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山口百恵の顔(1/4)真性の芸術 [新・美人論]

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この画像はレコード専門店・ディスクオオツカからの転載です。
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さて、山口百恵の顔です。美人の顔を一枚の名画のように鑑賞し
てみようと思います。何しろ21歳で引退した山口百恵の美人性
を論じるのですから、できるだけ、若い人向きに、分かりやすく
書こうと思います。

まず、私の書こうとする事は、芸能批評ではないのです。芸能批
評家ではなくて、「美人は、芸術なのである」という主張です。
私は現代美術家ですので、だから私が,美人を、芸術であるとし
て分析するのです。

こういう考え方は,現代美術では、すでにあったものなのです。
ギルバート&ジョージという、イギリスのホモの現代アーティス
トたちは、「生きている彫刻」ということを主張しました。石や
ブロンズという耐久性のある彫刻ではなくて、生きている人間そ
のものを彫刻であると言い出したのです。それは一面で見ると、
固い物質を介在させない直接的な生肉のパフォーマンス芸術の成
立の主張です。もう一つは物質文明の物質芸術を乗り越えようと
する、情報化社会の《情報アート》の主張でありました。芸術は、
物質である《もの》ではなくて、「生きている彫刻」と言う情報
そのもので、芸術であるということが成立するという考え方です。

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つまりホモの自分たち自身なのですが、それが芸術であるとして、
写真を撮ったり,歌を歌うビデオ作品をつくりました。日本にも
来て、青山にあったアートエイジェンシ東京という大きな画廊で
パフォーマンスもやって、私は一番前に座って見ていました。彼
らの歌もパフォーマンスそのものも、、エンターテイメントの芸
としては下手なものでした。エンターテイメントととしてのポジ
ティブな価値はなかったのです。退屈で凡庸で下手で、良いもの
ではありませんでした。しかしネガティブに芸術として面白かっ
たのです。なぜに面白いのか? 馬鹿げていてネガティブに悪い
冗談としてのナンセンスさやニヒリズムの面白さであったのです。

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ギルバート&ジョージ 
《想像界》の眼で、《8流》
《象徴界》の眼で、《超1流》から《41流》の多層重層表現。
《現実界》の眼で、《1流》

《想像界》で、非実体、非合法、《退化性》があって真性の芸術。
《象徴界》で、《退化性》は無い不完全な芸術。
《現実界》では、たんなるデザイン的エンターテイメント

ギルバート&ジョージの「生きている彫刻」という作品は、《現
実界》の芸術でありました。芸術というものは、いろいろあって、
ファンタジーのアートである《想像界》の芸術、そして哲学的
アートである《象徴界》の芸術というのも、あるのですが、
ギルバート&ジョージの作品は、《現実界》の作品でありました。
それは禅と同じ様なものなのですが、《空》とか《無》の芸術です。
そこに、実は意味はなにも無いのです。高尚な意味をもっていた芸
術を、《現実界》に還元してしまうと、馬鹿しいホモの二人組の肉
体が、下手な歌をうたっているというネガティブな事実だけの《無》
や《空》が出現するのです。芸術としては、完全ではなくて、不完
全でしたが、そのマイナスのナンセンスさが、人を引きつけたのです。
              
芸術というものが、「生きている彫刻」、さらには「生きている絵画」
としてありうるという視点は、馬鹿馬鹿しくても正当なものであった
と,私は考えます。

芸術とは、実は単に、ネガティブによって人を引きつけて行くもの
だからです。
人を魅了する方法には2つあって、ポジティブの引きつけるものと。
ネガティブに引きつけるものがあります。本当は、この2つが、
繰り返し折り返されて複雑なのですが、結局、どちらかが優勢に
なって、ポジテッィブなものをエンターテイメントと呼びます。
そしてネガティブな魅了性を、芸術というのです。


芸術の基本は、他人を魅了するということの中にあります。これについ
ては、イギリスのBBCがつくって、NHKでも放送した、優れたアート
番組How Art Made the World(邦題「芸術のわな」)』の『第1回人物像
の誕生』が指摘している視点なのです。必見のアート番組です。
http://www.bbcjapan.co.jp/tv/music_art/02_how_art_made.html

つまり芸術は、絵画とか、彫刻といった《形式》の中にあるのではあり
ません。膨大な絵画作品の多くは、芸術ではありません。彫刻も同様で、
大半の彫刻作品は、芸術ではありません。
こういう言い方が過激すぎるのなら、若干の留保をつければ、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界すべてで、真性の芸術たりえて
いる絵画や、彫刻はわずかしかないのです
《形式》は重要なものですが、《形式》だけでは芸術になり得ないのです。

正確に言えば、芸術というエッセンスそのものは気体状態のものであって、
形式から蒸発してしまって、自由に越境して行くものなのです。
逃げ水の様に、気体は、逃げて行くのです。それが情報化社会の《情報ア
ート》の姿なのです。とらえられないような不確かさと、意味の喪失。
それは私たち自身の人間関係が頼りのないものになり、人生の意味が
分からなくなる事と対応しています。ニヒリズムの時代が幕を開けたの
です。
そうした時に、むしろ「生きている絵画」としての美人の方に、真性の
芸術が存在しているのです。美人というのは、実は人体と言う《形式》
を有しているのであって、人体とか肖像とかいうものは、《偶像崇拝芸
術》の形式をもっているのです。(ただし《抽象芸術》ではありません)

美人というものは、鑑賞しうるのであり、事実、私たちは鑑賞して来て
いるのです。キャンバスの描かれた絵画や彫刻は、善し悪しを理解する
のがむずかしいのですが、美人は分かりやすいのです。べての美人が芸術
であるのではありませんが、しかし美人の中には、芸術である者がいる
のです。つまり《芸術》は、本当はむずかしいものではなくて、《偶像
崇拝アート》は、私たちが普段に眼にして、引きつけられているスター性
の中に、あるものなのです。

先ほど、ギルバート&ジョージの歌やパフォーマンスは、下手だと言
いましたが、山口百恵が、歌手として傑出しているのではありません。
そして音楽として優れているものでもありません。山口百恵の歌は
《2流》で、デザイン的エンターテイメントでしかありません。たわいも
ないものだと、私は思います。異論は多くあるとは思いますが、それが
私の考えです。私の論じるのはあくまでも、美人論として、山口百恵を評
価するのです。そのことを、お断りしておきます。

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この画像は中国サイトからの転載の転載です。
出典・苦しみのバラ Photoの広場
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さて、山口百恵の顔は、芸術であったのでしょうか?
山口百恵の瞳に見入って見て欲しい。悲しみに沈んだ眼をしている。
国民的アイドルとされる山口百恵の顔である。何故に、彼女は21歳で
引退したのでしょうか?
21歳ですよ!
そして悲しみに満ちた彼女は、美しいのでしょうか?
彼女の悲しみが、人々を引きつけたのです。他人の不幸は《蜜の味》な
のです。そして人間の《不幸》や《苦しみ》こそが本物の芸術を作り出
すのです。21歳で引退するしか選択できなかった女の悲しみが、人々
を引きつけた。もう少し厳密に分析してみましょう。
ただし私の言語判定法による分析は、あくまでも彦坂尚嘉の主観による
芸術分析なのです。異論のある方が多いとは思いますが、それは私の責
任でしている個人の分析なので、お許し願いたいと思います。

山口百恵の顔

まず、驚くべきは、この写真で見ると、彼女は、《想像界》
《象徴界》《現実界》の3界すべてで、非合法性があり、
非実体性があり、しかも《退化性》があって、真性の芸術なのです。

山口百恵は、美人として、真性の芸術であったのです。

しかし、《ハイアート》ではありません。《ローアート》です。
日本語で言えば、高級芸術ではなくて、大衆芸術です。

《偶像崇拝アート》であって、抽象芸術ではありません。

だがしかし、《きばらしアート》ではなくて、《シリアス・アート》
であったのです。このことは、重要なことであります。


そして《現実界の芸術》でありました。これを説明するのは、難しい
のですが、つまりデュシャンの便器を使った『泉』という作品の様な
《現実界》の芸術作品であったのです。言い換えると、無意味な、
芸術です。斬新で面白いのですが、無意味性が強いのです。ニヒリ
ズムです。このことは、山口百恵自身が、一番無意味=ニヒルに感じ
る事であったと思います。


《想像界》の眼で、《1流》美人。
《象徴界》の眼で、《8流》
《現実界》の眼で、《8流》

《想像界》の眼で見れば《1流》美人ですが,
しかし、《象徴界》《現実界》でみれば《8流》であるのです。

《8流》というのは信仰領域で、
新興宗教のように、信じるものには、素晴らしく見える領域です。

山口百恵を信じれば、彼女は美しく見える。
これは新興宗教の領域に、
山口百恵が立っていたことを意味します。

日本中が、山口百恵教を信じたのです。
平岡 正明が主張した「山口百恵は菩薩である」であると言う意味は、
実は、山口百恵が、《8流》領域に、深く根ざしている事をであった
のです。回りは熱狂して彼女を崇拝しても、山口百恵自身には、
それもまた、無意味でニヒルに見るしかなかったのです。

《8流》というのは、迷信の領域でもあるのですが、それは私たちの生活
世界を浸しているのです。 スチュアート・A. ヴァイスという人の
人はなぜ迷信を信じるのか―思いこみの心理学』という本が、朝日新聞
社から出ていますが、なかなかの名著です。観客は迷信を信じたのですが、
山口百恵には、こうした観客の熱狂も無意味に見えていたのです。

しかし《8流》性が強いとはいえ、山口百恵が、《シリアス・アート》
あり、《現実界の真性の芸術》であったというのは、驚きであります。
芸術分析をして、私も初めて知った事柄なのです。

黒木メイサと比較してみましょう。

黒木メイサ/山口百恵.jpg

黒木メイサの顔

《想像界》の眼で、《8流》。
《象徴界》の眼で、《超1流》から《7流》の重層美人。
《現実界》の眼で、《超1流》美人。

黒木メイサは、《超1流》の美人なのですが、
3界のどこでも合法的で、実体的で、芸術ではありません。
デザイン的エンターテイメント美人なのです。

もう1人代表的な美人・仲間由紀恵と比較して見ると、
少し分かります。

仲間/山口.jpg

仲間由紀恵の顔
《想像界》の眼で《1流》
《象徴界》の眼で《1流》
《現実界》の眼で《1流》

仲間由紀恵は、典型的な《1流》美人ですが、
3界のどこでも合法的で、実体的で、芸術ではありません。
デザイン的エンターテイメント美人なのです。

山口百恵が《象徴界》《現実界》で《8流》のところを、
仲間由紀恵は《1流》なので、
その差はあるのです。

《1流》というのは、社会的理性領域で、
《1流》美人というのが、正確な意味での美人であります。
まあ、退屈ではありますが、きれいなのです。

もう一枚、仲間由紀恵のごくせんの写真と比較してみましょう。

仲間/山口2.jpg


『ごくせん』の仲間由紀恵の顔
《想像界》の眼で、《1流》
《象徴界》の眼で、《超1流》から《7流》までの重層美人。
《現実界》の眼で、《超1流》美人。

ごくせんでは、仲間由紀恵は眼鏡をかけ、3枚目的になることで、
《1流》美人の限界を超えて、《超1流》の美人になっている。

しかも《想像界》《象徴界》《現実界》の3界すべてで、
非合法性があり、
非実体性があり、
しかも《退化性》があって、真性の芸術なのです。

信じてもらえないでしょうが、ごくせんを演じる仲間由紀恵は、
デザイン的エンターテイメントを超えて、
真性の芸術になっていたのです。だから人気が出たのです。
人々は、芸術になったものに引きつけられているのです。

もちろんローアートです。
そして、きばらしアートであって、
《シリアス・アート》ではありません。
偶像崇拝アートであって、抽象芸術ではありません。

山口百恵の顔が、
ローアートとはいえ、真性の芸術であり、
そして《シリアス・アート》であったことが、
人々を魅了したのです。

《想像界》の眼で、《1流》
《象徴界》の眼で、《超1流》から《7流》までの重層美人。
《現実界》の眼で、《超1流》美人。

こうした仲間由紀恵の写真と比較した時に、
気ずくことの一つは、
山口百恵の顔の暗さと、鬱病的な表情である。
人格が、内面で荒廃している。

それと年齢の問題である。
仲間由紀恵が、はじめてごくせんをやったのは、
23歳である。
山口百恵が引退したのは21歳である。

私たちが見ているほとんどの山口百恵の写真は、
だから21歳前に撮影されたものだが、
それが21歳とは思えない、荒廃した女性の顔をしている。

img10031023717.jpeg

横須賀ストーリーの時は、17歳であるから、
この写真は17歳の女性なのである。
この顔の暗さと、鬱病的な表情は、何なのだろうか?



タグ:山口百恵
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