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四国から帰って(加筆2) [アート論]

いま、四国から帰ってきました。

帰って来て、ブログを書き出して、
2度失敗して、書いた記事が消えました。

こういう時に、普通だと嫌になって止めるのですが、
「普通だと止める」ということを認識して、
乗り越えないと、毎日は書いては、行けないものなのです。

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■瀬戸大橋

朝、4時起きで、新幹線は指定席が取れなくて、
帰省ラッシュですから立ちっぱなしで新神戸まで、
新神戸から岡山までは座れました。
岡山から特急・南風で、丸亀へ。

昔は飛行機で高松まで行きましたが、
最近は新幹線を使う様になりました。
瀬戸大橋を電車で渡るのが、何よりもきれいで、それを見るのが好きだからです。

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《想像界》の眼で《1流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《11流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《超1流》、デザイン的エンターテイメント。

自然というのは《6流》なのですが、
瀬戸大橋のような人工物が出来ると《1流》にアップします。

つまりアボリジニ (Aborigine) のような自然採取の世界は《6流》ですが、
農業が始まって、ナイル川沿岸に人が集まり文明が発生すると、
ピラミッドのような大構築物が作られて、自然は《1流》の世界に変貌するのです。
つまり瀬戸大橋の出現は、現代のピラミッドであって、
その美しさの鑑賞というのは、
文明の鑑賞として、本質的な意味を持っています。

《11流》というのは、交通領域です。
《超1流》というのは、瀬戸大橋の、その姿の大規模性であります。

■とまと絵

昨晩、お土産を買うのでデで探していたら、
トマトゼリーを見つけて、
それが赤い箱できれいで、
それにとまと絵を付けようと思い立って、
紙と、赤いマットと、赤い額縁を用意して、
夜、急遽、とまと絵を描きだして、
2枚仕上げて、持って来たのです。

額縁は、これも赤いきれいなのを用意したのですが、
それがネジが緩まなくて、額縁は断念しました。
迎えに来てくれたソフトマシーン美術館の伏見修氏に、
このトマトゼリーと、トマト絵を差し上げたら、
受けました。
額は、返品交換して、お送りするつもりです。

今回の四国行きのメインは、
虎丸旅館を見る事でした。
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まだ、詳しい事は書けませんが、
小さな企画ですが、
参加するつもりで、見に行ったのです。

この企画をたてたのは、Gallery ARATEの梅谷幾代さんです。
今回の旅行の目的は、この梅谷幾代さんとお話をするのが、
メイン目的でした。

普通の旅館ですが、しかし《1流》性が、心配りの中で形成されていて、
なかなかたいした旅館でした。
建築もきれいでしたし、
内装も《1流》でした。
お料理もおいしいとのこと。

白い壁もあって、
ウッドペインティングの小さなものも、似合いそうな雰囲気でした。

一緒に見学したのは、若いアーティストの、

澤登恭子さんや田岡和也さん。


さて、いくつかの美術展を見ました。

■松尾藤代展(ソフトマシーン美術館)
ピピロッティ・リスト展(猪熊弦一郎現代美術館) 
山部泰司展(奈義町現代美術館)

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《想像界》の眼で《8流》、真性の芸術。
《象徴界》の眼で《8流》、真性の芸術。
《現実界》の眼で《8流》、真性の芸術。
液体(近代)美術。

典型的な《8流》で、近代美術の古さがあるのですが、
しかし3界で、真性の芸術であるという良さがある作家です。
芸術をする事が、敬虔な祈りと言うか、信仰の世界になっています。

液体(近代)美術であることと、
真性の芸術であることと、
《8流》性が、連動しているのです。

モダンアートというのは、結局、信仰に至り着いたと言えます。
だから、今日の現代美術も現代アートも、
多くの作家は、奇妙な自閉性の中に沈み込んで行くのです。

しかし現代美術というのは、
創価学会や、ものみの塔、あるいはオウム真理教のような
新興宗教なのでしょうか?

岡崎乾二郎は、
「芸術は人間に魂を自覚させる方法なんだょ」と定義していますが、
このような定義では、芸術は宗教化してしまいます。

聖書における山上の垂訓は、すばらしいものです。
しかし、あれは芸術ではありません。
岡崎乾二郎の芸術の定義は、誤謬であります。

そして創価学会やエホバの証人といった新興宗教が、
信者に魂を自覚させたとしても、
芸術ではありません。
岡崎乾二郎の芸術の定義は、誤謬であります。

昔から、いつも、岡崎乾二郎は、誤謬を語るのです。

岡崎自身が、芸術をカルト化しているのです。
つまり岡崎自身が、芸術家としてオウム化しているのです。
岡崎乾二郎は、現代美術界の松本智津夫(麻原 彰晃 ではないのでしょうか?

近代においては、芸術は、たしかに宗教の代用品にはなりましたが、
芸術は、本質的には、信仰ではないのです。

信仰への還元というのは、錯誤であると、
私は思います。

情報化社会の現代アートは、信仰ではないのです。
では、何なのか?

少なくとも、オウムのよな自閉主義ではないと、
私は思います。

基本は、もう一度、近代以前の芸術に戻る事です。
例えば、狩野元信。
元信の考えた芸術というのは、岡崎が言う様な意味での信仰世界ではありませんでした。
そこにある美術は、全く別の顔をしていたのです。

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ピピロッティ・リストについては、独立した別のブログで書こうと
思っていますので、ここでは
簡単な格付けだけをしておきます。

《想像界》の眼で《8流》のデザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で、《41流》と《8流》のデザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で、《1流》の真性の芸術。

画像そのものは、凡庸で、たわいもないものです。
プロジェクションの装置が、斬新で、芸術であるのです。

私自身は実は、1960年代後半の草月実見映画祭の世代で、
いわゆるプライヴェイと映画の世代であります。
故・金坂健二氏が日本に帰って来た時に、
すぐに多摩美に呼んだのが、私でありました。

私自身も多摩美の映画研究会にいて、
映画を作っています。
多摩美の映画研究会は、他に、石内都、宮本隆司などがいて、
この3人が美術家共闘会議結成に参加して行くのです。
この3人ともに、ヴェニス・ビエンナーレに行っているというのも、
快挙であると、自画自賛しています。
一番最初にヴェニスに行ったのは、彦坂尚嘉でした。
あとから2人が、行きます。

さて、そういう事なので、
私は、実は映画や映像が好きなのです。
そういう意味で、このピピロッティ・リストの作品も楽しんで見ました。

もう一度格付けを見て欲しいのですが、

《想像界》の眼で《8流》のデザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で、《41流》と《8流》のデザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で、《1流》の真性の芸術。


この時に、映像作品でありながら、
ピピロッティ・リストの作品というのは、
実は《現実界》の作品なのです。

ここに、草月実験映画祭の時代の映像との差があります。

今日の美術というのは、
実は、《現実界》の芸術に、
還元する事で、成立しているのです。

つまり、ここでも、今日のアートは、
《現実界》の問題に還元されているのであって、
岡崎の言う魂の問題ではないのです。
魂ではなくて、むしろ装置の《現実界》性が重要なのです。


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山部泰司さんの回顧展は、
なかなか良かったです。
真面目な人で、
頑張っておられる。

1987年の花の絵を始めて見ました。
本当に見たいのは、さらに前の仕事です。

さて、こういうお友達の作品の格付けをすると、
人間関係的にはまずくなるのですが、
しかし、やるべきと、私は考えるにいたりました。
でないと、《批評》という事の意味が見えてこない。

作品については意見を言わないと言う人間関係も奇妙なものであって、
そうした関係も砂上の楼閣に過ぎません。
今日の人間関係はもろくて、
信頼することが出来ないものです。
ならば、私は美術家なのですから、
誠実に作品をどういう風に見ているかを
語った方が良いと思います。
それで壊れる人間関係なら
壊われて良しとしましょう。

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というわけで、つくづくと本物の作品を見ながら、
格付けをして、考えました。

《想像界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《41流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《16流》、デザイン的エンターテイメント。

作品はいろいろなものがあるのですが、格付け的には、みな、同じです。
特徴的なのは、《41流》性と、そして《16流》性です。

《16流》というのは、ピカソの一番抽象的になった分析的キュビズムの時期の絵画と同じです。簡単に言えば、崩壊領域です。山部泰治さんの作品というのは、《16流》という崩壊領域を《現実界》に抱え込んでいるアーティストなのです。

以前のマキイマサルファインアーツでの格付けと変わっているのは、3界の眼で格付けをするという新しいスタイルになったからです。以前の古いスタイルは、《象徴界》の眼だけで見ていたのです。

さて、もう一つ、地雷を踏む様なまずい事を発見したのは、
山部泰治さんの作品には、どこにも真性の芸術が無い事です。
すべてデザイン的エンターテイメントです。
ここに、根本的な問題があると言えます。

芸術というのは、アーティスト、あるいはアーティスト集団の、
私的な、歴史性を抱え込んだ表現なのです。
そういう私的なものが、山部さんのお仕事にはないのです。
それはしかし、山部さんだけの問題ではなくて、
実は日本の美術家の多くの人の性格でもあるのです。

多くの作家の作品は、
芸術という名において、
デザイン的エンターテイメントを作っているのです。







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コメント 4

丈

「窓」の絵画、個人的にタルコフスキーを連想しますが
彼も信仰に近い芸術観を抱いていたようですね。
by 丈 (2008-08-16 10:57) 

丈

強行軍の四国行き、お疲れさまでした。
確かに瀬戸大橋の写真は夢幻的な美しさがありますね。

虎丸旅館も大時代な屋根造りにもかかわらず、すっきりした印象で
なるほどこういう一流もあるのかと思えます。

「『普通だと止める』事を認識して乗り越える」、
踏ん張るときの支えになる言葉ですね。
素晴らしい言葉をありがとうございました。
by (2008-08-16 11:09) 

丈

岡崎乾二郎氏は「現代美術」「現代アート」の領域で美術への理解度の深さ、数理哲学の応用による論説で畏れられる存在で、重要な人物の一人です。
彼は「コメディー」の領域に関心を持った事があり、村上隆氏が彼を深く尊敬している事はよく知られています。
彼への批判はなかなかできる事ではないですが、それだけに意義深いですね。

麻原氏は盲目に近い彼の置かれた条件から独学に近い修練の凄さだけで教団を形成した点、魔の領域に入ったもののその実力は侮れませんね。あの事件がなければ重要な宗教者であり続けたでしょう。

岡崎乾二郎氏はタルコフスキーのファンであると認識していますが、
共通するものがあるのでしょうか。
by (2008-08-16 11:52) 

ヒコ

岡崎乾二郎も、麻原彰晃も、《想像界》のたわごとに、すぎません。現実への的中性を欠いています。
1975年のアメリカのベトナム敗戦で、《近代》が終わって、《象徴界》が衰弱します。その時に《想像界》が時代精神として過渡的に台頭したのが80年代です。この80年代的現象として、岡崎乾二郎と麻原彰晃の2人は、《想像界》のたわごとを言って、派遣を握ったに過ぎません。
時代がすぎれば、ただの妄想家にすぎません。

by ヒコ (2008-08-19 08:03) 

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