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回顧について(加筆4) [アート論]

無事に、最初期のフロアイベントを並べられて、
良かったと思う。

裸でラテックスを撒いているので、
ストリップショーみたいなものなのである。

簡単そうに見えて、初期作品をきちんと保存できる形にするのは、
やさしくないのである。

3年の内にきちんとした写真集にする必要があるが、
3年を目指して、5年以内の実現というのが、やっとだろう。

何故にむずかしいかと言うと、
「初心を忘れる」のが、人間だからである。

正確には、《想像界》の構造が初心や、
起源を忘れたがっている様なのである。

人間は初心を忘れて、
先にだけの夢を見るのである。
しかしそうすると、
展開そのものの意味が構成できなくなる。

実際には、その作家の初期の作品は、
社会的にも評判が良いものではないのである。

実例をあげれば、初期のセザンヌの絵が、高い評価があるのではない。
観客的には、初期作品は、他人に求められていない。
本人もまた、求めていないのかもしれない。

しかしセザンヌの偉大さは、
初心を忘れずに、繰り返し、
初心の回帰するかたちで、螺旋を描く様に作品を展開しているからである。

今回の初期のイベントを写真にして並べる事は、
他人にとってではなく、自分にとって良かったのか、
それとも逆で、他人にとっても良かったのかは、
これはこれで実に微妙であるのでだが、

それでもなお、螺旋運動として作品展開を追求する上では、
重要なターニングポイントになったと思うのである。

日本の観客が私のフロアイベントを見たいと思ってはいないのは知っているが
それでも、私に対する美術史的な評価の一番高い作品なのだである。

自分でも考えてはいたが、
直接のきっかけは、富井玲子さんが、
写真での記録しかない日本の現代美術の作品を、
きちんとコレクションできる形にすることの提案をした事による。

それは私だけでなくて、何人もの作家に呼びかけて、
事実少しそういう動きをする画廊もあった。

この富井さんの提案と、京都のギャラリー16の
坂上しのぶさんの動きが、どこまで連動していたかは確認していないが、
坂上しのぶさんが企画して、
ギャラリー16での私の1972年のフロアイベントを、
22枚の写真のセットにして、展示してくれた。

今回はその続きである。
最初期の22枚を紙焼きしたのである。

富井玲子さんの学術論文も印刷して、
会場で頒布する。

だから基本は、富井玲子さんという美術史家の提案に
対応して行われている自己史の検証作業なのである。

そういう意味では、
他者の欲望に、対応している作品である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

展示してみて分かったのだが、
日本で、何故にきちんとした回顧展が出来ないかは、
もしかすると、作家や学芸員の問題ではなくて、
観客の嗜好の方にあるのかもしれない。
そのことに、はじめて、気がついた。

たとえば、辰野登恵子さんが1995年に国立近代美術館で開催した回顧展でも、
初期の作品が並べられていなかった。

その原因が、観客の嗜好を推量して生まれたのかも、
しれない。

私の昨年のソフトマシン美術館での回顧展でも、
このフロアイベントは並べられていなかったのだが、
それはこれが個人のコレクション展だったからではあるが、
しかし、個人コレクターは、
私の最初期の作品を買いたいとは思わないのも、
確かな事である様に思う。

個人コレクターは、
美術史的には、作家を見ていないのである。

スティーブ・ライヒが日本に初めて来て、演奏した時に見に行っているのだが、
この音楽家の人気も高いのだが、
現在の彼の音楽が好きな人々は、初期の実験性の高い作品は、
聞く事を拒絶するという事を聞いた。

音楽の鑑賞者もまた、
自分の聞きたい音だけを聞いているのであって、
音楽の歴史や、
ミニマルミュージックの発生の歴史を学びたくはないのである。

観客そのものが、自分の嗜好の範囲しか、
受け付けないシステムがあるのかもしれない。

吉原治良は、生涯、円だけを描いていたアーティストである、
という神話があるが、もちろん事実に反しているが、
《想像界》のイメージというのは、そうした分かりやすい神話を
ねつ造して満足する構造なのである。

「生涯、円だけを描いていたアーティスト だから、凄い!」
というような、分かりやすい形で了解したいと欲望しているのが、
この《想像界》の世界なのである。

河原温が、きちんとした回顧展を拒否しているのも、
そうした観客の思い込みの世界に、追随しているという事も、
考えられるのである。

河原さんの最初期の作品や、浴室シリーズ、そして印刷絵画、
そうしたものとの連続の中で、
デイトペインティングを回顧したくないのである。

アメリカの美術館の回顧展は、
きちんとした学問性のある展示をするのだが、
それが日本では希有なことであるのは、
実は日本の観客そのものが学問を拒否しているからかもしれないと、
昨日感じた次第である。

日本人の大多数が《想像界》の単純な神話的了解を求めているのかも
知れない。


教養のない、知的に下層な人々の精神的特徴というのは、
万能感があって、自己中心性が強く、
自己を死守しようとする。

自分しか無い自己中毒なのである。
優れた他者を評価し、崇拝すると言うことを
したがらない。
「俺は他人のマネはしない」と、
「私は自分の頭で考えるのであって、だから他人の書いた本は読まない」と
言うのである。
だから学習力が無い。

こういう人々は、もしかすると、きちんとした回顧展というものを、
嫌う傾向があるのかもしれない。

そもそも美術史そのものが、
嫌なのである。

こういう観客と、どういう風に向き合うのが良いのか?
むずかしい所だが、
しかし、実際にこうした観客が本当にいるのか、
それとも、そうした世評を、《想像界》で空想しているのか?
それもむずかしいのである。

私は、こうした他者が重要ではあるのと思うが、
それをかってに予想して組み立てて行く事もまた、
間違いであると思う。

こうして観客論というのも、
なかなか、むずかしいのである。

自分だけに閉じこもっている自己中毒の人は、
実は安全無害であって、この人たちと争うのは、
止めた方が良い。
同時に、このタイプの人は、
意味が無いのだから、ほっておいて、
観客としても無視していいのではないのか。

だいたい自己中毒のひとは、自分の事しか考えていないのだから、
観客としても意味は無いのである。

結論
自己中毒の人は、
観客ではない。

10人中、6人は自己中毒だから、
こう決めると、
人数は、ずいぶんと減るのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、ここまで来て、観客には
2種類の観客がいることが分かった。

一つは自己中毒で、万能感にとりつかれ、
自己中心的にしか考えられない6割の人々である。
彼らこそが多数派であり、
お金を得る為には、彼らに向けて作品を作る必要がある。

もう一つが、少数の知的な人々である。

さて、アーティストが他者という観客に向き合うとすると、
実は、この2種類の観客と向き合う事を考えなければならない。

村上隆も、ダミアンハーストも、
6割の多数派を観客とする事で、成功したのである。


タグ:回顧
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コメント 1

NY GAL

ご参考までに。。。
富井さんが、ほかのプロジェクトの関係でG16の坂上さんと
知り合いになりました。
写真からパフォーマンスのコレクションを
作るという美術史的要請を最初に英語でテキスト化した、
その直後の夏、坂上さんを訪れて、その話をしたら、
坂上さんはG16の彦坂のフロア・イベントの写真作品化を
考えていた、というアイディアの一致がありました。
by NY GAL (2008-07-07 01:28) 

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