SSブログ

束芋の作品(後半/加筆1) [日本アーティスト序論]

img28d8367bltdbi7.jpeg

◆◆1◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ニックネーム・アルナーチャラムさんは、束芋の作品について、
次の様に書いています。

「束芋」(たばいも)。
何じゃそりゃ、って?
朝日新聞を取っている人なら、毎日目にしているはず。
夕刊の連載小説の“あの挿絵”を描いているアーティスト(1975年兵庫県生まれ)。

何だか奇妙・グロテスクで、場合によっては気持ち悪いほどの毒気さえ感じさせるタッチで、人間の深層心理の奥に潜む本音をえぐり出して目の前につきつけられるような、恐怖感さえ感じるような絵が気になっていた。

この束芋の挿絵とおぼしき画像に、
彦坂尚嘉の格付けをしてみます。
どう、見えるのでしょうか?
  • 《想像界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
  • 《象徴界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
  • 《現実界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
  • 《想像界》の美術。《象徴界》や《現実界》は、無い。
  • 固体(前近代)美術 。
  • シニフィアンの美術。

【フロイト・ラカン的位相からの芸術分析】から見れば、
前近代に退化した骨董性をもつ、《6流》という自然領域の、
イラストレーションに過ぎないのであります。

不条理性である《4流》も無ければ、
犯罪領域である《31流》性も無いのです。
地獄領域である《41流》もありません。

だから毒気もなければ、深層心理も、グロテスクも、恐怖も、
本質的には無いのです。

芸術というのは気持ちの悪いものですが、
その一かけらも持っていないし、
何よりも《6流》の自然性だけであって、
倒錯領域である《8流》から《41流》性を
持っていないのでありますから、
かわいらしい、素朴な、
《想像界》の表現なのです。
ファンタジーです。

芸術性の無いデザインであり、
《想像界》の作品だからこそ、
高い社会性を持って、
ヒットするのです。

それはポップスやロックに於ける、ヒットの要件と同じであります。
芸術性のあるロックは、大ヒットする事は無いのです。
一部のマニアの深い尊敬に支えられて、
マニアックに存在するだけであって、
芸術というのは、基本的にはそうしたものに他なりません。

束芋の人気は、それはデザイン性のなせる技であって、
芸術性の高さではないのであります。

◆◆2◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

とは言っても、ニックネーム・アルナーチャラムさんが見ているのは、
私の分析の範囲では無いと思われます。

何だか奇妙・グロテスクで、
場合によっては気持ち悪いほどの毒気さえ感じさせるタッチで、
人間の深層心理の奥に潜む本音をえぐり出して目の前につきつけられるような、
恐怖感さえ感じるような絵。

つまり多くの人々が見ている束芋の魅力というのは、
私の【フロイト・ラカン的位相からの芸術分析】で語る範囲ではなくて、
むしろ【ユング的集合無意識】で見るときの束芋ではないのでしょうか?

【ユング的集合無意識】で束芋の上記のイラストを見ると、
《超1流》と判定が出るのです。

集合的無意識 は、
個人の経験を越えた、
集団無意識の深層に存在しているものです。

人間というのは、必ずしも個人として自立しているのではなくて、
知らず知らずのうちに話し方まで集団に合わせて変わってしまうように、
集団の同調現象の原理に支配されています。

《常識》というのもそういうものですし、
この《常識》の無意識の深層に集合無意識があると、
ユングは主張したのです。

日本社会を維持するために常識があって、
この圧力が働くことで、
日本人は、自分の考え方や行動が大きく逸脱しないように統制されるのですが、
それは束芋の主題である《日本民族のに存在すると考えられる、
元型的力動なのです。

そうした集団の心を制御をしているのが、
集合無意識ですが、
それはたびたび集団自殺へと、
雪崩を打って動くのであります。

人間の生命や文明社会、文化的な成果を根底から破壊して、
『無』に帰そうとする欲動が、死の本能です。

日本人の集合無意識的な精神活動も、
絶えず生の本能と死の本能の葛藤にさらされていて、
ある時から、雪崩を打って集団自殺にのめり込んで行くのです。

奇妙なグロテスクで、
気持ち悪いほどの毒気。
人間の深層心理の奥に潜む本音をえぐり出して目の前につきつける束芋!
恐怖感を感じさせる束芋の絵!

束芋の作品の中には【ユング的集合無意識】があって、
それが指し示すのは、集団自殺へと向かう同調現象です。
人々の意見がある方向のみに傾斜していく気味の悪さです。

例えば、勝算がないのは誰の目にも明らかであるにも拘らず、
戦艦大和の出撃を決定するなどの決断の同調現象です。


同調現象が起きたら、異論は歓迎されないのです。


ただ、「みんな」の意見を補強する意見のみが歓迎される。

そうして、異論に対しては、論理で反論するのではなく、

無視と黙殺で反論される。そして沈黙を強制するのです。


周囲を見回して、自分に異論があっても、

他に異論がないようならば、

異論の表明を控えるという自己検閲の機能も、強く働きます


お酒を飲みながら美術評論家の先生と話していて私と意見が合っても、

最後には「その意見は書かないよ」と言われます。

また同人誌をやっている時に、座談会で話していて、

文字起こしをすると「それは止めておこう」と、削られます。

こうして自己検閲が頻繁になされて、

同調現象が起きて行くのです。

こうして日本の美術批評は集団自殺を遂げてしまったのです。


こうして、「美術界一致の幻想」が現れます。

同調現象の結果は、どこでも、どの雑誌、どの美術館でも、

「みんな」が賛成していると信じられる作家だけが

集中して繰り返し取り上げられることになるのです。


この同調現象が、日本の美術界には、

繰り返し良く起きます。

美術関係者の意見がある方向のみに傾斜する事がおきるのです。

批評は消えて、

それこそ、束芋はすばらしいという、同調現象が起きます。


異論は、黙殺され、沈黙を強制されるのです。

こういう傾向は、森村泰昌、大竹伸朗、宮島達男、草間弥生の作品

への評価などにも見られます。

とても芸術には見えないものに、

日本人の評価の意見が雪崩を打って同調して行くのです。

多様な意見や、少数の異論を失って、

ある方向のみに傾斜する事がたびたび起きて行きます。

その結果として、批評が集団自殺したのです。

新興宗教が集団自殺したり、
そして日本が、3000倍の軍事力の差のあるアメリカに戦争を仕掛けて、
集団自殺へとのめり込んで行ったのも、
こうした集合無意識の同調現象メカニズムでした。

束芋の作品を成立させ、
そして多くの人が束芋の表現に《超1流》の魅力を見ているのは、
こうした集団性の無意識の深層に存在している集合無意識なのです。
ですから束芋の作品には、集団自殺へと動いて行く日本人集団の、
死の本能(タナトス)》が、深く関連性を持っているのです。


【続きはクリックしてください】

多くの人にとって、
束芋は、《超1流》の作品に見えているのです。
ですが、しかし【集合無意識】の眼で見ても、
束芋の作品は、芸術には見えていないのです。

多くの人にとって、
実は芸術であるかないかは、興味が無いのです。

実際、束芋自身が、芸術には興味が無いだろうと、
思います。

そして日本の美術界にとっての興味は、
同調現象だけであって、
芸術性の有無や、芸術分析ではないのです。

日本の芸術学という学問も、
事実上、自滅に陥りつつある様に見えます。

◆◆3◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
imola_top_02.jpg
go_333_01-1.jpg
item748p1.jpg
FC-Tabaimo-05G.jpg
FC-Tabaimo-03G.jpg
FC-Tabaimo-01G.jpg
2.jpg
imgeffef7acmqjt0s.jpeg
img5eead9cfmqkdrk.jpeg
ginyo-ru.gif

束芋の代表作というのは、Wikipediaによると次のようです。
  • にっぽんの台所(1999年。キリンコンテンポラリー・アワード99年最優秀賞)
  • にっぽんの横断歩道(1999年)
  • にっぽんの湯屋(男湯)(2000年)
  • にっぽんの通勤快速(2001年)
  • にっぽんの御内(2002年)
  • さらに展示の代表作として、次の2つが上げられています。
    • 束芋(個展・原美術館 2006年6月~8月)
    • 横浜トリエンナーレ (2001年)ヨロヨロン

私も2001年の横浜トリエンナーレでは束芋を見ています。それに、ちょっと面白いものを感じましたが、それ以上の探究心を起こし得なかった。
たぶん、私には束芋だけでなくて、会田誠、山口晃、小沢剛、といった、
同じ様な《和物》の、身の丈主義のイラスト的感覚に、
共感する基本的な【ユング的集合無意識】が無かったのだろうと、
思うのです。

ちょうど束芋が台頭してくる1999年頃から、
実は日本の国力は、飛行機が墜落する様に下降して行くのです。

E697A5E69CACE381AEE6B288E6B2A1.jpg

奈良美智が、ナイフを持った少年を描いてから、
日本では、17歳の少年がナイフで人を殺す事件が激発して行きました。
奈良美智の作品は、
【ユング的集合無意識】を体現した、不吉な作品であったのです。

同じ様に、束芋が出現して、
「にほん」シリーズを発表する様になって、
日本の経済は、急速に失速して、墜落状態を示す様になりました。
束芋は有名になって、勝ち組になって行きましたが、
日本社会は墜落して、負け組になって行ったのです。

束芋の登場は、不吉な印であったのです。
束芋は、「にほんの疫病神」であったので。

何だか奇妙・グロテスクで、
場合によっては気持ち悪いほどの毒気さえ感じさせるタッチで、
人間の深層心理の奥に潜む本音をえぐり出して目の前につきつけられるような、
恐怖感さえ感じるような絵。

おそらく束芋の存在は、日本社会が同調現象の中で、
崖からネズミが集団自殺して行く様な、
そういう日本墜落、日本自滅、日本自壊の
そういう【ユング的集合無意識】を、束芋は体現していたのです。
そういう意味で、束芋は、「にほんの死神」です。


身の丈主義の面白主義にボケながら、
「にほんの沈没」は進行して行きます。

実際、束芋の経歴は、「にほんの沈没」に良く似合っているのです。

Wikipediaによると、
1991年、束芋は、市立西宮高等学校理数コースに入学してからおちこぼれ、
3年生の夏、薬剤師をめざして薬科大学を志望していたが、
美大志望に切り替えたのは、成績がかんばしくなかったからです。
1994年、束芋は、京都造形芸術大学日本画コースを受験して、不合格。
宝塚の受験用の画塾にかよいます。
京都造形芸術大学芸術学部情報デザイン学科に推薦入試で落ち、
束芋は一般入試で不合格、補欠で合格した。

こういう不合格を繰り返した束芋が、
日本の人気アーティストになった時、
日本社会そのものが国際的に不合格になり、
急速に失墜して行く事になったのです。
そういう意味で、
束芋は、日本滅亡のたいへんに不吉なアーティストであったと言えます。

日本が低きに墜落して行く事の面白さを体現した
「にほんの死神」アーティストだったからです。


◆◆4◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

35_4.jpg
35_1.jpg
main.jpg
main-1.jpg

さて、束芋の顔です。
《想像界》の眼で《6流》。
《象徴界》の眼で《6流》。
《現実界》の眼で《6流》。
《想像界》だけの人格。
固体人間。

典型的な《6流》美人です。

日本は見の丈に縮小して、
どこまで落ちて行くのでしょうか。
そこは地獄なのでしょうか?
日本社会が破産し、本当に地獄になった時に、
束芋は、毛筆で仏画を描いていることでしょう、
6歳の幼女に戻って・・・。
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。





タグ:束芋
nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

nice! 0

コメント 2

もしもし

ひさびさの傑作評論ですね。
日本列島がもはや痴性がはびこる場になったということがよく分かります。これじゃ、中国にやられ放しになるでしょう。もちろん大文字のアートで。
by もしもし (2008-08-23 01:27) 

ヒコ

【ユング的集合無意識】は、日本美術界の中枢を占めていると言えます。ここでは芸術はなくて、あるのは、同調現象の追求です。同調現象を追求する事で、死へと転落して行くのです。活力そのものが失われ、創造性を喪失した社会は、瓦解して行きます。
by ヒコ (2008-08-23 09:13) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。