現実原則というものであるだろう。

フロイトの精神分析自体が、
実は結論を知った後に展開されている、
虚妄であった。

それゆえにこそ、
ラカンの言う様に、
個人崇拝の轍を踏まなければ、
その奥にある真理を知り得ない。



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