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やなぎみわ/B級エンターテイメントの世界 [日本アーティスト序論]


ピクチャ-3.jpg

◆◆1 《自己愛》性人格障害者集団を、超えて◆◆◆◆◆◆◆◆◆

昨日、やなぎみわ の東京都写真美術館での『マイ・グランドマザー』
というシリーズの展覧会を見て来ました。

実は、以前に美術手帖の『日本アーティスト序論』で取り上げられてい
る20人くらいの作家を、このブログで、端から全部芸術分析をしよう
という、壮大(笑)な企画をたてたのですが、
この やなぎみわ の前で止まってしまっていました。

やなぎみわが今年のベネチアビエンナーレの日本の代表になっている事
もあります。今、一番評価されている作家にも関わらず、
私自身が、やなぎみわに対しては批判的であったからであります。

だいたい、私の評価しない作家は、日本の現代美術界では評価が高く、
私の良いと思う作家は、評価されないのです。
それは、芸術そのものの評価軸が違うからでしょう。


そういうこともあって、
やなぎみわに、
批判的であったからこそ、学問として、
そして批評としてフェアに書きたいと言う思いがあって、
この写真美術館での展示を見てからと、思っていたのです。

他の作家を批判するのが、その作家をおとしめたり、
足を引っ張るためにやっているのではないのです。

なぜに、他の作家を見るのか?
他者を見る中でしか、現実を見る事が出来ないからです。
現実どころか、自分自身を見る事も、語ることも、
出来ないからです。

それと、現在の批評の不在を、
自分なりに切り開きたいからです。
私自身は、批評を読むのが好きです。
スーザン・ソンタッグや、ロザリンド・クラウスといった
女性の書き手が好きでした。

つまりラカンの鏡像理論が示したように、
自分自身の顔が直接には見られなくて、
鏡に写すとか、写真で見る以外にないのに対して、
他人の顔や、姿は鮮明に見えます。

作品も実は同様で、自分では自分の作品を捉えるのが、
むずかしいからこそ、他人の作品を透して、
芸術について考えるのが重要なのです。

そして批評という視点や芸術分析という方法で芸術を見る事が、
芸術を理解するのに有効であると考えるからです。
芸術というのは、あくまでも実際の作品を通して
出現するものだからです。

ところが、日本の美術界では、
「他人の作品を見るとマネをすることになるから、
見ない事にする」という、変な風潮が作家の中に蔓延しています。

こういう主張は、何人もの作家が、異口同音に言います。
批評家でも、某氏は、「俺は自分の頭で考えるから、他の奴の文章は
読まない」と公言していました。

そのくせ面白い事は、そういう事を言う作家や、批評家は、
自分の作品は見に来て欲しい、読んで欲しいというのです。

これは間違いです。
理論矛盾でもあります。
つまり、「他人の作品は見ない。他人の文章は読まない」というのは、
《自己愛》性人格障害者特有の迷信なのです。

マネをするという模倣マシーンになってしまうのは、
《想像界》の人格しか無い、
子供の人格の弱さなのです。

人格を《象徴界》《現実界》まで分化させて、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な作家主体を
持って、総合力をつければ、
簡単な形では、他人を真似する事にはなりません。

自分の人格を成長させる事は、
作家として大きくなるためには、
人格を発展させることは、重要な事なのです。

ところが、現在の日本のアーティストは、
未熟で子供である事が、すぐれたアーティストになることだと、
錯誤しているのです。

それは岡本太郎からの悪しき伝統です。
しかし岡本太郎は、人類史の中で見れば、
まったく愚劣な作家に過ぎないのです。
岡本太郎は【B級美術家】です。
岡本太郎よりもすぐれたアーティストは、
いくらでもいるのです。


他の領域を見れば、他人の仕事を良く見ています。
建築の人々は、他の建築家が作った建築を実際に見るために、
良く見て歩きます。
建築ツアーを企画するのです。
私も参加しています。
他人の建築を、たいへんに厳しい眼で見て、批評をしています。

将棋とか碁の棋士たちも、他人の戦いを良く見て、勉強しています。
新しい手は、日々生み出されているので、他人の戦いを見なければ、
自分が実際の戦いで接した時に、対応を取るのが遅れてしまうからです。

戦争もそうであって、たとえば湾岸戦争や、イラクの戦争を、
アメリカ軍がやれば、各国の軍事専門家は、戦地に行って、
見学するのです。武器の威力や、戦闘のやり方を研究して、
自分の実際の軍事力の実力や、整備の方向を考えるのです。

他の国の軍備や戦争の仕方を良く見ておかなければ、
いざ、戦争となった時に、負けてしまうからです。
彼を知り、己を知れば、百戦百勝」と、孫子の兵法にあるように、
他者を知る事こそが、己を知る事になるという基本があって、
こういう基本を欠いている《自己愛》性人格障害者は、
戦争には負けるのです。

詩人も他の人の詩を、良く読んでいます。
たとえば建畠哲氏は、美術評論家や国立国際美術館の館長である
だけでなくて、詩人でもありますが、
彼は良く、他の詩人の詩集を読んでいて、詩人を批評する力は、
大変にある方で、私は詩人として尊敬しています。

美術家自身も、他人の作品を一生懸命に見に行って来た、
歴史があります。
例えば、アメリカを代表する彫刻家のデヴィッドスミスは、
同時代の作家を良く見ています。
レオナルド・ダ・ヴィンチにしても、
最後の晩餐は、多くの先人の作品を見た上で、描いていると思われます。

先人の美術を多く見て、
その検討を通して、
美術や芸術について考えて行く事は重要なのです。

◆◆2  B級エンターテイメントの作品◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

yanagi_redhead_gmother.jpg
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品、固体美術。

実体的美術(エンターテイメント)

《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィエ(記号内容)の美術。

《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】


この写真は、写っているモデルが本当に怖いのが分かる
楽しい写真で、運転している運転手の面白がっている軽薄な表情も、
リアルです。

しかし、それ以上の面白みはありません。
確かに、やなぎみわが言うように、作品になっていると思いますが、
すぐれた【A級美術作品】になっていないのです。
【B級美術】です。
一級の芸術作品としての、面白みが、凝視していても、
見えてこないのです。

この『マイ・グランドマザー』というシリーズは、
モデルの若い女性が、自分の理想の未来の老人になった時の設定と、
ストーリーをつくって、それをバーチャルに再現しているという、
作品らしいのです。

ですから、歳をとって、オートバイに乗って走るという、
夢を、このモデルの女性は持っているのでしょうが、
そういう設定は分かりますが、
そうしした老いにたっしていく意味が、見えて来ません。

このモデルが、オートバイに乗り続けて歳を取っていたとすれば、
このような、ジェットコースターに乗ったような、恐怖に満ちた顔は、
しないでしょう。

設定そのもののなかに、時を経て、老いて行く事の人生の重みや、
空しさや、そして成熟が、無いのです。

あるのは、ジェットコースターに乗る様な遊園地的な《気晴らし》の
面白さです。


女性と言うか、老婆の部分が明るくなっています。
照明を当てている可能性もありますが、
走っているものですから、カメラの角度から考えて、
車体に取り付けたカメラからの撮影だろうと思います。
したがって、老婆が明るいのは、後からの操作だろうと、
かってにですが、推測します。

それを昔のアナログ写真では「おおい焼き」といいましたが、
現在はコンピューターのPhotoshopで、
デジタル的に調整が出来ます。

yanagi_redhead_gmother2.jpg
その構造を分かりやすくするために、
Photoshopで、明度を落とし、コントラストを強く加工したものを、
お見せします。

やなぎみわの作品は、主題である演じられた老婆を明るくして、
目立つようにした、分かりやすく加工されている写真であることが、
分かります。
こういう やなぎみわ の作品の作り方をすると、
作品は実体化し、説明的なものに、退落してしいます。

空間も、《原始平面》化して、真性の深いイリュージョンが生まれて
こなくなります。《第6次元》化して、《6流》の美術になって
しまうのです。

やなぎみわ の作品は、説明的なものなのです。
しかし芸術作品においては、説明的な作品は【B級美術】なのです。

そして、実体的です。
すぐれた作品は《非-実体性》のあるものであって、
実体的な作品は、ラスベガスのショーにでてくるような
エンターテイメントなのです。

ですから、やなぎみわ のさくひんは、これはすぐれた芸術作品という
ものではなくて、娯楽映画に見られるエンターテイメント作品の構造
なのです。


やなぎみわ の作品は、大型写真で、たぶんですが、ラムダプリントでの
出力らしく、きれいではあります。
そしてモデルと良く相談しながら、老婆に扮しさして、さまざまな設定
の物語の中で、写真が、大掛かりにフィクショナブルに作られています。

それは娯楽だけのためのB級映画のスチール写真のようなものに見えます。

Mika_MG_web.jpg
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品、固体美術。

実体的美術(エンターテイメント)

《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィエ(記号内容)の美術。

《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】

やなぎみわの作品が持つ、通俗性と娯楽性と、説明性は
昔の東宝映画の雰囲気です。

なにか、ピーナッツが出てくる『モスラ』の南海の島のようです。
そこに、巫女の女性がいて、南海の楽園を支配している。

向こうに見える奇妙な岩は、ゴジラの出現のようにも見えます。

10000784.jpg
b0007491_21581054.jpg

tll-2464.jpg

この映画には、かわいらしいザピーナッツが出て来て、
歌を歌ったのです。

ピーナッツのレコードを私が買ったのは、
小学生高学年だったと思うのですが、
それが次のアルバムです。

images.jpeg

そしてピーナッツも歳を取って行きます。
pea-2.jpg
ejs-6112.jpg
88h-1006.jpg

そして、引退して、
老いた姿は、見せてくれません。
ネットで探しても、見つかりませんでした。

老いというのは、そうしたものです。

Mika_MG_web.jpg
先ほどと、同じ様に、明度を落として、コンストラストを上げると、
このように、中心の人物だけが浮かび上がる構造をしています。

こういう実体的な構造の写真が、芸術作品として面白いのでしょうか?

娯楽的で「面白いでしょう」と言っている作品ではありますが、
別に、ハリウッドの大規模な映画と比較してみれば、
特にどうというものではないのです。

waterworld.jpg
Waterworld-1.jpg
waterworld-2.jpg
私は、ケビンコスナー主演の『ウオーターワールド』を劇場に見に行って
います。1995年の作品です。

やなぎみわのデビューが1993年ですので、同時代の映画であったのです。

『ウオーターワールド』は、たいへんに大掛かりでしたが、つまらない
映画で、「海のマッドマックス」と言われます。

同じ様な事は、やなぎみわにも、言えるのかもしれません。
たいへんに大掛かりではありますが、つまらない写真作品で、
「日本のシンディー・シャーマン」という評価です。
【続きは下記をクリックして下さい】

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やなぎみわ [日本アーティスト序論]


ピクチャ-3.jpg

◆◆1 《自己愛》性人格障害者集団を、超えて◆◆◆◆◆◆◆◆◆

昨日、やなぎみわ の東京都写真美術館での『マイ・グランドマザー』
というシリーズの展覧会を見て来ました。

実は、以前に美術手帖の『日本アーティスト序論』で取り上げられてい
る20人くらいの作家を、このブログで、端から全部芸術分析をしよう
という、壮大(笑)な企画をたてたのですが、
この やなぎみわ の前で止まってしまっていました。

やなぎみわが今年のベネチアビエンナーレの日本の代表になっている事
もあります。今、一番評価されている作家にも関わらず、
私自身が、やなぎみわに対しては批判的であったからであります。

だいたい、私の評価しない作家は、日本の現代美術界では評価が高く、
私の良いと思う作家は、評価されないのです。
それは、芸術そのものの評価軸が違うからでしょう。


そういうこともあって、
やなぎみわに、
批判的であったからこそ、学問として、
そして批評としてフェアに書きたいと言う思いがあって、
この写真美術館での展示を見てからと、思っていたのです。

他の作家を批判するのが、その作家をおとしめたり、
足を引っ張るためにやっているのではないのです。

なぜに、他の作家を見るのか?
他者を見る中でしか、現実を見る事が出来ないからです。
現実どころか、自分自身を見る事も、語ることも、
出来ないからです。

それと、現在の批評の不在を、
自分なりに切り開きたいからです。
私自身は、批評を読むのが好きです。
スーザン・ソンタッグや、ロザリンド・クラウスといった
女性の書き手が好きでした。

つまりラカンの鏡像理論が示したように、
自分自身の顔が直接には見られなくて、
鏡に写すとか、写真で見る以外にないのに対して、
他人の顔や、姿は鮮明に見えます。

作品も実は同様で、自分では自分の作品を捉えるのが、
むずかしいからこそ、他人の作品を透して、
芸術について考えるのが重要なのです。

そして批評という視点や芸術分析という方法で芸術を見る事が、
芸術を理解するのに有効であると考えるからです。
芸術というのは、あくまでも実際の作品を通して
出現するものだからです。

ところが、日本の美術界では、
「他人の作品を見るとマネをすることになるから、
見ない事にする」という、変な風潮が作家の中に蔓延しています。

こういう主張は、何人もの作家が、異口同音に言います。
批評家でも、某氏は、「俺は自分の頭で考えるから、他の奴の文章は
読まない」と公言していました。

そのくせ面白い事は、そういう事を言う作家や、批評家は、
自分の作品は見に来て欲しい、読んで欲しいというのです。

これは間違いです。
理論矛盾でもあります。
つまり、「他人の作品は見ない。他人の文章は読まない」というのは、
《自己愛》性人格障害者特有の迷信なのです。

マネをするという模倣マシーンになってしまうのは、
《想像界》の人格しか無い、
子供の人格の弱さなのです。

人格を《象徴界》《現実界》まで分化させて、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な作家主体を
持って、総合力をつければ、
簡単な形では、他人を真似する事にはなりません。

自分の人格を成長させる事は、
作家として大きくなるためには、
人格を発展させることは、重要な事なのです。

ところが、現在の日本のアーティストは、
未熟で子供である事が、すぐれたアーティストになることだと、
錯誤しているのです。

それは岡本太郎からの悪しき伝統です。
しかし岡本太郎は、人類史の中で見れば、
まったく愚劣な作家に過ぎないのです。
岡本太郎は【B級美術家】です。
岡本太郎よりもすぐれたアーティストは、
いくらでもいるのです。


他の領域を見れば、他人の仕事を良く見ています。
建築の人々は、他の建築家が作った建築を実際に見るために、
良く見て歩きます。
建築ツアーを企画するのです。
私も参加しています。
他人の建築を、たいへんに厳しい眼で見て、批評をしています。

将棋とか碁の棋士たちも、他人の戦いを良く見て、勉強しています。
新しい手は、日々生み出されているので、他人の戦いを見なければ、
自分が実際の戦いで接した時に、対応を取るのが遅れてしまうからです。

戦争もそうであって、たとえば湾岸戦争や、イラクの戦争を、
アメリカ軍がやれば、各国の軍事専門家は、戦地に行って、
見学するのです。武器の威力や、戦闘のやり方を研究して、
自分の実際の軍事力の実力や、整備の方向を考えるのです。

他の国の軍備や戦争の仕方を良く見ておかなければ、
いざ、戦争となった時に、負けてしまうからです。
彼を知り、己を知れば、百戦百勝」と、孫子の兵法にあるように、
他者を知る事こそが、己を知る事になるという基本があって、
こういう基本を欠いている《自己愛》性人格障害者は、
戦争には負けるのです。

詩人も他の人の詩を、良く読んでいます。
たとえば建畠哲氏は、美術評論家や国立国際美術館の館長である
だけでなくて、詩人でもありますが、
彼は良く、他の詩人の詩集を読んでいて、詩人を批評する力は、
大変にある方で、私は詩人として尊敬しています。

美術家自身も、他人の作品を一生懸命に見に行って来た、
歴史があります。
例えば、アメリカを代表する彫刻家のデヴィッドスミスは、
同時代の作家を良く見ています。
レオナルド・ダ・ヴィンチにしても、
最後の晩餐は、多くの先人の作品を見た上で、描いていると思われます。

先人の美術を多く見て、
その検討を通して、
美術や芸術について考えて行く事は重要なのです。

◆◆2  B級エンターテイメントの作品◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

yanagi_redhead_gmother.jpg
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品、固体美術。

実体的美術(エンターテイメント)

《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィエ(記号内容)の美術。

《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】


この写真は、写っているモデルが本当に怖いのが分かる
楽しい写真で、運転している運転手の面白がっている軽薄な表情も、
リアルです。

しかし、それ以上の面白みはありません。
確かに、やなぎみわが言うように、作品になっていると思いますが、
すぐれた【A級美術作品】になっていないのです。
【B級美術】です。
一級の芸術作品としての、面白みが、凝視していても、
見えてこないのです。

この『マイ・グランドマザー』というシリーズは、
モデルの若い女性が、自分の理想の未来の老人になった時の設定と、
ストーリーをつくって、それをバーチャルに再現しているという、
作品らしいのです。

ですから、歳をとって、オートバイに乗って走るという、
夢を、このモデルの女性は持っているのでしょうが、
そういう設定は分かりますが、
そうしした老いにたっしていく意味が、見えて来ません。

このモデルが、オートバイに乗り続けて歳を取っていたとすれば、
このような、ジェットコースターに乗ったような、恐怖に満ちた顔は、
しないでしょう。

設定そのもののなかに、時を経て、老いて行く事の人生の重みや、
空しさや、そして成熟が、無いのです。

あるのは、ジェットコースターに乗る様な遊園地的な《気晴らし》の
面白さです。


女性と言うか、老婆の部分が明るくなっています。
照明を当てている可能性もありますが、
走っているものですから、カメラの角度から考えて、
車体に取り付けたカメラからの撮影だろうと思います。
したがって、老婆が明るいのは、後からの操作だろうと、
かってにですが、推測します。

それを昔のアナログ写真では「おおい焼き」といいましたが、
現在はコンピューターのPhotoshopで、
デジタル的に調整が出来ます。

yanagi_redhead_gmother2.jpg
その構造を分かりやすくするために、
Photoshopで、明度を落とし、コントラストを強く加工したものを、
お見せします。

やなぎみわの作品は、主題である演じられた老婆を明るくして、
目立つようにした、分かりやすく加工されている写真であることが、
分かります。
こういう やなぎみわ の作品の作り方をすると、
作品は実体化し、説明的なものに、退落してしいます。

空間も、《原始平面》化して、真性の深いイリュージョンが生まれて
こなくなります。《第6次元》化して、《6流》の美術になって
しまうのです。

やなぎみわ の作品は、説明的なものなのです。
しかし芸術作品においては、説明的な作品は【B級美術】なのです。

そして、実体的です。
すぐれた作品は《非-実体性》のあるものであって、
実体的な作品は、ラスベガスのショーにでてくるような
エンターテイメントなのです。

ですから、やなぎみわ のさくひんは、これはすぐれた芸術作品という
ものではなくて、娯楽映画に見られるエンターテイメント作品の構造
なのです。


やなぎみわ の作品は、大型写真で、たぶんですが、ラムダプリントでの
出力らしく、きれいではあります。
そしてモデルと良く相談しながら、老婆に扮しさして、さまざまな設定
の物語の中で、写真が、大掛かりにフィクショナブルに作られています。

それは娯楽だけのためのB級映画のスチール写真のようなものに見えます。

Mika_MG_web.jpg
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品、固体美術。

実体的美術(エンターテイメント)

《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィエ(記号内容)の美術。

《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】

やなぎみわの作品が持つ、通俗性と娯楽性と、説明性は
昔の東宝映画の雰囲気です。

なにか、ピーナッツが出てくる『モスラ』の南海の島のようです。
そこに、巫女の女性がいて、南海の楽園を支配している。

向こうに見える奇妙な岩は、ゴジラの出現のようにも見えます。

10000784.jpg
b0007491_21581054.jpg

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この映画には、かわいらしいザピーナッツが出て来て、
歌を歌ったのです。

ピーナッツのレコードを私が買ったのは、
小学生高学年だったと思うのですが、
それが次のアルバムです。

images.jpeg

そしてピーナッツも歳を取って行きます。
pea-2.jpg
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そして、引退して、
老いた姿は、見せてくれません。
ネットで探しても、見つかりませんでした。

老いというのは、そうしたものです。

Mika_MG_web.jpg
先ほどと、同じ様に、明度を落として、コンストラストを上げると、
このように、中心の人物だけが浮かび上がる構造をしています。

こういう実体的な構造の写真が、芸術作品として面白いのでしょうか?

娯楽的で「面白いでしょう」と言っている作品ではありますが、
別に、ハリウッドの大規模な映画と比較してみれば、
特にどうというものではないのです。

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Waterworld-1.jpg
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私は、ケビンコスナー主演の『ウオーターワールド』を劇場に見に行って
います。1995年の作品です。

やなぎみわのデビューが1993年ですので、同時代の映画であったのです。

『ウオーターワールド』は、たいへんに大掛かりでしたが、つまらない
映画で、「海のマッドマックス」と言われます。

同じ様な事は、やなぎみわにも、言えるのかもしれません。
たいへんに大掛かりではありますが、つまらない写真作品で、
「日本のシンディー・シャーマン」という評価です。
【続きは下記をクリックして下さい】

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やなぎみわ [日本アーティスト序論]


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◆◆1◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

昨日、やなぎみわ の東京都写真美術館での展覧会を見て来ました。

以前に美術手帖の『日本アーティスト序論』で取り上げられている、
作家を、端から順番に取り上げようとして、
この やなぎみわ の前で止まってしまっていました。

やなぎみわ が今年のベネチアビエンナーレの
日本の代表になっている事もありますが、
私自身が、やなぎみわ に対しては批判的であったからであります。

批判的であったからこそ、フェアに書きたいと言う思いがあって、
この写真美術館での展示を見てからと思ったのです。

他の作家を批判するのが、その作家をおとしめたり、
足を引っ張るためにやっているのではないのです。

他者を見る中でしか、現実を見る事が出来ないからです。
それと、現在の批評の不在を、
自分なりに切り開きたいからです。
私自身は、批評を読むのが好きです。
スーザン・ソンタッグや、ロザリンド・クラウスといった
女性の書き手が好きでした。

つまり自分自身の顔が直接には見られなくて、
鏡に写すとか、写真で見る以外にないのに対して、
他人の顔や、姿は鮮明に見えます。
作品も実は同様で、自分では自分の作品を捉えるのが、
むずかしいからこそ、他人の作品を透して、
芸術について考えるのが重要なのです。

そして批評という視点や芸術分析という方法で芸術を見る事が、
芸術を理解するのに有効であると考えるからです。
芸術というのは、あくまでも実際の作品を通して
出現するものだからです。

ところが、日本の美術界では、
他人の作品を見るとマネをすることになるから、
見ない事にするという、変な風潮が作家の中に蔓延しています。
これは間違いです。
迷信なのです。

マネをするという模倣マシーンになってしまうのは、
《想像界》の人格しか無い、
子供の人格の弱さなのです。

人格を《象徴界》《現実界》まで分化させて、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な作家主体を
持って、総合力をつければ、
簡単な形では、他人を真似する事にはなりません。

自分の人格を成長させる事は、
作家として大きくなるためには重要な事なのです。
ところが、現在の日本のアーティストは、
未熟で子供である事が、すぐれたアーティストになることだと、
錯誤しているのです。
それは岡本太郎からの悪しき伝統です。
しかし岡本太郎は、人類史の中で見れば、
愚劣な作家に過ぎないのです。
岡本太郎よりもすぐれたアーティストは、
いくらでもいるのです。
岡本太郎は【B級美術家】です。

他の領域を見れば、他人の仕事を良く見ています。
建築の人々は、他の建築家が作った建築を実際に見るために、
良く見て歩きます。
建築ツアーを企画するのです。
私も参加しています。
他人の建築を、たいへんに厳しい眼で見て、批評をしています。

将棋とか碁の棋士たちも、他人の戦いを良く見て、勉強しています。
新しい手は、日々生み出されているので、他人の戦いを見なければ、
自分が実際の戦いで接した時に、対応を取るのが遅れてしまうからです。

戦争もそうであって、たとえば湾岸戦争や、イラクの戦争を、
アメリカ軍がやれば、各国の軍事専門家は、戦地に行って、
見学するのです。武器の威力や、戦闘のやり方を研究して、
自分の実際の軍事力の実力や、整備の方向を考えるのです。

詩人も他の人の詩を、良く読んでいます。
たとえば建畠哲氏は、美術評論家や国立国際美術館の館長である
だけでなくて、詩人でもありますが、
彼は良く、他の詩人の詩集を読んでいて、詩人を批評する力は、
大変にある方で、私は尊敬しています。

美術家自身も、他人の作品を一生懸命に見に行って来た、
歴史があります。
例えば、アメリカを代表する彫刻家のデヴィッドスミスは、
同時代の作家を良く見ています。
レオナルド・ダ・ヴィンチにしても、
最後の晩餐は、多くの先人の作品を見た上で、描いていると思われます。

先人の美術を多く見て、
その検討を通して、
美術や芸術について考えて行く事は重要なのです。

◆◆2◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
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《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品、固体美術。

実体的美術(エンターテイメント)

《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィアン(記号表現)の美術。

《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】


この写真は、写っているやなぎみわ が本当に怖いのが分かる
楽しい写真で、運転している運転手の面白がっている軽薄な表情も、
リアルです。
しかし、それ以上の面白みはありません。

女性と言うか、老婆の部分が明るくなっています。
照明を当てている可能性もありますが、
走っているものですから、カメラの角度から考えて、
車体に取り付けたカメラからの撮影だろうと思います。影
したがって、老婆が明るいのは、後からの操作だろうと思います。

それを昔のアナログ写真では「おおい焼き」といいましたが、
現在はコンピューターのPhotoshopで、
デジタル的に調整が出来ます。

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その構造を分かりやすくするために、
明度を落とし、とコントラストを強くして加工したものを、
お見せします。

どちらにしろ、老婆を明るく、分かりやすく加工する事で、
写真は実体化し、説明的なものに、退落しています。
やなぎみわ の作品は、説明的なものなのです。


やなぎみわ の作品は、大型写真で、たぶんですが、ラムダプリントでの
出力らしく、きれいではあります。
そして老婆に扮して、さまざまな設定の物語の中で、写真が、
大掛かりにフィクショナブルに作られています。

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この作品も、子供たちの顔が、本当に気持ち悪がっているのが写っていて、
面白いものです。
老婆の扮装そのものは、ハリウッドのSFXのひとつである特殊メイクで、
ある意味で、どうにでもなるし、それが やなぎみわ の独創ではないし、
特にすぐれているものでは、ありません。
以下の画像は、特殊メイクのサンプルです。


しかしそれは《想像界》のイメージのたわむれでしかなくて、
私には、まったく面白く無いものでありました。

基本的には、扮装ものなので、シンディーシャーマンから、
大きな流行で、何人もの作家が似た様なものを作って来ているのですが、
代表は森村泰昌でしょうが、
こうした流れのものであります。

◆◆3◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

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高嶺格の作品(加筆1) [日本アーティスト序論]

高嶺格の作品

◆◆1、クレイ・アニメーション◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

高嶺格を、私は国立近代美術館で開催された『連続と侵犯』で見ています。

《God Bless America》という題名の、クレイ・アニメーションの作品です。

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男女2人での協同作業で「2トンもの粘土と格闘する、大変な肉体労働の」日々だったという、粘土をつかったアニメーション映画です。「作家がセットの中に寝泊まりしながら18日間かけて撮影したもの」で、日記アニメ的な処理で18日間ノンストップで展開し、作者たちが寝ていたり、SEXをしていたりするのも写るというものです。観客としての私は、けっこうこれを長く見ていたことを記憶しています。

goo1-1.jpg

油土と格闘すると言うと、
関根伸夫の油土を思い出します。
ある意味では、そのポスト・モダン版であるとも言える作品です。

《想像界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント。

《想像界》の作品。
気体アート、
シニフィエのアート。

クレイ・アニメーションというと、NHKの『プチプチ・アニメ』から、アードマン・アニメーションズや、ヤン・シュヴァンクマイエルの作品などが連想されます。

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Wallace-and-Gromit-wallace-and-gromit-68268_1024_768.jpg
image.jpeg

こういう、従来のまともなクレイアニメーション作品と、
高嶺格の作品の差異を強調する為にも、
アニメだけでなくて、
会場には油土も展示して欲しかったと言う気持ちがあります。

せっかく2トンもの油土を使い、関根伸夫の油土作品と言う伝説的な歴史を下敷きにし得る日本の現代美術の作家なのだから、こうした事を踏まえたサイトシ ペシフィックな作品にして欲しかったのです。

つまりニメーションという映像と、それを作った場所性と、材料の2トンの油土を結びつけた作品が、見たかったのです。油土が展示されていたら、《想像界》だけの作品にならなかっただろうと思います。

この作品について石橋宗明は、次の様に書いています。

セットの真中にどっしりと据えられた大きな油土の塊が、目まぐるしく変貌してゆく。強く印象に残っているのは、カリカチュアされたブッシュ大統領の頭部が変貌を重ね、「God bless America My home sweet home」と惚けたように歌ってみせる場面である。セプテンバー11の惨事から立ち直ろうとする人々が口ずさむ愛国歌が、いつしか偏狭さを帯び始めるや、ブッシュの軍勢はアフガニスタンに侵攻した。愚かな過ちの上に、更に間違いを塗り重ね、世界を抜き差しならぬ事態へと向かわせようとする彼らの時代を象徴する歌として、やがて記憶されるのだろう。私はその歴史の評価を、油土の奇妙な歌声に聞くような気がした。
 ところで、同じテキストによると高嶺格は、「この作品は単純なアメリカ批判ではない」と述べている。ことさら反米色を際立たせた作品ではないことは、その内容からも窺える。油土との格闘は、不条理に対する抵抗の試みとして始められる。


ここで石橋が、「不条理に対する抵抗のこころみ」と指し示しているあるものが、高嶺格の作品を成立させている様に見えます。

杉浦氏という人物が、「日本アニメーション学会第5会大会」で見た高嶺格のこのクレイ・アニメーションを次の様に、辛口批評しています。

赤い部屋の中である。ほぼ人間の背丈ほどもある粘土の塊(2tあるそうだ)が、アメリカ人らしい人の形を取っている。これがアニメートされて、「God Bless America」を唄い出す。それをアニメートする作業自体も映り込み、一種の日記アニメ的な処理で18日間ノンストップで継続し、夜間はインターバルタイマーによる無人撮影がなされ、作者たちが寝ていたり、SEXをしていたりするのも写る。朝に窓から光が差込むのが美しい。

相原信洋の「stone」を連想させるようなスケール感があるが、これは作者が「初めて作ったアニメ作品です」というように、アニメーション系作家ではなく、パフォーマンス系作家であることが重要な作品のポイントとなっているように感じる。アニメーション系作家の場合、2tの粘土をアニメートする、という発想はまず浮かばない。制作作業自体をアニメートの一環として撮影するという発想は浮かんでもである。やはりこの作品の成功は、「現実に巨大な」粘土によって日記アニメを作ったことである。懇親会の席で、筆者は少し作者と話したが、その時に高嶺氏は「次はもっと小さなもので....」なんて情けないことを言ったので、筆者は「いや、次は20tの粘土でやり、その次はブルドーザーで地球をアニメートしなきゃ!」と思わずアオってしまった。

結論として、「普通に面白いアニメーション」であり、アメリカ批判も方法に皮肉味があり小洒落たところがあるだけで、ホントは表層的なものである。パフォーマンス系出身であるその資質面での面白さにかなり依存している。


原久子は「高嶺格の作品はパフォーマンスであれ、なんであれ、とにかく身体と密接な関係をもち、そして、人間という物体をさまざまなものから解放してみる試みや、解放される ことの叶わない部分のもどかしさを伝達することを作品のなかでおこなっている」(http://www.art-yuran.jp/1998/06/vol04_.html)と書いています。

この不条理に対する抵抗が、実は、原が指摘する様に、《解放への希求》であるというところが、高嶺格の人気の秘密であるように思います。

日本人の多くは、岡本太郎の「芸術は爆発だ!」という主張を信じて、芸術を感情の《爆発》や、《解放》の問題と考えているのです。それは、鑑賞者には言える事かもしれませんが、制作者には当てはまらない事なのです。芸術作品の制作というのは、実は《解放への希求》の反対であって、《抑制の希求》なのです。

高嶺格は《解放への希求》に取り憑かれているが故に、作品そのものは《8流》でしかなくて、このクイ・アニメーションは、作品としては成功しいないように見えます。つまり《1流》や《超1流》の作品ではなくて、《8流》という、「鰯の頭も信心から」と言いますが、良いと思える人だけに良いという新興宗教のような信仰作品になっているのです。

なぜならクレイ・アニメーション作品、あるいは美術作品としての構造や組み立て、秩序、そして原理や技術といったものが、高嶺格によっては、本質的なものとして追求されていないからです。

そうでではなくて、この作品である事に平行して存在している2トンの油土と格闘している事実そのものと、作品の外に存在しているアメリカというものそのものの事実において、この高嶺格の事実としての抵抗と、《解放への希求》の試みがされているのです。

こういう事実に共感する人々が、彼に対する評価を与えている様に思えます。

だから高嶺格という人の行為は、事実をつくる事実家のものであって、作品を作る作家というものでは、ないのであります。このことは高嶺格が、ダムタイプという「マルチメディア・アート・パフォーマンス・グループ」から出て来た事が、大きくあります。ダムタイプという名前は英語のDumb(=言語能力を失った、口のきけない、無口な、ばかな、まぬけな)とType(=型、 類型、タイプ)から成る造語Dumb Typeであり、「ヒエラルキー嫌い、サイエンス嫌いからこうなった」と、メンバーが語っていますが、高嶺格自体が、自分が記憶を維持できず、少しおかしいことを強調する事で、馬鹿で間抜けなアーティストであることを売り物にしているからです。

つまり馬鹿で間抜けなアーティストである高嶺格が、芸術作品という枠組みの外に出てしまった、事実の面白さが、高嶺格の作品の魅力であるように見えます。

繰り返すと、高嶺格は、作家ではなくて事実家なのです。
その作るものは正確には作品ではなくて、作品にはなり得ていない事実品なのです。
その面白さが、現在の観客の趣味と一致するのです。今日の日本の観客は、アーティストというのは草間弥生のように、少しおかしい人と思い、その人によるアートという名前の便器であると、思っているのです。

問題は、デュシャンの便器は名品まがいの扱いにはなっていますが、一般的な「事実品」というのは、寿命が短いという事です。20年後に、この高嶺格のクレイ・アニメーションを見せられても、歴史に残る名作としては、見えないでしょう。高嶺格の作品は、ダムタイプ出身のアーティストによる、パフォーマンス的な《生もの》なのです。死後に名品として残される作品が目指されていないように見えます。

この辺の問題は、会田誠と共通していることです。会田誠の代表作を1点上げるとすると『紐育空爆之図(にゅうようくくばくのず)(戦争画RETURNS)』(1996年)でしょうが、これは新聞紙の上に描かれているので、20年後には新聞紙は酸性紙なのでボロボロに劣化して、名品という形では残らないものなのです。意図的にこうした素材の悪さを使う所に、芸術というものの外部への、会田誠の逃亡の欲求が見られます。

根本において会田誠においても、高嶺格にしても、芸術や、死後に残る名作と言った《象徴界》的な抑圧から、逃亡しようという強い欲求があります。それはまた現在の観客の欲望でもあります。

芸術という抑圧からの《解放への希求》が、この二人には制作の動機づけとして作動しているように見えます。そして観客もまた、アートという名前のもとに、芸術ではない事実を見て、満足しているのです。



◆◆2、『木村さん』事件◆◆◆◆◆◆◆◆

高嶺格の名前を印象づけられた一つに、『木村さん』事件があります。

横浜美術館で開催中の『ノンセクト・ラジカル 現代の写真III』で、高嶺格のビデオ作品『木村さん』が、開催直前に公開中止となったのです。

私は未見ですが、『木村さん』はたった9分のビデオの小品で、登場するのは一級障害者である木村さんと高嶺だけだそうです。

kimura1.jpg

それも高嶺さんは、目と手と声だけが映っているのです。そしてもう独りの主演である木村さんは森永砒素ミルク事件の被害者でした。

森永砒素ミルク事件というのは、1955年6月頃から、森永乳業徳島工場が製造した缶入り粉ミルク「森永ドライミルク」の製造過程で用いられた添加物の中に不純物としてヒ素が含まれていたため、主に西日本を中心としてヒ素の混入した粉ミルクを飲用した1万3千名もの乳児がヒ素中毒になり、130名以上の中毒による死亡者と中毒患者の後遺症者を出した大事件でした。

この森永砒素ミルク事件の被害者でる木村さんは意識も思考もしっかりしているのですが、手足は動かせず、口もきけないのです。だからこそ表現欲求は人並み以上にあり、劇団態変のメンバーとして舞台に出演し、バンド活動も行っている方でした。

高嶺格は自分と木村さんが「元々似た人種」だと思い、5年間ほど、ボランティアで自宅介護を行ったのです。その介護には、性的なものも含まれていたのです。

以下、この映画を見て、横浜美術館事件について書かれた小崎哲哉(『REALTOKYO』および『ART iT』発行人兼編集長の『横浜美術館の失態』という文章からの引用です。

 http://www.realtokyo.co.jp/docs/ja/column/outoftokyo/bn/ozaki_93/

http://www.realtokyo.co.jp/docs/ja/column/outoftokyo/bn/ozaki_94/


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カメラは基本的にはベッドに横たわる木村さんを捉えつづけ、モノクロの映像は同じものが2面のスクリーンに投影され、突然左右非対称の目のアップが現れることがある。以前に同じ映像を用いて行ったパフォーマンスの折の、高嶺自身の目だ(つまりこの作品は「ビデオ<パフォーマンス<ビデオ」という入れ子構造になっている)。

ozaki093_04.jpg

横たわった木村さんのパジャマ(?)をはだけ、上半身を撫でまわす手も高嶺のものだろう。腹部から胸にかけてゆっくりと動かされる手。ときおり乳首のあたりで、揉むでもなく抓るでもなく、指先が遊ぶ。その手は下腹部に移り、ペニスを握り、ゆっくりと上下させる。

 ozaki093_05.jpg

高嶺による(本人曰く)「拙い」英語でのナレーションが挿入される。「障害者を表す『disable』という言葉にどうしても違和感を持つ」「木村さんも僕もゲイではない」「『このビデオを公開してもいいか』と聞いたら、木村さんは顔をくしゃくしゃにして『いい、いい』と言った」などなど。日本人が語る英語と、その英語に対して日本語字幕がつくというスタイルによって、あるいはいくたびか挿入される目によって、さらにはモノクロームの映像によって、画面を見ることにはかすかな非現実感が漂う。高嶺は木村さんのペニスを撫でさすり続ける。編集過程で加えられたという声がそのシーンに重なる。そして射精。性器の先端から、精液がスローモーションでほとばしり出る。

 

次の瞬間、聞いたこともないような哄笑に、観客は度肝を抜かれる。それはもちろん、解放感あふれる愉悦を得た木村さんの、獣の雄叫びに似た底なしの笑い声だ。気がつくと画面はカラーになっている。木村さんは笑いつづける。高嶺はその声を録りつづける。観客は度肝を抜かれつづける……。出展されるはずだった『木村さん』はそんな作品である。


 さて、私自身は、この横浜美術館の上映中止そのものには、あまり興味がありません。私見を申し上げれば、社会には、性的抑圧というものが必要であると思います。1970年代のアメリカのように、地下鉄の走る車両の中で、レイプが頻発し、他の乗客が見て見ぬ振りをするような事態は、好ましくないのです。


そして身障者の性の問題というのも、極めて難しい。実際に私の弟というのも、重度の脳性麻痺で、彼の性の問題というのもあるのですが、それを兄の私が処理するという事は、近親相姦のタブーに抵触しますから、考えるだけで難しい事です。


さらに言えば、木村さんや私の弟の正雄君の性的な子孫を、どうするのか?という問題が、潜在しているのです。性というのは、基本的には子孫を残す事であって、マスターベーションの事ではありません。身障者の子孫を残すべきなのか? この問いの前で、何を答えるのか? つまり性の問題には、同時に生物の世界にある淘汰の問題に抵触しるのです。


社会も自然も、適者生存の原則が貫徹されています。そして同時に社会を成立させる為には、性的表現の抑圧や、プライバシーの非公開の問題が重要なのです。それらは極めてデリケートであって、一概に議論し得ないところがあるのです。

 

この高嶺格の『木村さん』については、ニューヨークを拠点に活動している現代美術美術のキュレーター渡辺信也が、[『木村さん』について私が知ってる二、三の事柄   (10/31/ 2004)]という興味深い美術評論を書いています。その中で、高嶺格の『木村さん』というビデオ作品を、次の様に批評しています。


まず始めに述べるが、私は美術作品としての『木村さん』はそれほど評価していない。しかし作品中私が面白いと思ったシーンは、淡々と続く作品の途中に突然、アラン・レネの映画「ミュリエル」を思わせるガシャーンという効果音が入り、その後、男性の低い声「森永の野郎・・・」と続くシーンである。このシーンにはゾっとした。そうか、そういう事だったのか、このベットに横たわった男性は森永砒素ミルク事件の被害者なのか・・・。木村氏についての解説を受けなかった私の頭の中で、そんな考察が高速で突き抜けていった。

しかし、作品のシーンで私が気に入っているのはこのシーン位かもしれない。その後に続く高嶺氏が木村氏の性器をシコシコとやっている所はあまり面白くない。

高嶺氏の他の作品から見る性について

また重要な事実として、高嶺氏の作品の中で下半身を取り扱った作品が多いのはどうしてだろうか。高嶺氏の初期作品で、新幹線にくくりつけられた女性のミニスカートが高速でめくれ上がるというビデオ作品がある。これは笑えるので私は好きなのだが、他はどうだろうか。

高嶺氏は、パフォーマンス“K.I.T (Being in Touch is Keeping-all-in-Touch)”においても検閲されている。9月17日にICCで行われたパフォーマンスの中で、成人向けウェブサイトの画像が2フレームずつ次々と現われるという映像が会場壁面に投影される場面をICC側が好ましくないと判断し、予定されていた2日目のパフォーマンスは中止になったと言う。またこの作品では、激しくダンスを踊る高嶺氏の股間に括り付けられたカメラが、アーティストの震える金玉を捉え続け、それが壁面にも投影されるのだが、このビデオを見た私は、これは果たして美術なのか?と考え込んでしまった。

高嶺氏はこういった下半身、または性(または生)をテーマにした作品を多く作っているが、それを考える上で、高嶺氏が1993年から97年にかけて、ダムタイプのパフォーマーとして活躍していた事が重要ではないだろうか。

92年秋、ダムタイプの中心的存在であった古橋悌二が、自身によってHIVポジティヴであるという現実をメンバーにカミングアウトし、それを期にダムタイプはエイズや同性愛などをめぐる諸問題を社会に対して積極的に発信していく様になる。特に94年初演の「S/N」は、古橋のHIV感染という事実をふまえ、エイズや性などをめぐる問題を、鋭い社会批判と洗練された変態パフォーマンスを舞台に織り交ぜてみせた。95年10月、《S/N》のブラジル公演中に35歳を迎えた古橋悌二は他界するのだが、ダムタイプは古橋を失った後も活動を続け、97年には「OR」という作品を生み出す。それは、病院のベッドで生か死かの臨界に置かれた身体を、<ダムタイプ>のメンバーひとりひとりが追体験するというものだった。

その後、高嶺氏はダムタイプを脱退するが、あたかもイアン・カーティスの死を乗り越えたバンド、ジョイ・ディビジョンが、新バンド、ニューオーダーとしてイアン追悼の名曲「ブルーマンデー」を作った様に、高嶺氏も古橋氏の死をどこかで重く受け止め、『木村さん』により生と死の臨界を近年の作品の中で模索しているではないかと思う。しかし美術作品としての完成度という点では、十分であるとは私には思えない。

【中略】

 まとめ

高嶺氏が木村氏を5年に渡り介護した事は疑い様もなく素晴らしい事である。また作品作りに対する本人の真摯な姿勢も素晴らしいと思う。しかし、美術作品としての『木村さん』を私は傑作だと思わない。なぜなら、障害者ロマン主義に陥る危険性と快楽としてのセックスに対する批判精神の欠如が拭えなかった事、さらに作品としての完成度が十分でない事が主な理由である。

http://www.spikyart.org/kimurasan.htm

 

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高嶺格の作品

◆◆1、クレイ・アニメーション◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

高嶺格を、私は国立近代美術館で開催された『連続と侵犯』で見ています。

《God Bless America》という題名の、クレイ・アニメーションの作品です。

5804767.jpg

男女2人での協同作業で「2トンもの粘土と格闘する、大変な肉体労働の」日々だったという、粘土をつかったアニメーション映画です。「作家がセットの中に寝泊まりしながら18日間かけて撮影したもの」です。観客としての私は、けっこうこれを長く見ていたことを記憶しています。

goo1-1.jpg

油土と格闘すると言うと、
関根伸夫の油土を思い出します。
ある意味では、そのポスト・モダン版であるとも言える作品です。

《想像界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント。

《想像界》の作品。
気体アート、
シニフィエのアート。

クレイ・アニメーションというと、NHKの『プチプチ・アニメ』から、アードマン・アニメーションズや、ヤン・シュヴァンクマイエルの作品などが連想されます。

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こういう、従来のクレイアニメーションと、
高嶺格の作品の差異を強調する為にも、
アニメだけでなくて、
会場には油土も展示して欲しかったと言う気持ちがあります。

せっかく2トンもの油土を使い、関根伸夫の油土作品と言う伝説的な歴史を下敷きにし得る日本の現代美術の作家なのだから、こうした事を踏まえたサイトシ ペシフィックな作品にして欲しかったのです。

つまりニメーションという映像と、それを作った場所性と、材料の2トンの油土を結びつけた作品が、見たかったのです。油土が展示されていたら、《想像界》だけの作品にならなかっただろうと思います。

この作品について石橋宗明は、次の様に書いています。

セットの真中にどっしりと据えられた大きな油土の塊が、目まぐるしく変貌してゆく。強く印象に残っているのは、カリカチュアされたブッシュ大統領の頭部が変貌を重ね、「God bless America My home sweet home」と惚けたように歌ってみせる場面である。セプテンバー11の惨事から立ち直ろうとする人々が口ずさむ愛国歌が、いつしか偏狭さを帯び始めるや、ブッシュの軍勢はアフガニスタンに侵攻した。愚かな過ちの上に、更に間違いを塗り重ね、世界を抜き差しならぬ事態へと向かわせようとする彼らの時代を象徴する歌として、やがて記憶されるのだろう。私はその歴史の評価を、油土の奇妙な歌声に聞くような気がした。
 ところで、同じテキストによると高嶺格は、「この作品は単純なアメリカ批判ではない」と述べている。ことさら反米色を際立たせた作品ではないことは、その内容からも窺える。油土との格闘は、不条理に対する抵抗の試みとして始められる。


ここで石橋が、「不条理に対する抵抗のこころみ」と指し示しているあるものが、高嶺格の作品を成立させている様に見えます。

原久子は「高嶺格の作品はパフォーマンスであれ、なんであれ、とにかく身体と密接な関係をもち、そして、人間という物体をさまざまなものから解放してみる試みや、解放される ことの叶わない部分のもどかしさを伝達することを作品のなかでおこなっている」(http://www.art-yuran.jp/1998/06/vol04_.html)と書いています。

この不条理に対する抵抗が、実は、原が指摘する様に、《解放への希求》であるというところが、高嶺格の人気の秘密であるように思います。

日本人の多くは、岡本太郎の「芸術は爆発だ!」という主張を信じて、芸術を感情の《爆発》や、《解放》の問題と考えているのです。それは、鑑賞者には言える事かもしれませんが、制作者には当てはまらない事なのです。芸術作品の制作というのは、実は《解放への希求》の反対であって、《抑制の希求》なのです。

高嶺格は《解放への希求》に取り憑かれているが故に、作品そのものは《8流》でしかなくて、このクイ・アニメーションは、作品としては成功しいないように見えます。つまり《1流》や《超1流》の作品ではなくて、《8流》という、「鰯の頭も信心から」と言いますが、良いと思える人だけに良いという新興宗教のような信仰作品になっているのです。

なぜならクレイ・アニメーション作品、あるいは美術作品としての構造や組み立て、秩序、そして原理や技術といったものが、高嶺格によっては、本質的なものとして追求されていないからです。

そうでではなくて、この作品である事に平行して存在している2トンの油土と格闘している事実そのものと、作品の外に存在しているアメリカというものそのものの事実において、この高嶺格の事実としての抵抗と、《解放への希求》の試みがされているのです。

こういう事実に共感する人々が、彼に対する評価を与えている様に思えます。

だから高嶺格という人の行為は、事実をつくる事実家のものであって、作品を作る作家というものでは、ないのであります。このことは高嶺格が、ダムタイプという「マルチメディア・アート・パフォーマンス・グループ」から出て来た事が、大きくあります。ダムタイプという名前は英語のDumb(=言語能力を失った、口のきけない、無口な、ばかな、まぬけな)とType(=型、 類型、タイプ)から成る造語Dumb Typeであり、「ヒエラルキー嫌い、サイエンス嫌いからこうなった」と、メンバーが語っていますが、高嶺格自体が、自分が記憶を維持できず、少しおかしいことを強調する事で、馬鹿で間抜けなアーティストであることを売り物にしているからです。

つまり馬鹿で間抜けなアーティストである高嶺格が、芸術作品という枠組みの外に出てしまった、事実の面白さが、高嶺格の作品の魅力であるように見えます。

繰り返すと、高嶺格は、作家ではなくて事実家なのです。
その作るものは正確には作品ではなくて、作品にはなり得ていない事実品なのです。
その面白さが、現在の観客の趣味と一致するのです。今日の日本の観客は、アーティストというのは草間弥生のように、少しおかしい人と思い、その人によるアートという名前の便器であると、思っているのです。

問題は、デュシャンの便器は名品まがいの扱いにはなっていますが、一般的な「事実品」というのは、寿命が短いという事です。20年後に、この高嶺格のクレイ・アニメーションを見せられても、歴史に残る名作としては、見えないでしょう。高嶺格の作品は、ダムタイプ出身のアーティストによる、パフォーマンス的な《生もの》なのです。死後に名品として残される作品が目指されていないように見えます。

この辺の問題は、会田誠と共通していることです。会田誠の代表作を1点上げるとすると『紐育空爆之図(にゅうようくくばくのず)(戦争画RETURNS)』(1996年)でしょうが、これは新聞紙の上に描かれているので、20年後には新聞紙は酸性紙なのでボロボロに劣化して、名品という形では残らないものなのです。意図的にこうした素材の悪さを使う所に、芸術というものの外部への、会田誠の逃亡の欲求が見られます。

根本において会田誠においても、高嶺格にしても、芸術や、死後に残る名作と言った《象徴界》的な抑圧から、逃亡しようという強い欲求があります。それはまた現在の観客の欲望でもあります。

芸術という抑圧からの《解放への希求》が、この二人には制作の動機づけとして作動しているように見えます。そして観客もまた、アートという名前のもとに、芸術ではない事実を見て、満足しているのです。


◆◆2、『木村さん』事件◆◆◆◆◆◆◆◆

嶺格の名前を印象づけられた一つに、『木村さん』事件があります。

横浜美術館で開催中の『ノンセクト・ラジカル 現代の写真III』で、高嶺格のビデオ作品『木村さん』が、開催直前に公開中止となったのです。

私は未見ですが、『木村さん』はたった9分のビデオの小品で、登場するのは一級障害者である木村さんと高嶺だけだそうです。

kimura1.jpg

それも高嶺さんは、目と手と声だけが映っているのです。そしてもう独りの主演である木村さんは森永砒素ミルク事件の被害者でした。森永砒素ミルク事件というのは、1955年6月頃から、森永乳業徳島工場が製造した缶入り粉ミルク「森永ドライミルク」の製造過程で用いられた添加物の中に不純物としてヒ素が含まれていたため、主に西日本を中心としてヒ素の混入した粉ミルクを飲用した1万3千名もの乳児がヒ素中毒になり、130名以上の中毒による死亡者と中毒患者の後遺症者を出した大事件でした。この森永砒素ミルク事件の被害者でる木村さんは意識も思考もしっかりしているのですが、手足は動かせず、口もきけないのです。だからこそ表現欲求は人並み以上にあり、劇団態変のメンバーとして舞台に出演し、バンド活動も行っている方でした。高嶺格は自分と木村さんが「元々似た人種」だと思い、5年間ほど、ボランティアで自宅介護を行ったのです。その介護には、性的なものも含まれていたのです。

以下、この映画を見て、横浜美術館事件について書かれた小崎哲哉(『REALTOKYO』および『ART iT』発行人兼編集長の『横浜美術館の失態』という文章からの引用です。

 http://www.realtokyo.co.jp/docs/ja/column/outoftokyo/bn/ozaki_93/

http://www.realtokyo.co.jp/docs/ja/column/outoftokyo/bn/ozaki_94/


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カメラは基本的にはベッドに横たわる木村さんを捉えつづけ、モノクロの映像は同じものが2面のスクリーンに投影され、突然左右非対称の目のアップが現れることがある。以前に同じ映像を用いて行ったパフォーマンスの折の、高嶺自身の目だ(つまりこの作品は「ビデオ<パフォーマンス<ビデオ」という入れ子構造になっている)。

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横たわった木村さんのパジャマ(?)をはだけ、上半身を撫でまわす手も高嶺のものだろう。腹部から胸にかけてゆっくりと動かされる手。ときおり乳首のあたりで、揉むでもなく抓るでもなく、指先が遊ぶ。その手は下腹部に移り、ペニスを握り、ゆっくりと上下させる。

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高嶺による(本人曰く)「拙い」英語でのナレーションが挿入される。「障害者を表す『disable』という言葉にどうしても違和感を持つ」「木村さんも僕もゲイではない」「『このビデオを公開してもいいか』と聞いたら、木村さんは顔をくしゃくしゃにして『いい、いい』と言った」などなど。日本人が語る英語と、その英語に対して日本語字幕がつくというスタイルによって、あるいはいくたびか挿入される目によって、さらにはモノクロームの映像によって、画面を見ることにはかすかな非現実感が漂う。高嶺は木村さんのペニスを撫でさすり続ける。編集過程で加えられたという声がそのシーンに重なる。そして射精。性器の先端から、精液がスローモーションでほとばしり出る。

 

次の瞬間、聞いたこともないような哄笑に、観客は度肝を抜かれる。それはもちろん、解放感あふれる愉悦を得た木村さんの、獣の雄叫びに似た底なしの笑い声だ。気がつくと画面はカラーになっている。木村さんは笑いつづける。高嶺はその声を録りつづける。観客は度肝を抜かれつづける……。出展されるはずだった『木村さん』はそんな作品である。


 さて、私自身は、この横浜美術館の上映中止そのものには、あまり興味がありません。私見を申し上げれば、社会には、性的抑圧というのが必要がないということは、言えないからです。


そして身障者の性の問題というのも、極めて難しい。実際に私の弟というのも、重度の脳性麻痺で、彼の性の問題というのもあるのですが、それを兄の私が処理するという事は、近親相姦のタブーに抵触しますから、考えるだけで難しい事です。


さらに言えば、木村さんや私の弟の正雄君の性的な子孫を、どうするのか?という問題が、潜在しているのです。性というのは、基本的には子孫を残す事であって、マスターベーションの事ではありません。身障者の子孫を残すべきなのか? この問いの前で、何を答えるのか? つまり性の問題には、同時に生物の世界にある淘汰の問題に抵触しるのです。


社会も自然も、適者生存の原則が貫徹されています。そして同時に社会を成立させる為には、性的表現の抑圧や、プライバシーの非公開の問題が重要なのです。それらは極めてデリケートであって、一概に議論し得ないところがあるのです。

 

この高嶺格の『木村さん』については、ニューヨークを拠点に活動している現代美術美術のキュレーター渡辺信也が、[『木村さん』について私が知ってる二、三の事柄   (10/31/ 2004)]という興味深い美術評論を書いています。その中で、高嶺格の『木村さん』というビデオ作品を、次の様に批評しています。


まず始めに述べるが、私は美術作品としての『木村さん』はそれほど評価していない。しかし作品中私が面白いと思ったシーンは、淡々と続く作品の途中に突然、アラン・レネの映画「ミュリエル」を思わせるガシャーンという効果音が入り、その後、男性の低い声「森永の野郎・・・」と続くシーンである。このシーンにはゾっとした。そうか、そういう事だったのか、このベットに横たわった男性は森永砒素ミルク事件の被害者なのか・・・。木村氏についての解説を受けなかった私の頭の中で、そんな考察が高速で突き抜けていった。

しかし、作品のシーンで私が気に入っているのはこのシーン位かもしれない。その後に続く高嶺氏が木村氏の性器をシコシコとやっている所はあまり面白くない。

高嶺氏の他の作品から見る性について

また重要な事実として、高嶺氏の作品の中で下半身を取り扱った作品が多いのはどうしてだろうか。高嶺氏の初期作品で、新幹線にくくりつけられた女性のミニスカートが高速でめくれ上がるというビデオ作品がある。これは笑えるので私は好きなのだが、他はどうだろうか。

高嶺氏は、パフォーマンス“K.I.T (Being in Touch is Keeping-all-in-Touch)”においても検閲されている。9月17日にICCで行われたパフォーマンスの中で、成人向けウェブサイトの画像が2フレームずつ次々と現われるという映像が会場壁面に投影される場面をICC側が好ましくないと判断し、予定されていた2日目のパフォーマンスは中止になったと言う。またこの作品では、激しくダンスを踊る高嶺氏の股間に括り付けられたカメラが、アーティストの震える金玉を捉え続け、それが壁面にも投影されるのだが、このビデオを見た私は、これは果たして美術なのか?と考え込んでしまった。

高嶺氏はこういった下半身、または性(または生)をテーマにした作品を多く作っているが、それを考える上で、高嶺氏が1993年から97年にかけて、ダムタイプのパフォーマーとして活躍していた事が重要ではないだろうか。

92年秋、ダムタイプの中心的存在であった古橋悌二が、自身によってHIVポジティヴであるという現実をメンバーにカミングアウトし、それを期にダムタイプはエイズや同性愛などをめぐる諸問題を社会に対して積極的に発信していく様になる。特に94年初演の「S/N」は、古橋のHIV感染という事実をふまえ、エイズや性などをめぐる問題を、鋭い社会批判と洗練された変態パフォーマンスを舞台に織り交ぜてみせた。95年10月、《S/N》のブラジル公演中に35歳を迎えた古橋悌二は他界するのだが、ダムタイプは古橋を失った後も活動を続け、97年には「OR」という作品を生み出す。それは、病院のベッドで生か死かの臨界に置かれた身体を、<ダムタイプ>のメンバーひとりひとりが追体験するというものだった。

その後、高嶺氏はダムタイプを脱退するが、あたかもイアン・カーティスの死を乗り越えたバンド、ジョイ・ディビジョンが、新バンド、ニューオーダーとしてイアン追悼の名曲「ブルーマンデー」を作った様に、高嶺氏も古橋氏の死をどこかで重く受け止め、『木村さん』により生と死の臨界を近年の作品の中で模索しているではないかと思う。しかし美術作品としての完成度という点では、十分であるとは私には思えない。

【中略】

 まとめ

高嶺氏が木村氏を5年に渡り介護した事は疑い様もなく素晴らしい事である。また作品作りに対する本人の真摯な姿勢も素晴らしいと思う。しかし、美術作品としての『木村さん』を私は傑作だと思わない。なぜなら、障害者ロマン主義に陥る危険性と快楽としてのセックスに対する批判精神の欠如が拭えなかった事、さらに作品としての完成度が十分でない事が主な理由である。

http://www.spikyart.org/kimurasan.htm

 

私はこの渡辺信也氏の美術評論を優れていると思う。

付け加えるとすれば、高嶺格の作品の魅力というのは、渡辺信也氏の指摘する事が反転していて、実は美術作品として傑作ではなく、完成度が十分ではないから、観客の評価が高いのではないだろうか?

日本の社会が求めている美術作品というのは、今日では傑作としての美術作品ではない。そして完成度の高い美術作品でないのです。むしろ美術や芸術の外部にある、渡辺信也さんが「面白くない」と書いている「高嶺氏が木村氏の性器をシコシコとやっている所」を見て、これを芸術という名において、評価しているのです。


芸術の名において、つまらないものを評価する趣味に、今の日本の美術は取り憑かれているのであって、その面では真摯で、本物のおかしさを持っている高嶺格が、人気を博しているのです。

つまり美術作品としてはつまらなく、完成度が十分ではないから、高嶺格はすばらしいアーティストであるという倒錯が起きているのです。

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森村泰昌とシンディ・シャーマン/メイプルソープ(改題2改稿4加筆11写真増加3) [日本アーティスト序論]

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森村泰昌については、以前から書いていて、
拙著の中にも収録されているので、
繰り返しになる部分は書かないでおきます。

【加筆の《非合法性》論は青字にしてあります】

■エンターテイメントの問題

先日の『アトミック・サンシャインの中へ
日本国平和憲法第九条下における戦後美術
代官山ヒルサイドフォーラム)で、
森村泰昌の 三島由紀夫の作品を見ています。
ただしそれはビデオ作品でした。 

上に掲載したのは、写真作品。

《想像界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。

液体美術(=近代美術であって、現代アートではありません)。

シニフィエの美術(脳内リアリティの作品)。

割腹自殺した三島由紀夫を取り上げたということが、
あたかも《非合法性》を持っている様に受け取られているのですが、
作品そのものは、合法的な作品であって、
芸術性としての《非合法性》は、ありません。

芸術的な《非合法性》について、
誤解があるというか、通俗的な理解が流布されているのです。
つまり常識的に見ると、危ない題材をものにしていて、
《非合法性》があるという理解になるのです。
確かに【ユング的集合無意識】で見ると、
《非合法性》があります。
なにしろ【ユング的集合無意識】というのを、
普通の日常語で言えば、「常識」ということだからです。
この「常識」における《非合法性》が、
おそらく森村泰昌を社会的に成立させている重要なものなのでしょう。
しかしではこの《非合法性》は、本物なのか、
まやかしなのか、検証されているのでしょうか?

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ビデオは、

《非-実体性》《非-合法性》、そして《退化性》が、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界で皆無で、
芸術というものではありませんでした。


《8流》のマイナー性を持った、
エンターテイメントであって、

“インテレクチュアル・コロッケ”というものです。

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森村泰昌の顔です。        コロッケの顔です。

《想像界》の眼で《6流》。    《想像界》の眼で《1流》
《象徴界》の眼で《6流》。    《象徴界》の眼で《1流》
《現実界》の眼で《6流》。    《現実界》の眼で《1流》

《想像界》の人格。        《象徴界》の人格。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

自分で並べて驚いているのですが、
森村泰昌は《6流》で、《想像界》の人。
コロッケは、何と《1流》の《象徴界》の人でした。
コロッケの方が、格が高いのです。

森村泰昌の作品は、
基本的にエンターテイメントであって、
お笑い芸です。
基本的にファンタジーで、
本質性を欠いた、《気晴らしアート》です。
もちろん《ローアート》です。

だからこそ、受けているようです。

日本人は、芸術ではなくて、
エンターテイメントを求めているのです。

芸術とエンターテイメントは、
確かに銅貨の裏表ですから、
裏だけが好きというのも、
仕方がないかもしれません。

困った事ですが、
まあ、現在の日本の民度はそういうものなのです。

森村泰昌自身が、芸術である事には、
興味が無いのかと思っていましたが、ところが、
芸術の看板は必要であるようです。
エンターテイメントであればあるだけ、
それを芸術であると強弁しておく必要があるのでしょう。

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このデビュー作を格付けしてみます。

《想像界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。

《想像界》の美術。
液体美術(近代美術)。

《想像界》《象徴界》《現実界》、どこにも真性の芸術性がでてきません。
完全なデザイン的エンターテイメントでしかない作品であります。

【ユング的集合無意識】で見ても、
この作品は合法的なものであって、
《非合法性》はありません。

私がこの作品を最初に見たのは、
栃木県立美術館で1987年に開催された「現代美術になった写真」展でした。
その時も良い作品とは思いませんでした。

異論は、めちゃくちゃに多いとは思いますが、
私は、森村泰昌の作品に、芸術をどこにも見いだせません。

それに対して、森村泰昌が模倣したお手本の
初期シンディシャーマンは、
すばらしく、芸術です。
下記画像を見て、比較してみてください。

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《6流》          《超1流》
デザイン的エンターテイメント    真性の芸術
原始画面作品         透視画面作品
《気晴らしアート》      《シリアス・アート》
シニフィエの美術       シニフィアンの美術
偶像崇拝の美術        偶像崇拝禁止の美術

偶像崇拝の問題。

もっとも、シンディシャーマンにも異論があって、
「面白くない」、「分からない」という意見が多くあるかもしれません。
だからシンディシャーマンは芸術であって、お笑いではないのです。
森村泰昌の作品は、お笑いです。

しかし、そこに、最も重要な問題があります。
偶像崇拝の問題です。

抽象美術、特にミニマル・ペインティング以降の状況の中で、
再び具象画像を復活させた時に、
それをどのように取り扱い、
向き合うかというのは、難しい問題をはらんでいたのです。

1975年前後に出てくるシンディ・シャーマンや、
ロバート・メイプルソープの写真表現には
こうした具象の扱いに、高度な視点が見られるのです。

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つまり人間像というものを復活させて、
全面に出しながら、同時にそれに対して、
偶像崇拝禁止の抑制をかけていくという、
そういう表現がされているのです。

だから、メイプルソープシンディシャーマンの作品は、
面白いと同時に、謎めいていて、
分からなさを本質的に持っているのです。

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ここには、偶像画像としての人物像があるのですが、
それが崇拝対象としての偶像化がされないように、
同時に無化がされているのです。

どの様にして無化するのか?
という技術の問題は、あります。

シンディシャーマンの場合には、
シチュエーションを豊かに描き出す事で、
画像そのものも、人物像も、
明示されない不在のストーリーに相対化されているのです。

これに対して、
森村泰昌の画像は、逆で、
人物像は、呪術的アニミズム的に礼拝対象化されて、
強調され、絶対化されているのです。

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偶像崇拝化された画像です。

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これも偶像崇拝化されています。

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偶像崇拝化されています。

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偶像崇拝化されています。

《想像界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。

これは芸術ではないのです。

森村泰昌の場合に、周辺部の小道具や衣装、背景も、
すべてが、
この偶像崇拝性を強化する為に動員されているのです。

それに対して、
シンディシャーマンの作品は、
周辺部の小道具や衣装、背景も
偶像崇拝化を巧妙に抑圧して、
偶像崇拝を禁止するように機能させているのです。

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今回見つけた最初期の作品。
1975年の作品です。
森村泰昌のゴッホ(1985)よりも10年古い作品です。

重要なのは、左上に広がる明るい大きな空間。
そして、それと対照的な右下側にかたまる黒い手袋と衣服。

さらに女の表情です。そこには複雑なわけの分からないストーリが潜在化されていて、
森村泰昌のような単純な偶像崇拝化が起きない様な、相対化が仕掛けられているのです。

《想像界》の眼で《超1流》、真性の芸術。
《象徴界》の眼で《超1流》〜《7流》の重層表現。
               真性の芸術。
《現実界》の眼で《超1流》、真性の芸術。

《想像界》《象徴界》《現実界》3界同時表示。
固体/液体/気体、3様態同時表示。

こういう高度なダブルバインド的表現が、真性の芸術なのです。

ここには、偶像を取り入れながら、巧妙に相対化し、抑圧する事で、
偶像崇拝を禁止することに成功している、
高度な芸術があるのです。

ついでに、ロバート・メイプルソープの技法も見ておきましょう。

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束芋の作品(後半/加筆1) [日本アーティスト序論]

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◆◆1◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ニックネーム・アルナーチャラムさんは、束芋の作品について、
次の様に書いています。

「束芋」(たばいも)。
何じゃそりゃ、って?
朝日新聞を取っている人なら、毎日目にしているはず。
夕刊の連載小説の“あの挿絵”を描いているアーティスト(1975年兵庫県生まれ)。

何だか奇妙・グロテスクで、場合によっては気持ち悪いほどの毒気さえ感じさせるタッチで、人間の深層心理の奥に潜む本音をえぐり出して目の前につきつけられるような、恐怖感さえ感じるような絵が気になっていた。

この束芋の挿絵とおぼしき画像に、
彦坂尚嘉の格付けをしてみます。
どう、見えるのでしょうか?
  • 《想像界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
  • 《象徴界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
  • 《現実界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
  • 《想像界》の美術。《象徴界》や《現実界》は、無い。
  • 固体(前近代)美術 。
  • シニフィアンの美術。

【フロイト・ラカン的位相からの芸術分析】から見れば、
前近代に退化した骨董性をもつ、《6流》という自然領域の、
イラストレーションに過ぎないのであります。

不条理性である《4流》も無ければ、
犯罪領域である《31流》性も無いのです。
地獄領域である《41流》もありません。

だから毒気もなければ、深層心理も、グロテスクも、恐怖も、
本質的には無いのです。

芸術というのは気持ちの悪いものですが、
その一かけらも持っていないし、
何よりも《6流》の自然性だけであって、
倒錯領域である《8流》から《41流》性を
持っていないのでありますから、
かわいらしい、素朴な、
《想像界》の表現なのです。
ファンタジーです。

芸術性の無いデザインであり、
《想像界》の作品だからこそ、
高い社会性を持って、
ヒットするのです。

それはポップスやロックに於ける、ヒットの要件と同じであります。
芸術性のあるロックは、大ヒットする事は無いのです。
一部のマニアの深い尊敬に支えられて、
マニアックに存在するだけであって、
芸術というのは、基本的にはそうしたものに他なりません。

束芋の人気は、それはデザイン性のなせる技であって、
芸術性の高さではないのであります。

◆◆2◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

とは言っても、ニックネーム・アルナーチャラムさんが見ているのは、
私の分析の範囲では無いと思われます。

何だか奇妙・グロテスクで、
場合によっては気持ち悪いほどの毒気さえ感じさせるタッチで、
人間の深層心理の奥に潜む本音をえぐり出して目の前につきつけられるような、
恐怖感さえ感じるような絵。

つまり多くの人々が見ている束芋の魅力というのは、
私の【フロイト・ラカン的位相からの芸術分析】で語る範囲ではなくて、
むしろ【ユング的集合無意識】で見るときの束芋ではないのでしょうか?

【ユング的集合無意識】で束芋の上記のイラストを見ると、
《超1流》と判定が出るのです。

集合的無意識 は、
個人の経験を越えた、
集団無意識の深層に存在しているものです。

人間というのは、必ずしも個人として自立しているのではなくて、
知らず知らずのうちに話し方まで集団に合わせて変わってしまうように、
集団の同調現象の原理に支配されています。

《常識》というのもそういうものですし、
この《常識》の無意識の深層に集合無意識があると、
ユングは主張したのです。

日本社会を維持するために常識があって、
この圧力が働くことで、
日本人は、自分の考え方や行動が大きく逸脱しないように統制されるのですが、
それは束芋の主題である《日本民族のに存在すると考えられる、
元型的力動なのです。

そうした集団の心を制御をしているのが、
集合無意識ですが、
それはたびたび集団自殺へと、
雪崩を打って動くのであります。

人間の生命や文明社会、文化的な成果を根底から破壊して、
『無』に帰そうとする欲動が、死の本能です。

日本人の集合無意識的な精神活動も、
絶えず生の本能と死の本能の葛藤にさらされていて、
ある時から、雪崩を打って集団自殺にのめり込んで行くのです。

奇妙なグロテスクで、
気持ち悪いほどの毒気。
人間の深層心理の奥に潜む本音をえぐり出して目の前につきつける束芋!
恐怖感を感じさせる束芋の絵!

束芋の作品の中には【ユング的集合無意識】があって、
それが指し示すのは、集団自殺へと向かう同調現象です。
人々の意見がある方向のみに傾斜していく気味の悪さです。

例えば、勝算がないのは誰の目にも明らかであるにも拘らず、
戦艦大和の出撃を決定するなどの決断の同調現象です。


同調現象が起きたら、異論は歓迎されないのです。


ただ、「みんな」の意見を補強する意見のみが歓迎される。

そうして、異論に対しては、論理で反論するのではなく、

無視と黙殺で反論される。そして沈黙を強制するのです。


周囲を見回して、自分に異論があっても、

他に異論がないようならば、

異論の表明を控えるという自己検閲の機能も、強く働きます


お酒を飲みながら美術評論家の先生と話していて私と意見が合っても、

最後には「その意見は書かないよ」と言われます。

また同人誌をやっている時に、座談会で話していて、

文字起こしをすると「それは止めておこう」と、削られます。

こうして自己検閲が頻繁になされて、

同調現象が起きて行くのです。

こうして日本の美術批評は集団自殺を遂げてしまったのです。


こうして、「美術界一致の幻想」が現れます。

同調現象の結果は、どこでも、どの雑誌、どの美術館でも、

「みんな」が賛成していると信じられる作家だけが

集中して繰り返し取り上げられることになるのです。


この同調現象が、日本の美術界には、

繰り返し良く起きます。

美術関係者の意見がある方向のみに傾斜する事がおきるのです。

批評は消えて、

それこそ、束芋はすばらしいという、同調現象が起きます。


異論は、黙殺され、沈黙を強制されるのです。

こういう傾向は、森村泰昌、大竹伸朗、宮島達男、草間弥生の作品

への評価などにも見られます。

とても芸術には見えないものに、

日本人の評価の意見が雪崩を打って同調して行くのです。

多様な意見や、少数の異論を失って、

ある方向のみに傾斜する事がたびたび起きて行きます。

その結果として、批評が集団自殺したのです。

新興宗教が集団自殺したり、
そして日本が、3000倍の軍事力の差のあるアメリカに戦争を仕掛けて、
集団自殺へとのめり込んで行ったのも、
こうした集合無意識の同調現象メカニズムでした。

束芋の作品を成立させ、
そして多くの人が束芋の表現に《超1流》の魅力を見ているのは、
こうした集団性の無意識の深層に存在している集合無意識なのです。
ですから束芋の作品には、集団自殺へと動いて行く日本人集団の、
死の本能(タナトス)》が、深く関連性を持っているのです。


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タグ:束芋
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束芋の作品(前半/少し校正加筆1写真1枚追加) [日本アーティスト序論]

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束芋「at the bottom」(2007)

カルチェのモバイルアートは見に行ったので、
当然の様に束芋の作品は、
最初から最後まで、じっくりと見た。2回も見てしまった。
私の場合、自分が評価しない作家というのは、
私にわからないのだから、基本的には、きちんと見ようと努力する。
それと人に聞く。何故に良いのかと?

そういう訳で、
レトロでシュールなアニメーションが人気の高いとされる束芋 なのだが、
この作品、つまらなかった。
アニメーションとしては、まったく凡庸。
装置は、きれいにできていたから、装置を評価する視点で見なければならないのだろう。
しかし、アニメーションがあまりにも凡庸で、
この上映システムときちんと対応している様には見えなかったのだが、
どうだろうか?

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先日、丸亀の猪熊弦一郎美術館で見たピピロッティ・リストの方が、
私には面白かったのだが、そういう見方は、
束芋への偏見なのだろうか?

さて、そういうわけで、
束芋のモバイルアート作品である。

《想像界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《1流》、デザイン的エンターテイメント。
シニフィエの美術。
固体美術。

そう、固体美術なんですよね。
つまり現代アートではなくて、前近代アートなんですよ。
古いのね。
だからレトロと言われるのでしょうが、
本質的に表現が古くさいのね。
だから受けるのでしょうね。

束芋たばいも)は、本名、田端綾子。
1975年うまれで、現在33歳。
母親は陶芸家の田端志音(たばた しおん)。

田端志音は、古美術店『谷松屋戸田商店』(大阪)勤務をへて、古美術店で数々の名品を実見し、茶陶の世界に魅せられ作陶の道へ。乾山を徹底的に写すことで、赤絵・銹絵(さびえ)・染付とさまざまな手法に習熟。1991年神戸市に開窯。
吉兆(きっちょう)とは大阪市に本拠がある日本料理の高級料亭であるが、その 『吉兆』の創業者・故湯木貞一氏に才能を見出され、尾形乾山の写しに打込む。 陶芸家・杉本貞光氏に師事し研鑚を重ねた後、04年軽井沢に制作拠点を移設。

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束芋の母親・田端志音の陶芸です。

《想像界》の眼で《超1流》ですが、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《超1流》から《7流》の重層表現ですが、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《超1流》ですが、デザイン的エンターテイメント。
固体陶器。

前近代の古いタイプのものですが、
クオリティは、《超1流》で、たいへんなものです。

乾山を徹底的に写すことで、赤絵・銹絵(さびえ)・染付とさまざまな手法に習熟」と、
経歴にあったように、コピーをすることによって伝統を学んでいる、
伝統主義者なのです。

日本の陶器は《1流》が多くて、
その中では、奇跡のように傑出しています。
しかし残念ながら真性の芸術ではなくて、
デザイン的エンターテイメントなのであります。

真性の芸術というのは、作家自身の私的な感覚や、私的な個人史の遡行性を軸に組み立てられている面を保持していなければならないのですが、束芋の母親である田端志音には、そういう個人の私的な質は放棄されていて、歴史的な名品をコピーする事に心血が注ぎ込まれているタイプの陶芸家だからです。そういう意味で職人的な陶芸家であって、近代の芸術家的な人ではないのです。

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田端志音の顔です。

《想像界》の眼で、《超1流》美人。
《象徴界》の眼で、《超1流》美人。
《現実界》の眼で、《超1流》美人。
固体美人。

こういう古い固体美人のお母さんの生んで育てた子供ですから、
束芋も、固体人間で、前近代タイプ。
束芋は、6歳のとき、毛筆で仏画を描き、母はそれを家に飾り、
訪れたひとは6歳児の作とは思えないそのできばえに、
驚嘆したということです。

男が、女性に恋をしたら、その母親を見ろと言いますが、
娘と母親は似ている事が多いという経験値です。
まちろん母親と中の悪い娘もいますが、
しかし女性は一緒に住むと生理まで同調する様に、
母親と娘は、生物の同調性のメカニズムで、同調しているものを
沢山持っているのです。

田端志音と、その娘の束芋は、
同調性のメカニズムで、基本の構造は、同じであって、
模倣を基盤とする伝統主義者で、
固体美術、つまり前近代美術の作家なのであります。

そしてその表現は、《超1流》性をもった傑出した者でありながら、
しかしデザイン的エンターテイメントであって、
真性の芸術ではないと言える様に、私には見えます。


(つづく)







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菅木志雄の作品(改稿2,写真追加、加筆2) [日本アーティスト序論]

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こうした菅木志雄の代表作品も、今から見ると、
ものを使った単なるデザインワークであって、芸術では無いのです。


《想像界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント。

ただ、けなしていても、まずいので、
作品集を探して、初期作品をチェックしましたが、
すべて合法的、実体的で、《退化性》もありませんで、
単なる、デザイン的エンターテイメントでありました。

この作品は、角材を窓に立てかけているだけなのですが、
何故に、これで芸術になるのか?

この手の作品の先駆を遡れば、いろいろあるとは思いますが、
菅木志雄に近い所では、高松次郎です。
高松次郎の作品に、普通のパイプ製の椅子の4本の足の内の一本に、
レンガを噛ませる、作品があります。
これを作っている時期に、私は高松氏のアトリエに良く行っていたのですが、
「作品が、いくらでも出来る」と言っていました。

《8流》に落とすと、作品はいくらでも出来るのです。

普通のポップスの歌、たとえば浜崎あゆみの歌が《3流》ですよ。
それに比べても《8流》というのが、いかに低いか分かります。
《8流》まで落とせば、作品はいくらでも、作れます。

菅木志雄の作品は、そういう《8流》の魔法世界の領域を切り開く事で、
成立しているのです。

しかし《8流》でも、芸術にして欲しかった。
全くのデザインワークというのは、寂しい限りです。



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《想像界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。

《8流》と《6流》は、反転関係で、ループを作っているので、
最近の作品は、《6流》になって、進歩したとは言えます。

しかし、これをもの派の代表作家の作品と言えますかね?

《6流》になったとはいえ、
菅木志雄の作品は、デザイン的エンターテイメントであって、
芸術では、ありません。
《非合法性》《非-実体性》そして《退化性》がありません。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

菅木志雄は、日本のカンディンスキーです。

カンディンスキーと言うと、抽象画を最初に描いた代表的なアーティストとして信じられていますが、実際には、作品の年号を偽造した、経歴詐称のアーティストなのです。

同じ事は、菅木志雄に言えて、彼の作品集の初期作品に関する図版は、事実に反するのです。当時の作品を見ていた人々の証言では、もっとポップな作品が発表されていたというのです。少なくとも分かっている事は、1967年にシェル美術賞展1等賞(第1席)を受賞しているのですが、これはキャンバス絵画で、しかも某作家の作品の盗作の疑惑がささやかれた作品です。その某作家からは、菅木志雄が謝罪したという話を聞いています。その事実はさておき、少なくともこのシェル賞の作品は、当時の美術雑誌にも載っているものであって、動かしがたい事実であります。それと、作品集に展開されている、もの派的な作品の、展開の関係が、明らかにされる必要があるのです。

カンディンスキーの作品は、実は優れた作品ではなくて、《6流》の装飾に過ぎなかった、という問題があります。数年前のカンディンスキー展も、見た友人が「よくない」と言っていましたが、」同様の疑いは、菅木志雄にも言えるのです。

横浜美術館や、その前の東高現代美術館 といったところでの発表は、造形屋に発注してつくった作品で、そうした時の作品のクオリティが、極度に落ちています。菅木志雄自身の手で作った作品の良さというのは、実は手芸的なものであって、この手芸性と外注作品の突き合わせから見えてくるものは、たわいもない、レベルの低い造形的な遊戯性ではないのか?
 
菅木志雄は、今井俊満であると言う問題があります。
今井俊満という作家の作品展開は、アンフォルメル
からはじまって、花鳥風月になりますが、この場合、最初のアンフォルメルが、今井が、半年か1年遅れて、アンフォルメルの運動を模倣したのではないか? という疑惑を持たせるからです。ああいう作品展開というのは、オリジナルを作り出すタイプのアーティストではないからです。そして同じ様に、菅木志雄の作品展開も、何か、奇妙なものを感じるのは、私だけでしょうか?

つまり関根伸夫を中心とするオリジナルもの派に対して、菅木志雄は、明らかに半年以上の遅れがあって、後からもの派をコピーしていった第2次もの派であるのです。つまりもの派の模倣者であり、模倣する事で、もの派を横取りしたのではないのか?という疑惑を、私は感じるのです。つまり今日では、まるで、もの派の代表の様に言われる菅木志雄というアーティストは、オリジナルのもの派ではなくて、もの派の模倣者だったという事実を重視したいのです。

かねこアートだったと思いますが、最初に出た作品集では、作品題名が変更されているものが多くて、これも研究者の地道な参照活動が必要です。それと作品集を見た時に感じる、支離滅裂さが、何故であるのかが、論じられる必要があります。私が藤井博論を書いた時の取材の印象では、菅木志雄が、もの派系の非有名な作家のものを参照して、コピーしていると言う感じでした。これは単なる印象なのですが、そうしたもの派の作家相互の模倣関係も、論じられる必要があります。


菅木志雄0.jpg

菅木志雄の顔です。

《想像界》の眼で、《6流》。
《象徴界》の眼で、《8流》。
《現実界》の眼で、《8流》。

《想像界》の人格。
固体人間。

固体という前近代性の人物です。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

この1960年代末の作家たちが、《現実界》に美術を還元して行くのですが、
その代表はリチャード・セラです。
溶けた鉛を、柄杓で投げる1969年の作品は、その象徴的なものです。

セラ2.jpg
セラ1.jpg
セラ3.jpg

このセラの作品展開と比較する時、菅木志雄の作品が、
《現実界》への還元であったとするのには、
少し無理があるのです。

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セラの作品展開は凄いので、
比較するのはかわいそうではありますが、
しかし、菅木志雄の作品は《現実界》への還元ではないのではないのです。

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セラ.jpg
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《想像界》の眼で、《超1流》、真性の芸術。
《象徴界》の眼で、《超1流》から《7流》の重層表現、真性の芸術。
《現実界》の眼で、《超1流》、真性の芸術。

気体美術。
シニフィアンの美術。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

日本の、もの派全体に言える事ですが、
《現実界》に還元していない作家が、多くいるのです。
たとえば油土を使った関根伸夫ですが、
油土の中に、上げ底の箱が入っていた事実は、
作品が、実は見てくれを装った《想像界》の作品である事を示しています。

菅木志雄の初期作品は、《想像界》の作品であって、
ものを使った、デザインワークであるのです。
《現実界》の作品ではないのです。

しかし、多くの人は、菅木志雄の作品を、《現実界》の作品と錯覚しているのです。
何故に、錯覚が起きるのか?
【ユング的集合無意識】で見ると、
《現実界》の作品に見えるからです。

菅木志雄32.jpg
菅木志雄30.jpg
菅木志雄31.jpg

《想像界》の眼で、《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で、《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で、《6流》、デザイン的エンターテイメント。

固体美術(前近代美術)
シニフィアンの美術。

一応、作品集をチェックしましたが、
どこにも芸術作品はありませんでした。
普通は初期には良い作品があるものなのです。

菅木志雄の隠されている、ポップな初期作品を見て、
チェックしてみたいものです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ルーズな、作り方というもの、
バラックの様な作り方に、
日本人は、喜びを感じるのかもしれません。

芸術といっても、こんなもので良いのだというのは、
開放感があるのでしょう。

日本人は、異様にまで、芸術に対して、
構えると言うか、
緊張感を持ちます。

芸術というのと、
エンターテイメントというのは、
背中合わせですから、
そういう意味では、
ネガティブなエンターテイメントとも言うべきものであって、
緊張を強いられるものではないのです。

菅木志雄の脱力系の作品というのは、
これが、もしも本当の芸術であれば、
極めて日本的なものとして、
千利休に匹敵するアーティストになり得たでしょう。
しかし残念ながら、そういう高度な精神性はなくて、
単なるものを使ったデザインワークであったのです。











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奈良美智の作品 [日本アーティスト序論]

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《想像界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
気体美術、つまり現代アートです。
シニフィエの美術(=脳内リアリティの作品)で、新しかったと言えます。

奈良美智の作品の中に、全く芸術性がゼロであるかと言うと、
それは、そうも言えないのであって、《想像界》の眼で見た時の《非-合法性》があるので、
この要素で、芸術であるとする、見方の立場はあり得ると、思います。

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《想像界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
気体美術(=現代アート)。
シニフィエの美術。

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《想像界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
気体美術。
シニフィエの美術。

こういう奈良美智/GRAFの人形は、
《想像界》でも、まったく合法的であって、
完全にデザインワークであって、これは芸術ではありません。

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奈良美智の顔です。


《想像界》の眼で《6流》。
《象徴界》の眼で《6流》。
《現実界》の眼で《6流》。
気体人間です。
《想像界》の人格の人です。

昔の横浜美術館の奈良美智展は見に行っていますが、
私自身は、奈良さんに対する評価はありません.
言い換えれば【フロイト・ラカン的位相からの芸術分析】という視点で見ると、
奈良美智さんの作品は、まったく芸術ではなくて、
凡庸なものにすぎないのです。

例えばレオナルドダヴィンチのモナリザと比較して、
奈良美智は、あまりにも落ちるのです。

レオナルドダヴィンチのモナリザと、
たとえばポロックの最良の絵画を比較した時には、
ポロックが落ちるとは言えないのです。
ゆうにレオナルドダヴィンチとポロックは、
芸術分析的には拮抗しうるのです。

奈良美智は、ポロックと比較しても、
芸術分析的には、格段に落ちるのです。

奈良美智を、宗達と比較すると、落ちます。
奈良美智を、光琳と比較しても、落ちます。
奈良美智を、酒井 抱一と比較すると、同じく《6流》ですので、
比較にはなりますが、抱一の方が上です。

鈴木其一比較すると、ほぼ同じです。
彦坂尚嘉の私観では、そのレベルの作家として
奈良美智は存在するのです。

奈良美智を初期に買い集めて、大もうけして、
奈良御殿といわれる建築まで建てたディーラーとも、
たまたま知り合って
一緒に飲んでいます。
そのディーラーは、面白い人物と思いました。

美術市場というもののメカニズムのカオス性は、
芸術論とは連動していません。
むしろ素人の評価に近い面がありますが、
しかし市場は、気象に良く似た複雑なメカニズムで動いているので、
単純化はできません。

奈良さんの存在を無視できるとは思いませんが、
芸術的に問題にするとすれば、
それは文化の持つ、もう一つの面と言えます。

それは、《時代の表現》と言う面です。
奈良さんが描き出した、
ナイフを持った、悪意を込めた眼で見つめる少年というのは、
この時代の【ユング的集合無意識】を表象するすぐれたイコンでありました。

つまり【ユング的集合無意識】で見ると、
奈良美智の作品は、《1流》に見えるのです。

それとシニフィエ、これを彦坂流に言えば脳内リアリティ的に
表出したことで、
奈良美智の作品は、傑出していたのです。

【ユング的集合無意識】では、・・・・・・・・・《1流》。
【フロイト・ラカン的位相からの芸術分析】では、《6流》。

こういう2重性で、奈良美智を捉えたいと思います。






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タグ:奈良美智 GRAF
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