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観客を作り出す(1) [アート論]

今日は、電車に乗ったり、歩きながら、
人の顔を見ながら考えていた。

人の顔をじろじろ見る訳には行かないから、
素早く見て行くだけだが、
最近は判定なれしてきていて、一つに絞れば早い。
多くの人は《想像界》しか無い顔である。

時々、3界のある人とか、《象徴界》のある人がいる。
歩いていては、《現実界》だけの顔の人には出会わない。

人の顔を見ながら、
この人たちは、私の観客なのだろうか?
と考える。

「NO!」という答えが、帰ってくる。

こうしたことを考えながら移動していると、
改めて反省させられるのは、
学生時代から、現代美術や、前衛芸術の分かる人たちだけを、
どこかで前提にして、自分の観客を考えて来ている事に、
気がつくのである。

前衛主義が生きていた時は、
いつかは、遅れて、一般の人も理解するようになるという、
そういう前提があったのである。

思い出すのは、美共闘レボルーション委員会を私が企画したときである。
1971年、
自分の自宅での作品では、当時のスターアーティストの高松次郎先生を呼んで、
美術手帖に書いてもらっていた。
専門家に見せているのである。

山中信夫が多摩川でやる「川に川を映す」という作品をどうするか、
困った。
そこで近くに住んでいる美術評論家の東野芳明氏に、
無理をいって来てもらった。

準備をしている時に、
近くの人が通りかかって「何をしているのですか?」と聞いた。
その時に、田島簾仁という、今はデザイナーになっている男が、
「趣味です」と答えて、それを非難した事は覚えている。
「趣味は、無いだろう」と言って怒ったのだ。

しかし当時、
道を通る普通の人にきちんと説明して、
作品を見てもらうという事は、
私は考えていなかったのである。

そういう、一般の人に対する無意識の切断性は、
その後も続くのである。

いろいろな経緯はたどっていて、複雑ではある。
作品を売って来ているので、
それなりに、他人の伝える努力はして来ている。

文章もそうだが、
他人に伝える努力はして来ている。

しかし、抽象美術を分からない人を、
観客とは考えないで来ていたのだと、
思う。

もちろん、前衛の時代は終わってしまっているから、
前衛を評価する人々も消えてしまった。

そして現代美術の制度もまた、
事実上解体してしまって、
残っている残党もまた、無惨に退化している。

今気がつく事は、観客は居なくなっているのである。

私が付き合っている若いアーティストのほとんどは、
細かい違いはあるが、
乱暴に言えば抽象美術は分からないのである。

先日座談会をした会田誠さんも抽象美術が分からなかったが、
村上隆さんも、奈良美智さんも、
抽象美術は、分からないと思う。

東京芸術大学の博士課程をとっていて、
天下のPhd.取得アーティストである村上隆さんも、
松井冬子さんも、抽象美術が分からないはずである。

分かれば、ああいうひどい絵画を描いてはいないのである。
そしてまた、《想像界》だけの顔をしていないのである。

つまり《想像界》の精神しか無い人は、
抽象美術は理解できないのである、
ということは、心底理解できる様になったのである。

ラカン理論では、
人間は《象徴界》《象徴界》《現実界》の3界を持っているはずなのだが、
しかし、それには精神的な成長が必要なのである。

赤ん坊の時から、3界が、自明に備わっている人は、
いない。
だから、精神的に成長すれば、
《象徴界》は出てくるのだ。
自分の娘では、そのプロセスを観察することが出来た。

しかしそういう成長過程を、
他人に強制できるものではない。
だから10人中6人の人が、《想像界》
しか無い人と、推量するのである。

《想像界》しかないという言い方は、
実は事実に反するのかもしれない。
つまり3界はあっても、
主たる精神活動が、
《想像界》の主導性に於いてなされている人々である。

彼らは変わらないという事は、
多くの人と、やり合ってきて、
それは理解することができた。

自分の観客が居ないとすれば、
どうするのか?

新しく、再度、観客を作り出して行くしかない。

(つづく)

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ひこさか なおよし/1946年、東京世田谷生まれ。ブロガー、美術批評家、美術家
日本建築学会会員、日本ラカン協会幹事、アートスタディーズ・ディレクター
著書に『反覆・新興芸術の位相』(田畑書店)
『彦坂尚嘉のエクリチュール/日本現代美術家の思考』(三和書籍)




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コメント 1

丈

私も、時代が進めば「抽象」を理解する人が増えると
漠然と思っていました。

「現代アート」というデザインとごちゃ混ぜの領域では
「生活に奉仕する芸術」がコンセンサスになっているようで
気の利いた装飾、部屋のオサレなアクセントとして
「抽象」も享受される、という事はあるようですが。

抽象専門の老舗の画廊でも、勤務するスタッフ自体が
グリーンバーグのグの字も知らない(興味がない)
ので少々驚きました…
by (2008-07-11 09:52) 

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