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彦坂敏昭の作品/批評について続編(改題、加筆4、図版削除) [アート論]

《批評》の徹底性というのは、
確かに、身近の人間関係を痛める危険性はあるのです。

しかし、遠くの人間については厳しい芸術分析をして、
近い人間には、やさしい批評をするとなると、
芸術分析そのものが、
人間の親しさの関係の遠近法によるものでしかなくなります。

すでに指摘したように、生前に斎藤義重の作品に対する批判を言わずに、
死後に、死者にむち打つ様な批判を言うという中原佑介の批評的な態度は、
批評精神そのものの、信頼を疑わせるものがあります。

高松次郎にたいしても同様な傾向は、私的にですが見られたのです。
そうすると擁護している河口龍夫の作品に対しても、
河口龍夫が死ぬと、批判を言い始めるのでしょうか?
そういうものが、中原佑介の唱えた『創造のための批評』(1955年
 の内実なのでありましょうか?

そういう訳で、
人間の親しさで、芸術の善し悪しを決めるのは、
フェアな、学問的な批評とは言えないと、私は考えます。

芸術分析というのは、
親しい人間に、甘い評価をするといったものではなくて、
その作品が、芸術であるかどうかの分析なのですから、
近くにいる若い友人でも、
芸術ではない作品を作っていれば、
それは芸術ではないと言うべきものなのであります。

「芸術ではない」、あるいは「《8流》である」と言われて怒って、
彦坂尚嘉から離れる人は、
離れれば良いのです。
真に創造性を探求するアーティストであれば、
私の批評に立ち向かい、
新たな創造への契機に転化するはずです。


危険性の犠牲をはらっても、フェアな学問性を追究しなければ、
でなければ、芸術分析そのものが、
『創造のための批評』(中原佑介) の新の意味には、
なり得なくなります。

人間関係の親しさに関係なく、フェアに厳しく批評をして行かないと、
芸術分析という批評そのものの原理が、確立できません。

ニューヨーク在住の富井玲子さんに教えていただいた事によると、
現在、ニューヨークのユダヤ美術館で開かれている回顧展は、
作家や批評家が、相互に批評や批判を繰り返した、
そういう私信を含む文献を整理して展示している、
刺激的な美術展であるとのことです。
日本では、作家同士では、真面目な芸術論はしなくなりました。
だから、狂人の彦坂尚嘉が、独りで、やるのです。



という訳で、彦坂敏昭さんの作品を取り上げます。

彦坂敏昭1.jpg

彦坂敏昭の作品です。

『燃える家』と題されてこれらの赤い作品のシリーズは、
「MOTアニュアル2008 解きほぐすとき」(東京都現代美術館)に出品されたものです。

気体美術で、シニフィエの美術であって、
そういう意味では新しい作品です。


《想像界》の眼で、《8流》のデザイン的エンターテイメントの作品。
《象徴界》の眼で、《8流》のデザイン的エンターテイメントの作品。
《現実界》の眼で、《8流》のデザイン的エンターテイメントの作品です。

完全に合法的で、実体的で、《退化性》はなくて、
【フロイト・ラカン的位相からの芸術分析】で見ると、
ただのデザイン的エンターテイメントであります。

まったく、芸術ではありません。

何よりも作品がデコラティブ(装飾)になっています。
芸術というのは、装飾性を導入しつつ、これを否定する事で成立するのですが、
彦坂敏昭の作品は、装飾性の肯定の上で作られています。
芸術というものと、装飾の関係についいて、
学問的な学習がされていないのです。


この作品は《8流》という凡庸なものであり、
まったく、芸術ではありません。
デザイン的エンターテイメント、そして《装飾》なのです。

《8流》というのは、信仰の世界で、
良いと信じれば良く見えるという領域です。
ですから作家本人は、良い作品と、深く信じているのです。
良い作品であると、信じ込むしかないとも言えます。

食べ物で言うと、
すき家」の牛丼とか、
ラーメンといったB級グルメの領域なのです。

もっとも《8流》は、現代芸術にも多いのであって、
武満徹の音楽や、森村泰昌の作品も、《8流》です。
これらは良いと信じれば良く見える新興宗教のような領域です。 

奈良美智のところで書いた、
【ユング的集合無意識】の領域というのは、
この《6流》と《8流》のループを基盤にしたものなのです。

《6流》というのは自然領域ですが、
《6流》と《8流》、
つまり【自然領域】と【信仰領域】は反転関係にあって、
閉じられた円環を作っているのであります。

ですから【ユング的集合無意識】の眼で、
彦坂敏昭の作品を判定すると、
《1流》と、出ます。

【フロイト・ラカン的位相からの芸術分析】で見ると、《8流》であって、
【ユング的集合無意識】で見ると、《1流》作品なのです。

分かりやすく言い直すと、
芸術分析の専門家の眼で見ると《8流》作品ですが、
しかし芸術分析の訓練をされていない素人の眼で見ると、
《1流》作品に見えるという事です。

素人目には、《1流》の作品なのです。

そして彦坂敏昭は、自分の作品を《1流》であると見ていると、
思われます。
眼そのものが、作家の眼ではなくて、
素人の延長の眼なのではないでしょうか?
眼が悪いのです。


この作品について次のような批評を見つけました。

やっぱり、この(彦坂敏昭の)絵画は、面白い。一見、抽象画のような印象なのだけれども、その作品制作過程によって、抽象画ではないことが判明するし、よくよく見ていると、もとの映像がその輪郭程度は浮かび上がってくる。この残存と崩壊のバランスがなんとも面白い。
あとは、色彩的にとても面白いながらもバランスがいい印象で、インテリアとしてもなかなかいいと思う。
http://d.hatena.ne.jp/dzd12061/20080316/1205666472

「インテリアとしてもなかなかいいと思う」という批評は、
この彦坂敏昭の作品が芸術ではなくて、
デザイン的エンターテイメントでしかないことを、
直裁に指摘しているものです。


07.jpg


テサグリの図画 No.64
2007
740×600mm
凹版、水彩、鉛筆、ペン、顔料 / 紙
制作協力 資生堂

この白黒の作品は、制作協力が資生堂になっているので、
「第2回 shiseido art egg 彦坂敏昭展」(資生堂ギャラリー、東京、2008年)に、
出品されたものであると、思います。

《想像界》の眼で、《8流》のデザイン的エンターテイメントの作品です。
《象徴界》の眼で、《8流》のデザイン的エンターテイメントの作品です。
《現実界》の眼で、《8流》のデザイン的エンターテイメントの作品です。

完全に合法的で、実体的で、デザイン的エンターテイメントでしかありません。

この作品も、まったく、芸術ではありません。
そして《装飾》に過ぎません。

しかし【ユング的集合無意識】で見ると、《1流》作品です。

【ユング的集合無意識】で見ても、しかし、芸術には見えませんね。
楽しい作品ですから、新手のデザイン的エンターテイメントですね。
部屋に、飾り絵として掛けておくには、とりあえず、面白くて、
良いのではないでしょうか。

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 彦坂敏昭の総合ウェブサイトが、閉じられているので、
初期の作品の良い画像がとれません。

彦坂敏昭の個展経歴を見ると、次の様になっています。

[ 主な個展 ]

2008年
「第2回 shiseido art egg 彦坂敏昭展」資生堂ギャラリー(東京)
「ARCO 2008 solo project」Feria de Madrird (スペイン)
2007年
「ARTISTS ON BOARD ー2つの展覧会ー 岩熊力也 彦坂敏昭」TAMADA PROJECTS ART 
SPACE(東京)
2006年
「edit edition」stem gallery(
大阪
2005年
「物見の台」ギャラリーマロニエ(
京都
2004年
「闇の差し込む居場所」ギャラリー手(東京)



この経歴は、一番最初の個展が、隠蔽されています。

事実に反します。

2004年のギャラリー手の個展の前に、
京都での個展があって、
それを私が見に行って、
それで、彦坂敏昭をギャラリー手に紹介したのです。

その私が、最初に見た個展の作品は、芸術であったのです。

あまり良い画像ではありませんが、
初期作品の画像を見つけましたので、見てください。

彦坂敏昭3.jpg
3.jpg

《想像界》の眼で《超1流》、真性の芸術。
《象徴界》の眼で《超1流》、真性の芸術。
《現実界》の眼で《超1流》、真性の芸術。

気体美術、
シニフィアンの美術。

私が、わざわざ京都まで行って見た初期作品は、
《非-合法性》《非-実体性》《退化性》のある真性の芸術であって、
しかも3界が《超1流》の芸術であったのです。

この優れたアーティストが、
あったという間に、
単なるデザインワークの作品を作る《8流》の
凡庸なアーティストに、
転落して行ったのです。

もっともこの初期作品を、
【ユング的集合無意識】で見ると、
《8流》作品に見えます。

【フロイト・ラカン的位相からの芸術分析】の眼で見ると
《超1流》の作品が、
【ユング的集合無意識】で見ると、《8流》に見えるのです。
この落差の大きさの中に、芸術の困難さがあります。

だからかもしれませんが、
彦坂敏昭は、初期作品を隠している様に見えます。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

彦坂敏昭の顔です。

hicosakatoshiaki_face-1.jpg

《想像界》の眼で《8流》
《象徴界》の眼で《8流》
《現実界》の眼で《8流》

《想像界》しかない人格。
固体人間。

この写真で見る限り、
人格的にまだ子供で、《想像界》しかないのです。
《象徴界》や《現実界》が、未発達なのです。

だから作家として眼が悪い。
眼が悪いのです!
そのくせ、本人は井の中のカエルで、自分は感性が良いと思ている。
ナルシストの《8流》主義者なのです。

彦坂敏昭は、《象徴界》が欠けているから、
ドナルド・ジャッドの作品の良さは、分からないのではないか?
ポロックの最良のドリッピング絵画も理解できないのではないか?

そもそもセザンヌが分からないのではないか?
ヴァンアイクも、レオナルドダヴィンチも分からないのではないか?

雪舟も、雪村も、宗達も、北斎も、分からないのではないか?

そして《現実界》の精神が欠けているから、セラが理解できないのではないか?
デュシャンも分からないのではないか?

芸術家としての基本の眼を欠いているのではないか?
そんなことで、現代アートの作家をやれるのか?

だから、愚劣な装飾に走る!

それと、固体人間というのは、
意外な発見でした。
彦坂敏昭のある、古い一面を理解できる手がかりと言えます。

この彦坂敏昭の顔を、
【ユング的集合無意識】で見ると、
《超1流》の顔に見えます。

さて、あなたの眼は、どちらでしょうか?

フロイト/ラカン派ですか?
それともユング的ですか?

たぶん、10人中8人の人は、
ユング的に見ていると思います。

社会とか、人間は、迷信を信じ、
偶像を崇拝し、無知無能で、
常識/集合無意識で生きているのであって、
そういったものなのです。

人間とは、迷妄であるのです。








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コメント 3

彦坂敏昭

ご指摘ありがとうございます。展覧会歴の件自分でも気が付いていませんでしたが、サイトを手直しする際にコピーをしわすれていたのだと思います。他の出版物などでは記載されているはずだと思いますのでそちらでご確認いただければ幸いです。
by 彦坂敏昭 (2008-08-16 20:05) 

ヒコ

プレッシャーで大変とは思いますが、あくまでも芸術の追求が大切です。それを忘れると、短命で終わります。
by ヒコ (2008-08-16 23:38) 

岡野由美子

「美術批評 風評」という内容でアクセスしているうちにこのブログにたどり着きました。

私は今大学院で、「美術館と来館者との関係」という研究を進めています。
来館者が美術館に行くまでの行動の分析をしているなかで、私が疑問に思ったことがあります。
来館者がいろいろな情報を得て、美術展を選び、美術館に足を運ぼうかと選択する上で一つの来館者へのアプローチになる要素として専門家による評価があげられます。
しかし、日本の特に新聞などで美術展に関する論評はよく見かけますが、美術展を紹介するは多くありながら、批判的な部分が非常に少ないと思われます。
映画、演劇、音楽などの分野ではもう少し批判的に論じられている記事もあることに比較しますと、美術の文脈においては批判的記事が見かけられないことは、ある意味健全ではないように思えます。
人は批判的な評価と肯定的評価のどちらをも読むことにより、比較しながら物事を判断していくのだと思います。特に一般の来館者は多くの場合それが大きな指標となると思えます。
彦坂さんのブログの中で、ポロック、岡本太郎の話など、作家と批評家との関係が書かれていたものも興味深く読ませていただきました。

私たち美術ファンの間では口コミでいくらでも美術批評が飛び交っています。
専門家でも美術批評がもう少し健全に行われることを望んでいます。
人間関係とのお話もありましたが、マーケット特有の問題なのしょうか。
一美術ファン、大学院生として研究途上で試行錯誤しています。
ご意見がありましたら、ぜひお聞かせいただきたく思います。



by 岡野由美子 (2010-08-02 19:54) 

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