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花について(4)《想像界》の作品構造 [アート論]

川内倫子1.jpg

川内倫子
《想像界》で《1流》
《象徴界》で《6流》
《現実界》で《6流》

川内倫子の花は、《想像界》の作品で、
《想像界》が《1流》なのです。

ですから《想像界》の眼で作っているだろう川内倫子は、
自分の作品を《1流》作品だと思って、
いるのだろうと思います。

そして《想像界》の眼で見ると、非合法性があって、非実体性もあって、
さらに《退化性》があるという風に見えるので、
《想像界》の眼で見る限り、
これは真性の芸術になります。

ですから《想像界》の眼で見る観客も、
《1流》の芸術写真だと思っているのだろうと思います。

私の方は、《象徴界》の眼で見ているので、
そうすると川内倫子の写真は《1流》ではなくて《6流》写真で、
合法的実体的な
デザインエンターテイメント写真でしかないわけです。

建築家の人は《現実界》の眼の人が多いので、
《現実界》の眼で見ると《6流》写真で、
合法的実体的な
デザインエンターテイメント写真だと思っているだろうと思います。


この川内倫子の写真を、メイプルソープと比較してみます。
これも写真面積を同じにしてあります。

川内倫子/メイプルソープ.jpg

どちらも花のクローズアップで、同じ手法の様に見えます。
しかし、厚み感覚とか、精神性とか、
作品の強さと言うか、強靭な精神性とか、
そうした何かが、違います。

《想像界》でも、川内倫子は《1流》ですが、
メイプルソープは、《超1流》ですから、
その違いは、まず、あります。

《象徴界》で比較すると、
川内倫子は《6流》で、
メイプルソープは「《超1流》〜《7流》の重層表現」なので、
その差は大きいのです。
ですから、《象徴界》の眼で見ている人からは、
この2つの写真の差は、違いの大きいものなのです。

しかし《想像界》の眼で見ている多くの人からは、
そこまでの差が見えなくて,
同じ様なクローズアップによる花の写真に見えるのです。

《現実界》の眼で比較すると、
川内倫子は《6流》で、メイプルソープは《超1流》で、
これも差が大きいのです。

では、《想像界》の作品同士を比較すると、
どうなるでしょうか?

荒木経惟と川内倫子の比較です。

川内倫子/荒木経惟.jpg

《想像界》の眼では、
両方とも、《1流》ですので、
《想像界》の眼で見ている限りは、同じ様な花の絵に見えるはずです。

しかし、にもかかわらず、花の性器性を露骨化している、
荒木経惟の写真の下品な強さは、意識せざるを得ません。

《象徴界》で比較すると、
荒木経惟の花は《21流》で、川内倫子は《6流》です。
この差は、《想像界》の眼で見ていても、
透けてくるのです。

そうすると、彦坂尚嘉が主張する、
《想像界》だけの作品という様な言い方はおかしいのではないか?

つまり荒木経惟は、《想像界》の眼では《1流》の作品を作りながらも、
やはり《象徴界》の《21流》性を潜在させているのですから、
《21流》という、その領域が、初期の「さっちん」から潜在されているということが、
かなり決定的な特徴なのです。

荒木経惟は、
生きて行く時に、
《想像界》の主体を立ち上げて意識化しているのでしょう、
この自然性を意識して脱していないのだろうと、
思います。

荒木経惟は、生まれた時から、
下町の下品な《21流》性を持ってそだっていて、
この《象徴界》性を高める教養を形成しなかったのではないでしょうか。

つまり宗教書や、哲学書といった《象徴界》の学習をしないで、
下町の下品さのままで育ったのではないか?

荒木経惟は1940年、東京都台東区三ノ輪生まれ。
1963年千葉大学工学部写真印刷工学科を卒業

雑に言えば、
荒木経惟は上野で生まれて育っているわけで、
上野の持っている猥雑さや下品さが、
そのまま人格形成に大きな影響を与えているのではないか?

3352_2.jpg
5620417.jpg

荒木経惟の顔である。

普段はサングラスでごまかさられているが、
眼の見える写真を探し出してくると、
普通のおじさんの顔である。

《想像界》で《1流》
《象徴界》で《21流》
《現実界》で《8流》
《想像界》しか無い人。
気体人間。

気体人間という新しさが大きかったと思うけれども、
この場合、彦坂が《想像界》しか無い人と、判断しておきながら、
《象徴界》が21流であることが大きいというのは、
どういう事を意味しているのだろうか?

荒木経惟/コールハース.jpg

荒木経惟と、建築家のレム・コールハースの顔を比べてみる。
コールハースも《象徴界》が《21流》の人である。

もう一枚の写真で比べてみる。
Koolhaas/荒木経惟3.jpg

《象徴界》が同じ《21流》でも、
ずいぶんと違う顔をしている。
精神性や、知性が違うのだ。
もちろん違う人物なのだから、違うのは当たり前だが、

コールハース
《想像界》が《21流》
《象徴界》が《2流》から《21流》の重層人格
《現実界》が、《1流》

荒木経惟
    《想像界》が《1流》
《象徴界》が《21流》
《現実界》が《8流》

じ《21流》でも、ずいぶんと違う。
それに、彦坂尚嘉の言語判定法だと、
荒木経惟は《想像界》だけの人格だが、
コールハースの人格は、《想像界》《象徴界》《現実界》の
3界のある人格である。

しかしだからと言って、
荒木経惟の《想像界》の人格の《1流》性だけがあるのではなくて、
《象徴界》の《21流》性や、《現実界》の《8流》性が潜在しているのだが、
人格としては《想像界》の人格だけが主導権をもっている人なのである。
つまり主体は《想像界》の人格だけが主体性を持っている。

それに対してコールハースの人格は、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界の人格主体があって、
3つの主体の複合としての三位一体の人格が形成されている。
だから人物としても、荒木経惟と比較すると、
コールハースの方が、人格的にくっきりとしているし、
それにコールハースは悩んでいる顔をしているのである。

川内倫子/荒木経惟.jpg

こう見てくると、
写真を鑑賞する時には、
この上の2枚を《想像界》が《1流》であるという共通性だけで、
同じような写真とは、言えないのである。

潜在している《21流》性と《6流》性という《象徴界》の領域の差、
そして同じく《21流》と《6流》の《現実界》の差が、
この2枚の写真の鑑賞の中で、重要なものを形成しているのである。

だから彦坂尚嘉としては、
3界による分析が、芸術分析として、
一定の効果を生みえるのである、という主張になる。

《言語判定法》での評価に対する疑問はあるのだろうが、
しかし従来の印象批評よりも、
より分析的な結果を出せると、
私は、思うのである。

念の為に繰り返し言うと、
こうした格付けというのは、
有名なムーディーズという格付け会社の場合もそう主張しているが、
あくまでもムーディーズなり、彦坂尚嘉という
特定に判断者の主観判断であって、
客観的なものではない。
そもそも批評というものそのものが、
常に主観の判断なのである。
そのことをご了解願いたい。



















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