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森村泰昌とシンディ・シャーマン/メイプルソープ(改題2改稿4加筆11写真増加3) [日本アーティスト序論]

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森村泰昌については、以前から書いていて、
拙著の中にも収録されているので、
繰り返しになる部分は書かないでおきます。

【加筆の《非合法性》論は青字にしてあります】

■エンターテイメントの問題

先日の『アトミック・サンシャインの中へ
日本国平和憲法第九条下における戦後美術
代官山ヒルサイドフォーラム)で、
森村泰昌の 三島由紀夫の作品を見ています。
ただしそれはビデオ作品でした。 

上に掲載したのは、写真作品。

《想像界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。

液体美術(=近代美術であって、現代アートではありません)。

シニフィエの美術(脳内リアリティの作品)。

割腹自殺した三島由紀夫を取り上げたということが、
あたかも《非合法性》を持っている様に受け取られているのですが、
作品そのものは、合法的な作品であって、
芸術性としての《非合法性》は、ありません。

芸術的な《非合法性》について、
誤解があるというか、通俗的な理解が流布されているのです。
つまり常識的に見ると、危ない題材をものにしていて、
《非合法性》があるという理解になるのです。
確かに【ユング的集合無意識】で見ると、
《非合法性》があります。
なにしろ【ユング的集合無意識】というのを、
普通の日常語で言えば、「常識」ということだからです。
この「常識」における《非合法性》が、
おそらく森村泰昌を社会的に成立させている重要なものなのでしょう。
しかしではこの《非合法性》は、本物なのか、
まやかしなのか、検証されているのでしょうか?

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ビデオは、

《非-実体性》《非-合法性》、そして《退化性》が、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界で皆無で、
芸術というものではありませんでした。


《8流》のマイナー性を持った、
エンターテイメントであって、

“インテレクチュアル・コロッケ”というものです。

森村泰昌コロッケ.jpg

森村泰昌の顔です。        コロッケの顔です。

《想像界》の眼で《6流》。    《想像界》の眼で《1流》
《象徴界》の眼で《6流》。    《象徴界》の眼で《1流》
《現実界》の眼で《6流》。    《現実界》の眼で《1流》

《想像界》の人格。        《象徴界》の人格。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

自分で並べて驚いているのですが、
森村泰昌は《6流》で、《想像界》の人。
コロッケは、何と《1流》の《象徴界》の人でした。
コロッケの方が、格が高いのです。

森村泰昌の作品は、
基本的にエンターテイメントであって、
お笑い芸です。
基本的にファンタジーで、
本質性を欠いた、《気晴らしアート》です。
もちろん《ローアート》です。

だからこそ、受けているようです。

日本人は、芸術ではなくて、
エンターテイメントを求めているのです。

芸術とエンターテイメントは、
確かに銅貨の裏表ですから、
裏だけが好きというのも、
仕方がないかもしれません。

困った事ですが、
まあ、現在の日本の民度はそういうものなのです。

森村泰昌自身が、芸術である事には、
興味が無いのかと思っていましたが、ところが、
芸術の看板は必要であるようです。
エンターテイメントであればあるだけ、
それを芸術であると強弁しておく必要があるのでしょう。

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このデビュー作を格付けしてみます。

《想像界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。

《想像界》の美術。
液体美術(近代美術)。

《想像界》《象徴界》《現実界》、どこにも真性の芸術性がでてきません。
完全なデザイン的エンターテイメントでしかない作品であります。

【ユング的集合無意識】で見ても、
この作品は合法的なものであって、
《非合法性》はありません。

私がこの作品を最初に見たのは、
栃木県立美術館で1987年に開催された「現代美術になった写真」展でした。
その時も良い作品とは思いませんでした。

異論は、めちゃくちゃに多いとは思いますが、
私は、森村泰昌の作品に、芸術をどこにも見いだせません。

それに対して、森村泰昌が模倣したお手本の
初期シンディシャーマンは、
すばらしく、芸術です。
下記画像を見て、比較してみてください。

森村シンディシャーマン.jpg
《6流》          《超1流》
デザイン的エンターテイメント    真性の芸術
原始画面作品         透視画面作品
《気晴らしアート》      《シリアス・アート》
シニフィエの美術       シニフィアンの美術
偶像崇拝の美術        偶像崇拝禁止の美術

偶像崇拝の問題。

もっとも、シンディシャーマンにも異論があって、
「面白くない」、「分からない」という意見が多くあるかもしれません。
だからシンディシャーマンは芸術であって、お笑いではないのです。
森村泰昌の作品は、お笑いです。

しかし、そこに、最も重要な問題があります。
偶像崇拝の問題です。

抽象美術、特にミニマル・ペインティング以降の状況の中で、
再び具象画像を復活させた時に、
それをどのように取り扱い、
向き合うかというのは、難しい問題をはらんでいたのです。

1975年前後に出てくるシンディ・シャーマンや、
ロバート・メイプルソープの写真表現には
こうした具象の扱いに、高度な視点が見られるのです。

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つまり人間像というものを復活させて、
全面に出しながら、同時にそれに対して、
偶像崇拝禁止の抑制をかけていくという、
そういう表現がされているのです。

だから、メイプルソープシンディシャーマンの作品は、
面白いと同時に、謎めいていて、
分からなさを本質的に持っているのです。

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ここには、偶像画像としての人物像があるのですが、
それが崇拝対象としての偶像化がされないように、
同時に無化がされているのです。

どの様にして無化するのか?
という技術の問題は、あります。

シンディシャーマンの場合には、
シチュエーションを豊かに描き出す事で、
画像そのものも、人物像も、
明示されない不在のストーリーに相対化されているのです。

これに対して、
森村泰昌の画像は、逆で、
人物像は、呪術的アニミズム的に礼拝対象化されて、
強調され、絶対化されているのです。

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偶像崇拝化された画像です。

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これも偶像崇拝化されています。

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偶像崇拝化されています。

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偶像崇拝化されています。

《想像界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。

これは芸術ではないのです。

森村泰昌の場合に、周辺部の小道具や衣装、背景も、
すべてが、
この偶像崇拝性を強化する為に動員されているのです。

それに対して、
シンディシャーマンの作品は、
周辺部の小道具や衣装、背景も
偶像崇拝化を巧妙に抑圧して、
偶像崇拝を禁止するように機能させているのです。

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今回見つけた最初期の作品。
1975年の作品です。
森村泰昌のゴッホ(1985)よりも10年古い作品です。

重要なのは、左上に広がる明るい大きな空間。
そして、それと対照的な右下側にかたまる黒い手袋と衣服。

さらに女の表情です。そこには複雑なわけの分からないストーリが潜在化されていて、
森村泰昌のような単純な偶像崇拝化が起きない様な、相対化が仕掛けられているのです。

《想像界》の眼で《超1流》、真性の芸術。
《象徴界》の眼で《超1流》〜《7流》の重層表現。
               真性の芸術。
《現実界》の眼で《超1流》、真性の芸術。

《想像界》《象徴界》《現実界》3界同時表示。
固体/液体/気体、3様態同時表示。

こういう高度なダブルバインド的表現が、真性の芸術なのです。

ここには、偶像を取り入れながら、巧妙に相対化し、抑圧する事で、
偶像崇拝を禁止することに成功している、
高度な芸術があるのです。

ついでに、ロバート・メイプルソープの技法も見ておきましょう。

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【下をクリックしてください】


この有名な作品の場合、
誰でも眼が行ってしまう画面中央の垂れ下がったペニスを、
《非-実体化》し、偶像化することを打ち消す為に、
周辺部の衣装や手、背景が総動員されているのです。

一番分かりやすいのが、
まず、両手が、中央のペニスと並列化している事です。
この並列化は
手だけではなくて
上着の垂れ下がりとも並列化しているし、
下部の2本の腿とも並列化しているのです。

この手の陰影と、ペニスの陰影関係の呼応が、絶妙です。
さらに右手血管の描写とペニスの血管の呼応は、
なんとも美しいものです。

画面を陰影の関係に注意して見てください。

この陰影は、その上の上着襟の陰影や、
さらに脇の影と呼応しています。

ペニス上部の光のテカリと、両手の皮膚性、
さらにスーツの表面性を強調するテカリのあるライティングは、
ペニスと手の皮膚と、スーツの布の皮膜性を呼応させた描写で、
この作品の美しさの白眉と言えます。

このように呼応する事で、
単独の実在性がもつ偶像崇拝性を打ち消しているのです。

こう見てくると気がつくことは、
眼を細めてみると、一番眼に強く見えるのは、
画面上部の上着のところに、上から当たっている光である事が、
分かります。

上からのライティングによって、
実は切られている顔や頭部の存在が、
不在である事によって逆に強い存在性を指し示しています。
この上部からの光によって、
ペニスに眼をやる人間の意識を、
頭部の不在性が、強く打ち消す作用をしているのです。

一見すると単純に見えるこの作品は、
こうして、ライティングの絶妙な操作によって、
ペニスを偶像崇拝化する意識を打ち消して、
そういう人間の欲望の視線を禁止しようとしているのです。

ペニスの視覚を無化し、《非-実体性》を獲得するために、
モノクロ写真という陰影の魔術を
総動員しているのであります。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

繰り返しますと、
芸術とエンターテイメントは、銅貨の裏表ではありますが、
森村泰昌の作品は、芸術という名前を名乗ってはいますが、
エンターテイメントなのであり、
それは素朴までに原始的な偶像崇拝性に帰着しているのです。

芸術というのは、
エンターテイメントの上に立って、
これを抑制しないと芸術になりません。
芸術とは、だからダブルバインド的抑制なのです。

ダブルバインドというのは、
1956年グレゴリー・ベイトソンによって発表された心理学概念。

生物の間で交わされるメッセージには複数のレベルが存在する

例えば犬がたわむれにかみ合うとき、これは「かむこと」を意味しているというメッセージと、これは本気で「かむこと」ではないという、2重のメッセージが同時表示されている。

親が子供に「おいで」と言っておきながら、いざ子供が近寄ってくると、逆にどんと突き飛ばしてしまう。呼ばれてそれを無視すると怒られ、近寄っていっても拒絶される。子は次第にその矛盾から逃げられなくなり疑心暗鬼となり、家庭外に出てもそのような世界であると認識し、別の他人に対しても同じように接してしまうようになる。


こういう複雑な関係がダブルバインドですが、

偶像崇拝と、その禁止の関係が、

こうしたダブルバインド状態で、

複雑に欲望が制御されている状態が、芸術なのです。


シンディシャーマンの作品や、
メイプルソープの作品は、
こうしたダブルバインド的抑制が利いていて、すばらしい芸術です。

そして、シンディシャーマンの作品が分かりづらいのは、
森村泰昌のように、原始的に直接的に、
偶像崇拝の美術になっていないからです。
そもそも人生というのは分からないものだからで。
そして芸術というものも、
人生同様、良く分からないものなのです。
そこには、欲望と、欲望の禁止、
解放への志向と、解放の抑圧という、
文明のダブルバインドが、横たわっているのです。


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■森村泰昌とコロッケの顔

森村泰昌の三島由起夫作品でも、
最後が「万歳、万歳」と繰り返すのですが、
これもウソで、
三島由紀夫が叫んだのは「天皇陛下万歳!、天皇陛下万歳!」です。

森村泰昌が採用した「万歳、万歳」という言葉は、
耳当たりが良く、
万人向きなのです。

もしも森村泰昌の作品が、
常識において、《非合法性》を本当に持っているのならば、
このビデオ作品で「天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳!」と、
叫ぶべきであったのです。
でなければ、三島由紀夫と森田必勝は、
なぜに自決をしたのですか!

他人のこの2つの死を、森村泰昌は、
何と考えているのですか!
「天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳!」という三島由紀夫の
最後の言葉を、「万歳、万歳」と空無化して、
それでコロッケ的物真似芸をしたつもりになり、
それが芸術だという主張なのです。

何とも能天気な”芸術家”であります!

森村泰昌のパフォーマンスは、
そういう意味で、愚衆だましのファンタジーに過ぎないのです。 

この三島由紀夫作品は《6流》であって、
シンディシャーマンの《超1流》作品とは、差がありすぎるのです。

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森村泰昌の作品は、
もともとエンターテイメントであって、
お笑い芸人の変種なのです。

実際に、吉本興行から、
誘いの話があったと聞いています。
吉本興行的な芸人作家なのです。

しかし、お笑い芸人という意味では、
森村さんは《想像界》の人で、
レベルが、あまり高くありません。
お笑いというものの本質は、もっと深いのです。

私は、1960年代の後半に、
新宿で、三島由紀夫の映画『憂国』を見ています。

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28分で5章だて。台詞はいっさいない、ワーグナーが流れる中、まるで能舞台のような部屋に妻は座っている。着物の包みに「形見」と墨で書いている。すると三島扮する夫が現れる。夫は帽子を深くかぶり自決の決意を伝える。夫は2・26事件に加担した同士を殺すように言われたが、それはできない、、、と覚悟の自決である。二人は最後に『愛の交歓』をかわす。表面的にはその後の「切腹」シーンがスゴいインパクトですが、この『愛の交歓』シーンの妻の髪の逆立ちかたといったら、恐ろしい。人間の本能というか、追い詰められたときの表情や感覚、感情が全て現れているように思う。鬼気迫る28分。そして能舞台や最後のシーンの枯山水も素晴らしい。日本の美の真髄が濃縮されているようだ。

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森村泰昌は、『憂国』をやる事は、出来なかったのです。

「天皇陛下万歳!、天皇陛下万歳!」も言えないし、
『憂国』も演じられないというのは、
森村泰昌は、三島を演じながら、それは表面をなぜているだけです。
タブーには踏み込まないという事です。
火中の栗は拾わないし、
地雷は踏まない。

ということは安全な作品であって、
巷で信じられている様には、
《非合法性》のある作品ではないのです。
むしろ森村泰昌自身が、
自主規制して安全な範囲で作品を完成させているのです。

インターネット上には、
三島由紀夫の生首の画像もありますが、
これを演ずることもしていないのです。

そういう可能性を回避して、
むしろ美術業界の中で安全な作家性を
演じて見せたというダブルバインド的な、
表現であったということなのです。

つまり森村泰昌は危ない題材も扱えますが、
しかし安全な範囲で止めて、
美術界の皆様の
顰蹙は買わない様に気おつける、
安全な作家・森村泰昌を、
どうぞよろしく、という2重のメッセージなのです。

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森村泰昌とコロッケを比較するとすると、

大きいのは、《1流》と《6流》の差です。

《6流》と《1流》の差というのは、
縄文式土器ですと、
中期火炎式土器と、後期縄文式土器の差なのです。


中期後期縄文.jpg


岡本太郎の影響もあって、
中期縄文式土器の火炎式の形態が、
何か素晴らしい様に信じられています。

この火炎式土器は、
中期の一番発達した姿ですが、《6流》なのです。
つまり自然領域の最後の形態です。

私が第1回から3回参加してしている越後妻有トリエンナーレは十日町市で開催されていますが、ここには国宝級の縄文火炎式土器の名品がたくさんあるので、十日町市博物館には、お客さんをあんないすることもあって、繰り返し行っています。

しかし繰り返し見るとこの縄文中期の火炎式土器というのは、飽きて、つまらないものに見える様になります。それは《21流》のエロ写真に似ています。初めて見て刺激がある時には興味深いのですが、刺激というのは反復していると劣化してしまいます。そうするとエロ写真は退屈な、愚劣なものに見える様になるのです。

《6流》という自然領域のものは、おおむねこうした《21流》のエロ写真的なところがあって、刺激があって面白いのですが、反復していると劣化して、飽きてくるのです。それは森村泰昌の作品の《6流》性もの問題であります。《6流》も《21流》も、抑制性に欠けているのです。

この後、後期縄文式土器になると、
抑制されて《1流》になります。
これが農業革命をして、定住し、文明になってから作られた土器なのです。

天然世界は、《6流》。
文明世界は、《1流》なのです。

この縄文式土器の歴史を参照しつつ、
森村泰昌と、コロッケの顔を比べると、
森村泰昌さんには、天然のままで、
抑圧性を欠いたゆるみが、
見えます。
文明の中の野蛮人なのですね。
文明の中で、パンツを脱いだ猿をやっている。
フリチンなのです。
そのフラフラした面白さがあります。

それに対してコロッケの顔には抑制性があって、
《1流》の文明人をやっているのです。
つまりパンツを履いた猿を演じている。

この、パンツを脱ぐのか、履くのかの差が、顔に出ているのです。

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顔の、しまり、ゆるみを、もう一度見てください。
森村泰昌の顔は、天然ですね。気持ち良さそう!
火炎式土器をやっているのです。

コロッケが、抑圧性を持った文明人の顔、つまり苦労人の顔です。

物真似芸術家が《6流》で、
物真似芸人が《1流》の人物であると言うのも、
奇妙な倒錯の時代の現象と言えます。


■シンディ・シャーマンと森村泰昌の顔

清水誠一さんと、森村泰昌の話をしていて、
誰に似ているかで、私が言ったのが、
金田正一。

顔の、面長の輪郭が似ていると、思ったのです。

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金田正一の顔

《想像界》の眼で《超1流》
《象徴界》の眼で《41流》から《超1流》の重層的人格。
《現実界》の眼で《41流》。

森村泰昌の《6流》の顔と、
金田正一の《41流》の顔の差というのは、
大きなものがあります。

さていよいよ、
シンディシャーマンの顔です。

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《想像界》の眼で《超1流》美人。
《象徴界》の眼で《超1流》〜《41流》の重層的人格美人。
《現実界》の眼で《41流》美人。

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界同時表示の人格。
固体/液体/気体の3様態を持つ人格。

さて、森村泰昌とシンディシャーマンである。

森村泰昌シンディシャーマン.jpg

森村泰昌の《6流》性が持つ天然主義の開放性と、
シンディシャーマンの《超1流》/《41流》の芸術の差が、
見えるだろうか?

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森村泰昌が帽子を冠っているのは、
禿げてきたからですかね?
すみません、《想像界》してしまいました(笑)

森村泰昌さの作品は、《想像界》のファンタジーで、万華鏡の様なものです。ファンタジーは歳をとらない。そこには意味(《象徴界》)もなければ、《現実界》もないのです。ところが、森村泰昌の肉体には《現実界》があって、老いて行く。
だから禿げていくかもしれませんね。

そのうちには、きれいな女性を演じるのは無理になるでしょうから、吉田茂や、大野 一雄のような老人や、死人を演じるのでしょうね。昭和天皇や明治天皇を演じるのも良いですね。さらには死後の腐敗を演じる。もっとも、それはすでにシンディシャーマンがやってしまっていますが・・・。その後の人形の作品も、私は好きですが・・・。

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シンディシャーマンの後半は次第に凄まじくなって行きました。

森村泰昌も、最後は幽霊ですね。地獄を演じますか。

最後の最後は、ご自身の葬式です。
葬式では、誰の死を演じるのでしょうか?  

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コメント 8

もしもし

シャーマンは知的であり、
森村さんは痴的であるということですね。
シャーマン作品からはおそらく人の闇をのぞけますが、
森村さんは人の表層しか表現してはいない、ということですよね。
よく分かります。
by もしもし (2008-08-25 00:53) 

ヒコ

もしもしさん、ご理解ありがとうございます。
日本の現代アートは、森村泰昌的な偶像崇拝美術にのめり込んで行ってしまったのです。そこでの責任の多くは、美術評論家の沈黙にあります。作品を批判し、分析して行く努力が、美術をおもしろくし、美術雑誌の売り上げを上げて行くはずのものなのですが、それが逆転してしまって、森村泰昌的な痴的なものだけになってしまったのです。もう一つ別の美術が平行して展開されるだけで、もっと豊かな創造性が生まれると思うのですが、そうはならなかったのです。
by ヒコ (2008-08-25 09:55) 

満腹

私が思うに、森本氏はセルフポートレートを主流としているだけで、美術とはいってないような気がしたけどなぁ、たんに芸術ということで、パホーマンスの延長上の自己芸術といってるような気がしたけど、そうなると美術との舞台が全く異なる気がするけど、勘違いかな。
by 満腹 (2008-08-25 15:26) 

丈

セルフポートレイトにしてもパフォーマンスにしても立派な美術用語ですよ。「美術との舞台が全く異なる」というのは「全くの勘違い」です。彼の仕事は現代美術のフィールドだから成り立つものです。
by (2008-08-26 21:56) 

yopi

現実界に戻れるか否かの大怪我をした為全く現実界の様子を知る事のできない現実をしばらく生きておりましたが、なんとか戻れ、遅まきながら、佐谷さんが逝去された事を先日新聞で知りました。一つの時代の終焉というか状況の進捗というものを感じ、佐谷氏について私が触れる事ができる何かがあればとサイトの検索をすると、御サイトに出会いました。彦坂さんがこのようなサイトをされている事自体とても驚きましたが、これが時代というより、時 or 人類の進む?或いは終わっていく過程なのかと茫洋とした感じにとらわれました。という私自身、「コメント書く」などというこのような行為を実施する者では全く無かったので、やはり纏まらない感は更にあるものの、この森村氏とシャーマン氏の評論、とてもわかりやすく大変良かったです。なかなか同一見解を他者と持つ事が少ないように自分自身思っておりましたが、(でもこの社会の中で生きられているので得意分野なのでしょうが・・・)その通りだと。森村氏が受け入れられる理由もよく説明されていると思います。森村氏が美術なら、シャーマン氏も含め他の芸術家の作品は何という「術」なのでしょうか?まぁ、言葉の意味を問いだしたらきりというかとっちらかると思いますが、やはり作品に哲学は必要であり、作品から哲学は出てくるというか、感じられるものです。「思います」とすら言えません。絶対的な事実なので。本当にこちらの評論素晴らしかったです。
by yopi (2008-08-31 07:12) 

ヒコ

yopiさん、コメントありがとうございます。たいへん、うれしく思います。お怪我はたいへんでしたね。私も少し前ですが指を切って、ケンを縫いましたが、たいしたけがではないのに、後遺症も含めて、当事者にはたいへんです。yopiさんも大けがという事であれば、苦しい思いをされて、今も苦しみがあると思います。どうぞ、くれぐれもお大事になさってください。
by ヒコ (2008-08-31 16:35) 

nodako

はじめまして。数ヶ月前にこのブログを見つけ、以来、興味深く拝見しております。このような前の記事にコメントして恐縮なのですが、森村氏の作品に関しては、私も腑に落ちない点があり、この記事を読みもやもやが晴れた気がします。

イタリアにルイージ・オンターニ(Luigi Ontani)という芸術家がおり、似たような作品を制作しています。少し前に彼と夕食を共にする機会があり、作品のインパクトが念頭にあったこともありますが、それ以上に作品の外での彼の存在感とまがまがしい雰囲気の前に、向かいの席で食事も喉を通りませんでした。
彼の制作には仮面への関心と「凡庸さ」の追求ということが根底にあるという話でした。実際に森村氏の作品のことを思い切って彼に話してみると、あからさまに不快感を示されてしまい、いたたまれなかったです。

私はオンターニ作品は森村作品とは似て非なるものと感じるのですが、彦坂様はルイージ・オンターニの作品をどのように分析なされるのでしょうか?

by nodako (2009-03-21 04:12) 

名無し

この人の執拗な物まね?は、病的な何か、発達障害のアスペルガー症候群(自閉症)とかじゃないですか?

by 名無し (2010-01-20 04:53) 

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