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《想像界》の台頭(加筆6) [アート論]

昨日、遅まきながら、
森美術館のターナー賞展を見て来た。

入り口のターナー1775年 - 1851年1)の作品が、
《6流》で、売り絵で、ひどいものなので、
笑ってしまった。

ターナーは嫌というほど、
テート・ギャラリー見ているが、
《想像界》の作家で、駄目な作家である。

800px-Rain_Steam_and_Speed_the_Great_Western_Railway.jpg

《想像界》は《1流》で、ここでは芸術に見える。

しかし《象徴界》は《6流》で、
デザイン的エンターテイメントである。

《現実界》も《6流》で、デザイン的エンターテイメントである。

まあ、馬鹿にするしかない作家である。
こういうものを崇めるイギリス美術界というのも、
どうしようもないひどい所である。

ターナーを駄目だと思う人は、
私だけでなくて、
ロンドンに行ったことのある美術関係者のかなりの人は、
同じ意見だと思っている。

しかし実はそれは専門家の意見というものであって、
《想像界》だけの眼で、通俗的に美術史を見ている人には、
分からない事である。

実際、《想像界》の眼で見ると、ターナーはよく見えるし、
《退化性》はないから真性の芸術とは言えないにしろ、
印象派の先駆として、偉大な芸術家ということになる。

印象派の先駆者として評価する気持ちは分かるが、
それならむしろ、
ターナーと同時代の
ジョン・コンスタブル(1776年6月11日 - 1837年) 
である。
彼はすごい。

770px-John_Constable_017.jpg

《想像界》で《1流》で、真性の芸術。
《象徴界》で《超1流》で、真性の芸術。
《現実界》で《超1流》で、真性の芸術。
すごい三位一体の真性の芸術家である。

ところが、とちらは素人受けはしないのである。
まあ、イラスト的に派手ではないし、
何がおもしろいのか、分からない絵である。

だが、こちらが良いのである(笑)。

困った事だが、
素人の《想像界》の眼と、
玄人の3界の眼を埋める事は出来ないのである。

つまり、2つの美術史がある。
そして社会的に表の美術史というのは、
ターナー的な、《想像界》だけで芸術遊びをした浅い作品なのである。
こちらの方が、派手につくれるし、
分かりやすいのである。

こうした事実は、少なくとも認めなければならない。

実際にはターナーの絵は、膨大に残って、
それが国家の寄贈されて残っているのである。
あれらは売れ残りの絵画なのである。
そうしたものなのである。

だから日本の現代美術も膨大に売れ残りがあるので、
日本の現代美術のアーティストは、
死ぬ前に国家に作品を寄贈すれば、
すばらしいアーティストという事になれるんである(笑)。
こうした売れ残り寄贈国家美術館を建設すると言う、
大プロジェクトをつくって、
署名運動でもはじめようかしら(笑)

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

展覧会は、ひどいと言う噂を、
若い友人たちからさんざんに聞かされていたので、
思ったよりは面白かったが、
歩きながら考えていたのは、
《想像界》の視点で、美術を見ているのが、
どこから始まったのか?
ということであった。

自分の体験でいうと、
1968年、9年頃、
町を歩いていても、何でも芸術に見える時期があったが、
あのときからだと、思うのである。

《想像界》で見ると、
何でもないものも、芸術に見えてしまうのである。

歩いていて、
工業製品や、コンクリの固まり、
鉄のアングル、
なんでも芸術になっていた。

先日も、ある待合室で、
《想像界》の眼で見る訓練をしていて、
ビニールがけの大きなソファーを見つめていると、
芸術に見えて来た。
ああ、
こういう調子で、笠原恵実子は、
デビューしたての頃は、椅子のような
作品を使っていたのかと思い出した。

笠原恵実子1.jpg

笠原恵実子2.jpg

笠原恵実子
 《想像界》で《1流》で、非実体性と非合法性があって、
芸術になっているのである。しかし《退化性》はない。
 
 しかし《象徴界》で見ると、《6流》で、合法的で、実体的で、
単なるデザイン的なエンターテイメントでしかない。

 《現実界》で見ると,同じ様に、
《6流》で、合法的で、実体的で、
単なるデザイン的なエンターテイメントでしかない。

つまり笠原恵実子は、《想像界》だけで、
芸術遊びをしている作家なのである。

こういう《想像界》だけの現象が、たぶん、
1960年代の後半から始まったのだろうと、
思う。
それはさらに、幽霊や、迷信、占いの復活となって
台頭してくる。
これらも《想像界》の精神状態の特徴なのである。

アメリカのベトナム戦争を背景にして、
そうした《想像界》だけの世界が復活して来たのである。

そしてアメリカがベトナムに敗北すると、
近代の啓蒙主義に代表される《象徴界》が、退場した。

そしてスティーヴン・E・キングのモダンホラーが台頭してくる。
まさに《想像界》の魑魅魍魎の世界が蘇ったのである。

なんのことはない、自分の人生は、
実はこうした《想像界》の台頭と、
そして近代の《象徴界》の退場と重なっていたのである。

何で,そんな事に気がつかなかったのだろうと思うけれども、
まあ、どこかで真面目に芸術を考えて、
追ってしまって行くと、
そういう《想像界》の潮流の流れからは、
ずれてしまったのだろう。

1980年代のニューウエーブも、
私自身は、先駆けであったけれども、
その主流には、ついて行けなかったのである。

辰野登恵子さんよりも、
私は早くに走っていたが、
しかし彼女が団体展の美術を評価し始めても、
私には、それは信じられなかった。

まあ、しかたがない。

しかし、自分の《言語判定法》も、
このブログで書いていると、
何とか、他人の眼差しとの差をとらえようとしてきて、
3界のそれぞれで、見る訓練ができて、
逆に芸術という構造は、良く分かって来た。

つまり、良い作品は、
《想像界》、《象徴界》、《現実界》の3界で、
それぞれ、きちんと芸術である必要があるのである。

しかし3界の精神と人格に到達するのには、
時間も経験も、訓練も、学習も、そして試練も必要なのである。

多くの観客と、作家は、
《想像界》という1/3だけでの領域での芸術を、
それでも、それなりに探求しているのであるから、
めくじら建てなくても良いのだと思う。

しかし鴻池朋子の様な人は、
《想像界》でも芸術ではないのである(笑)。
なかなか、たいした事態である。

そして建築界の人々の多くは《現実界》の眼が優れていて、
その視点で考えている。
《現実界》で見ると、
どうしても絵画が弱いのである。
《現実界》では、絵画の善し悪しが分からないようである。

しかし建築の人々の
彫刻を見る目は、なかなかである。

どちらにしろ3界の視線が必要なはずであると、
私は考えるが、
現実はむしろ3界が分裂して、
バラバラになって行く方向になっている。

人間の精神が解体して行くのである。
それが歴史的必然というものなのであろう。

ターナー賞も、
イギリスの駄目さを良く表しているのだが、
日本も同様であって、
こういう限界からは、地域は出られないのである。

そういう意味では、
地域の外に溢れ出て行くしか無いのである。

外に向かって行くというのも、
この歳で,今更とは思うが、
しかしいくつになっても、
外部に向かって、流出して行く事を考えたい。

《想像界》の台頭の後の時代は、
循環系の時代であるはずなのだが、
まあ、成り行きにまかせるしかない(笑)。



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