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「批評について」その後/作るべき作品 [アート論]

白濱雅也さんを傷つけてしまったかと、
心配していたのですが、
加藤泉について書いたブログを読んでくださって、
電話をくれました。

白濱雅也さんは、ずいぶん早くから
加藤泉に興味を持って、彼の作品を見て来た人でありました。

それだけに、私の芸術分析の厳しさに驚いて、
興味深く読んでくれたようです。
先日の加藤泉の個展も見ていて、それは失望したようです。

さて、白濱雅也さんが、
私のアドバイスに対応して、
ご自分のブログに、初期作品画像を立ち上げてくれました。

それを見ると、
驚くべき事があったのであります。

白濱雅也.jpg
白濱雅也 「武装する裸の王様」1987年人形たち展応募作品

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技法的には石塑粘土を固めて彫刻刀で彫るというもの。
童話の引用、擬人化、情景的表現、メルヘン的世界、ネガティブイメージなど。
象徴派、ボッシュなどは知っていたのでその影響下にあるという。

まず、驚くのは、アートの格付けをしたその結果です。

《想像界》の眼で《1流》で、真性の芸樹。
《象徴界》の眼で《1流》で、真性の芸術。
《現実界》の眼で《1流》で、真性の芸術。

《ローアート=民衆芸術》

この初期作品にこそ、白濱雅也さんの芸術の原点があったのです。

これだけ付き合っていて、初期作品の重要性を私が言っても、
この作品が出てくるのは、今回が初めてです。

いかに初心を忘れようとする抑圧が強いものであるかが分かります。

実見はしていないですが、この作品の展開を300点つくることが、
白濱雅也さんに、絶対に必要であると思います。

300点作りえれば、すべてが変わるのです。

そのことがやさしい事ではないにしても、
初期の原点にこそ、その作家の作るべき作品があるのです。

このことで、何よりも驚く事は、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界を持った作品を作っている事であります。

つまり白濱雅也さんは、もともとは3界の精神を持っていた人格なのかもしれません。
現在の《想像界》を主体として人格は、もともとのものを、
社会に合わせて変形したものなのであるかもしれないのです。

現実の日本社会は、《想像界》を中心にしたいい加減なものだからです。

そういう、人格の変形の可能性を思い描いた次第です。



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