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《自己愛》と《自己憎悪》[改題加筆1] [心理学]

《自己愛》と《自己憎悪》

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◆◆1、《自己愛》性人格障害 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

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送検のため土浦警察署を車に乗せられ出る金川真大容疑者

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「自己愛性人格障害」という精神鑑定結果が、金川真大(まさひろ)容疑者/韓国名金 真大(24)に出ました。茨城県土浦市のJR荒川沖駅周辺で、8人を殺傷した無差別事件の犯人です。

 

「自己愛性人格障害」の人が、無差別殺人テロをするというのも、ずいぶんと刺激的な話です。この殺人者の顔を、彦坂流に人相見をしてみます。

 

 金川真大容疑者の顔
 
《想像界》の眼で《16流》
《象徴界》の眼で《16流》
《現実界》の眼で《1流》
 
《現実界》の人格。
  気体人間

 

金川真大容疑者の顔には、《16流》が存在しています。《16流》というのは崩壊領域です。前に山部泰司さんのところで、彼の作品が《16流》を内包していることを書きましたが、崩壊領域を内包している人というのは珍しいです。バンドで言うと、ポップグ・ループ、そしてモーターヘッドです。ポップグ・ループはすぐに解散です。モーター・ヘッドは長期の活動を展開している例外的なバンドですから、崩壊領域を抱えて生きて行く事はできるかもしれませんが、《16流》という崩壊領域を《想像界》《象徴界》に持つ金川真大容疑者は、殺人に至らざるを得ない精神的荒廃領域を2つも抱えていたと言えるでしょう。それと《現実界》の人格だけと言うのも、この社会を生きて行くのは難しいことです。他者との倫理的な関係や、冠婚葬祭などの儀式的意味などが理解できなかったはずです。

 

しかし、《現実界》では《1流》の人で、この《1流》性と言う社会的理性性の面で、踏ん張って生きる事は、出来たかもしれません。せっかくの人生を、殺人犯に転落してしまうのは、もったいない話で、亡くなった被害者の方も気の毒ですが、殺人者になってしまった金川真大に対しても、残念なことと思います。

 

しかし殺人に走る動機というか、原因が、「自己愛性人格障害」であると言うのも、極めて矛盾する話です。「自己愛者」が、殺人者になるという、いわば自己愛自己破壊に結果しているのですから。フロイト的に考えると、自己愛というものが、自己破滅になるということが、実は必然なのです。自己愛というのは、フロイトの言う《死の欲望》を抱え込んでいるものなのです。自己愛タナトスは、密接に関係があります。何故なのか? それを知る事は人生の秘密を明かす事になります。答えは簡単ですが、真理があります。しかし人は、真理を知りたくはないのです。フロイトの評判の悪さは、彼が真理を語ったからです。以下は、秘密を知りたい人だけ読んでください。

 

フロイトというのは、非常に聡明な科学者であって、科学的な心理学を打ち立てた人でありました。フロイトは、心理現象というものは、人間の神経の作用であり、刺激に対する神経の反応であると考えました。

 

そして人間の神経の運動量が、心理現象として表れてくる。そしてフロイトは、この神経の運動量という、量だけの問題であると、科学者的に考えたのです。心理現象が、量だけの問題として考えるのは、単純そうに見えて、ひとつの真理なのです。

人生も現実も複雑ですが、実は「中抜き」ということが重要なのです。つまりあるのは、まず「目先」です。「目先」はスピードが重要ですから、とにかく遅くても3分以内に把握し結論を出す。それは一番簡単に早くできる事で良いのです。そしてもう一つは本質です。物事の本質を常に考えている。そしてそれを見て行く。その間にある中間項の複雑な状態については、少なくとも予想は一切しないし、コントロールできない事を受け入れる。つまり「中抜き」です。そういう視点でフロイトを読むと、本質の把握が優れています。

 

神経の運動量は、刺激、つまりストレスで増大するストレス量です。心理現象と言うのは、この増大したストレスの量を、最も少ない所まで、放出することなのです。放出した時に、一番ストレスの無い所まで放出するということは、つまり死に至るまで放出する事なのです。つまり、人間の心理現象と言うのは、いつも、《死》を目指して放出しようとしているのです。こうして《死》というのは、日々の心理現象のストレスを解消しようという行為の中に常に立ち表れるのです。

 

いわゆる「いやし」とか、「なごみ」、さらには「身の丈主義」「脱力系」と言ったものは、実はストレス量を下げる事が意味されていて、それは《死》へと向かうタナトスの欲望なのです。生きたまま《死》ぬというのが、こうした「いやし」とか「なごみ」への希求であります。

 

たとえば、明日は試験だから、勉強しなければならない。しかし、嫌でテレビを見ている。勉強しなければ、自分の不利益になるにもかかわらず、テレビを見ている。この欲望が、自己愛です。この自己愛の中には自滅の道であり、《死》への欲望があるのです。

 

たとえばタバコを吸っている。肺癌の危険性もある。友人の哲ッちゃんは、少し前だが、肺癌で死んでいる。しかし禁煙が出来ない。止める事を考えながらも、高いお金を払いながら、健康に悪いタバコを吸っている。タバコを吸いたいという欲望が自己愛です。こうして常に心理現象というのは自滅に向かうのです。私はタバコを止めましたが、病的ほどではないですが過食、過飲、そして異常なまでのおしゃべりといった依存症的傾向を持っていますが、これも《死》への欲動と言えます。こうした依存症そのものは《自己愛》症なのです。これを中和するには、《自己憎悪》が必要です。《自己憎悪》をすれば、過食も止まります。実際私は8キロダイエットに成功しました。『《自己憎悪》ダイエット』という本を書きたいですね(笑)。

 

たとえば恩師の遠野芳明先生の葬式がある。葬式に行かなければと思いながら、画廊で某絵画科教授は酒を飲んでいる。大学葬だし、行かないと教授という手前、まずいのに、行かないで酒を飲んでいる。社会的な信用を失ってもなお、酒を飲む欲望が、自己愛です。社会的儀式に参加したくないという怠惰性というのは、《死》へと向かう欲望なのです。《死》んだ様に何もしないでいるのが、理想であり、いつもそういう状態へと心は向かいます。

 

自己愛というのは、自己破滅を内包した欲望なのです。本質的に《死への衝動》を内包している欲望と言えるものです。つまり怠惰とか、億劫とか、やらねばならない事をやりたくないという、そういう欲望と言うのは、実は最終的に《死への欲望》に結びついているのです。

 

私の事を振り返っても、私の中には、何もやりたくない、という気持ちはいつも強くあります。《死》ねば楽になれるという考えも、強くあります。それはフロイト的に真理なのです。今は止めましたが、スピード狂で、高速で何度もパトカーに追いかけられていますが、スピードを出すのも《死》への誘惑と言えます。日産ブルバードのスポーツ車仕様の自動車でしたが、しかし日本車で170キロを出すのは、明らかに自殺願望というか、《死》への欲動なのです。しかしスピードを出している事は、怖いけれども面白い。それと若い時から坊主にあこがれが強くありました。出家願望と言うのも、隠遁ですから、社会ー外の《死》の世界への衝動と言えます。それはまたアーティストになる事にも言えて、アーティストになるのは僧侶になる事と同位であって、隠遁と退化と《死》ぬ事への欲動なのです。その意味で本質的に芸術というのは《死》への欲望であり、《自己愛》性人格障害者の世界なのです。

 

そこでその逆を考えてみたいのです。「自己憎悪」です。「自己愛」が死への衝動を内包し、自己破滅に導くとすると、その反対の「自己憎悪」は、実は《生への欲望》であるのです、自己破滅の反対である自己達成へと展開するのはないでしょうか。そして美術的に言えば、それがデザイン的エンターテイメントを生み出します。

 

「自己憎悪」があれば、明日が試験であれば嫌でもテレビは止めて、勉強をするのです。つまり自分が嫌な事をするのです。嫌なことをすることで、現実的な利益を選ぶのです。

 

「自己憎悪」があれば、苦しくてもタバコを止めて、禁煙に成功するのです。そして肺癌になる確率を減らすという実利を取るのです。極めて理性的決断です。理性的行動と言うのはつまり《自己憎悪》において成立するのです。逆に《自己愛》というのは、実利を失う、極めて非合理なものなのです。

 

「自己憎悪」があれば、嫌で億劫でも、恩師の葬式に出席して、社会的信用を維持するのです。そういう意味で社会の中で必要な事をきちんとこなして生きている実利的な人は、《自己憎悪》を原動力として生きていると言えます。

 

「自己憎悪」こそが《生命への衝動》であり、実は、人間にポジティブな成功をもたらす、基本なのであります。自己を憎悪し、不快の中に自分を落とし込み、ストレスを増やし、ストレスの立ち向かう。嫌な事をやって行く事こそが、良く生きる事です。つまりデザイン的エンターテイメントというのは、そうした《自己憎悪》を原動力として生み出されます。そして自分自身を憎悪し、自分を殺すことが、自分を生かす事なのです。自分のやりたい事をやらないで、自分のやりたくない事をやっていく。そうする事が生きる事なのです。そうした蓄積されたストレスという神経の運動量に耐え続ける事。さらに不快なストレスを高め、それを放出しないで、耐え続ける事。それが自己を達成へと向かわせるのです。実例を上げれば、オリンピックで金メダルをとった選手たちは、不快で過酷なストレスの高い練習にチャレンジして、その苦しみに耐えて、栄冠を獲得したのです。つまりこうして苦しいみを選ぶ事こそが、《生命への衝動》であり、その根幹には自己憎悪の気持ちが必要なのです。デザイン的エンターテイメント作品にもそれは言えて、《自己憎悪》を動機として制作されるデザイン的エンターテイメントとこそが、社会的な成功を生む美術であると言えます。そういう意味で、社会の多くの人々が芸術を嫌い、デザイン的エンターテイメントを好むのは《死》を忌避して、《生》を希求する健康な判断であるのです。ですから、この現実の社会で成功する為には、自分を憎む事をお薦めします(笑)。

 

2 ナルシズム◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 自己愛、つまりナルシズムの強い人は、現代アートの作家に多いのです。私自身も、昔は、ナルシストであると言う批判を友人から何回かもらっています。しかし、なぜに言われるのか、本人には自覚がありませんでした。自覚が無いという事は、逆に言えば、ナルシズムが強かった可能性があります。

 もっともナルシシズムは幼児の6ヶ月から6歳でしばしばみられ、子供の成長の中で、お母さんから分離して、自立化していく成長期化期において、避けられない痛みや恐怖から自己を守るための働きであって、これを一次性のナルシズムと言って、正常なものです。ジャック・ラカン的にいえば、生後6ヶ月から18ヶ月のあいだに幼児は鏡に映る自己の姿を見ることにより、自分の身体を認識し、自己を同定していくのです。それはギリシア神話のナルキッソスの物語に重なるところがあるのです。

 復讐の神ネメシスは、他人を愛せないナルキッソスを、ただ自分だけを愛するようにします。ある日ナルキッソスが水面を見ると、中に美しい少年がいた。もちろんそれはナルキッソス本人だったのです。ナルキッソスはひと目で恋に落ちます。そしてそのまま水の中の美少年から離れることができなくなり、やせ細って死んだのです。ナルキッソスが死んだあとそこには水仙の花が咲きました。この伝承から、水仙のことを欧米ではナルシスと呼ぶのです。

 自己愛性人格障害者というのは、このナルキッソスなのです。それは幼児の時に、鏡に写る自分を見て、見入られてしまった私たち人間の宿命といえます。この鏡と言うのは、単に鏡に止まらなくて、人間の精神の《想像界》の領域の中では、他者が鏡となって出現してくるのです。つまり人は他者を鏡にすることにより、他者の中に自己像を見出します。つまり、この自己像が「自我」となるのです。ですからラカンがフロイトを個人崇拝する道を選ぶのは、精神分析医としては正しいのです。建築家も子弟関係が強くありますが、これも正しいのです。石上純也さんは妹島和世さんの所から出て来ましたが、こういう師弟関係や徒弟制度の中で、先生や師匠の中に自己像を見出すことで、「自我」を確立して行くのです。現代アートの場合、こうした師弟関係や徒弟制度を失うことによって、「自我」の確立をあいまいにして《自己愛》性人格障害者の道を歩み、《死》への欲望を増大させます。私の属していた1970年代の現代美術などは、まったく自滅へ至ったと言えます。この自滅からいかにして、脱出するのか? それが《自己憎悪》のすすめを書かせている動機なのです。

 

ですから、人間というもの自身は、実は鏡面や他者を介してしか自分を見えませんから、自分自身は把握できない空虚そのものであるのです。いっぽう、幼児において鏡面を介して成立させた自分自身という自我とは、その空虚に覆い被さって、強引にその空虚な不確かさと、自分自身の無根拠性を覆い隠す、《想像界》の精神がつくりだす想像的なものであるのです。この自らの無根拠性や無能力性に目をつぶって、魔法使いを信じてファンタジーの世界を生きている想像的段階に安住することは、幼児にとって快いことではあるのです。ところが、この《想像界》の鏡面の世界が脅かされ、壊される様になる。

 つまりナルシズムというのは、思春期において、大人になる準備期になって、ファンタジーの世界が壊される、この成長過程の痛みや恐怖から自分を守るための働きなのです。そのことは重要です。しかしナルシズムが行き過ぎると、今度は自分を守ることが反転してしまって、自分自身を破壊して行く様になります。防御機構が、自己破壊機構に転倒するのです。やせ細って死んだナルキッソスの物語が、その人に取り憑いてしまいます。自分自身を合理的に実利的に守る為にも、《自己愛》は、死んだナルキッソスの物語のような自己破壊になるというメカニズムを知っておく必要があるのです。

 ですから大人になったら、逆に、自分を守る事を止めて、《自己憎悪》をもって自分自身を解体し、自分を殺して行く事だけが重要なのです。自分を殺すという作業がないと、社会的に成功しないのです。お金も地位も入ってこない。美術家として社会的に成功する為には、《自己憎悪》によって、自分自身を殺して行く事が重要なことになります。

 

 思春期にみられる二次性ナルシシズムになると、ナルシズムは自己破壊性を持って、病的になる可能性が出て来ます。思春期から成年にみられる自我の確立と深く連動したもので、自己への陶酔と執着がつよくて、他者の排除に至る思考パターンをつくります。

 自分を守る為に他者を排除するのです。今回のJR荒川沖駅周辺の無差別殺人にしろ、次の秋葉原の無差別殺人にしろ、根本にあるのは、殺人をすることによって、他者を排除して、自分を守ろうとしているのです。  

 金川容疑者と私は、まったく無関係とも思えない所があります。私自身を考えても、精神の内側に深い荒廃はあるし、殺意や、破壊衝動は、幼年期よりありました。小学校から帰る道すがら、イメージの中で、刀で気に入らない人物を袈裟切りで斬り殺すことは、繰り返していました。

実際には、しかし、人を殺してはいません。この実際には殺しを抑止している事は、金川真大との差異として極めて重要な事であります。

 私は56歳から空手をやっったのですが、立ち会いというか、殴り合いが好きです。命をかけて人と争う時の精神の緊張と、死の匂いが好きなのです。しかし、この空手を使っては、喧嘩をしてはいません。空手を実際に使うのは禁止されているのです。しかし電車に乗っていても、他人と一触即発のあぶなさには、何度もなりました。結局空手を止めたのは、こうした攻撃性の増大は、まずいと思ったからであります。攻撃は、実は他者に向かってはいけないのであって、自己にこそ向けられなければならないのです。《自己憎悪》によって、自分の中にある攻撃性は自分自身にだけ向けられ、自分を不愉快な精神的ストレスの高い状態に追いつめ、自分自身を殺す事に向かわなければならないのです。「敵は、自分自身にある」と言う東洋の古い教えは、正しいものなのでます。自分自身こそが憎むべき敵であり、自分自身を殺して行く過程こそが、真に生きるという事なのであります。

 

思春期における他人への攻撃性は、成長期において避けられない痛みや恐怖から自己を守るための働きであって、自分を守る為に、他者を攻撃し、排除しようとしていたのです。しかし攻撃が本当の攻撃になっては社会性を得る事は出来ないのです。実際には攻撃は抑止されなければなりません。抑止するだけでなくて、自己を憎悪し、自分を殺し、自分を解体して行く事が、重要なのです。《自己愛》から、《自己憎悪》への展開こそが、アーティストに求められているのです。自分は愛してはいけないのです。自分を憎悪しなければなりません。

 このブログも、そうした攻撃性だけと見る人もいるとは思いますが、必ずしも他者への攻撃を、《批評》という名においてしているのではなくて、芸術分析と芸術批評そのものへの探求への努力があるのです。そしてブログの展開の中で、私自身の価値観を破壊して、他者の評価や社会的評価を受け入れ、それを芸術分析として捉えて、芸術批評作品として完成させて行こうと努力しています。つまり自己憎悪をもって古い自己や、古い自分の芸術観や価値観をを解体して、あたらしい芸術批評作品としての成立を目指す事で、ブログを読んでくださっている読者と連携しようとしているのです。そうした新しい芸術分析と芸術批評の確立を目指す学問的努力が真摯になければ、このブログの意味は無いのであります。

 金川容疑者は「おれは神」という内容のメールを、事件の数日前に自分の携帯電話から自宅に残した別の携帯電話に送っているのです。私自身は、中学性の時に内村鑑三の無教会主義のキリスト教をくぐっていますので、自分を神とは思いませんが・・・、こういう「おれは神」と信じるような「自己愛性人格障害」的な面は、アーティスト全般にあるのかもしれません。草間弥生さんとかには、強く感じます。

 自分を神と思い、自分を世界の中心に置いて、自分を中心にしてしか物事を考えない人間は、沢山います。美術の世界では、それが芸術家の道であると信じられています。裏付けとなるものがなにもないのに、一目置かれる存在であることに非常にこだわります。非常にプライドが高いのです。しかしプライドが低いというのも、病的なので、そのバランスが重要であるとは言えます。

 アメリカ精神医学会の診断基準「DSM−4」(「精神障害の分類と診断の手引き」の第4版、1994年)によると、自己愛性人格障害は「自分が重要で素晴らしい」という大げさな感覚を持つことだというのですが、それは『下流社会』という本が指摘していた様に、下流の人間に色濃く有る《万能感》の問題でもあります。《万能感》というのは、自分が神であると言う感覚です。自分が世界の中心にいて、自分の感覚だけで、すべてを判断します。そうしなければ純粋な芸術は出来ないと信じています。芸術とは、一つの宗教であって、その宗教は、自分自身を絶対者として信仰し、崇める事なのです。ですから、たとえば「セザンヌは良くない作家であり、ドナルド・ジャッドはくだらないし、プッサンは面白くない。下品なものは、良いよね。おもしろいから。」という女性作家が現実にいましたが、すべてが自分の感覚で判断して、自分に分からないものが存在するということすら認めないのです。すべて、自分の感覚だけで捉え、自分の頭だけで考え、自分がすべてを決済するのが、芸術家の純粋性をたもつ正しい道であると言うのです。それはそれで、自己中毒ではありますが、罪を犯さない限りは、個人の自由であって、良いのです。多かれ少なかれ、人間は自分のことしか考えていない自己愛性人格障害なのですから。

 しかし、芸術を学ぶ事は逆であって、歴史的に名作とされてきた評価の高い作品を受け入れ、それを見る事で、未熟な趣味の自分を自己憎悪力で殺して、自分の感性を他者の感性につなげる事が、重要なのです。自分自身を殺して芸術を学んでも、その芸術そのものは、実は《死》の衝動性に満ちたものです。芸術を真に理解した上で、今度は芸術自身を殺して行く必要がある。芸術至上主義は、古いモダニズムの価値であって、今日の表現は、実は芸術を理解した上で芸術を殺してデザイン的エンターテイメントを作り出して行く所に、美術の社会性を築き上げているのです。その意味で今日のアートの世界は、芸術の名におけるデザイン的エンターテイメントの時代であると言えます。


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田中栄樹

古い記事への質問失礼します。

自分自身を殺すことがデザイン的エンターテインメントへの道であり、自分を愛すことが芸術への道という定義でよろしいのでしょうか?
少しわからないところがあって、たとえば芸術を目指すなら、自分を愛して良いということですか?そうすると、結局のところ自己愛に陥り、6流かもしくは8流の人格に陥りそうな気がするのですが。芸術を目指しながら努力するためには、自己を憎んで、厳しい生活を送りながらも、なお、デザイン的エンターテインメントに転落しないように、芸術を目指すと、そういうことでしょうか?最終的な彦坂さんの決意がどちらに向いているのか、よく読み取れませんでした。自己憎悪によって努力をすすめているのか、それとも、自己愛による芸術をすすめているのかわからないです。
率直に聞きますが、芸術を目指しながら努力するためには、どうすればよいのですか?自己憎悪を持つことも必要だということでしょうか。読解力が低くて申し訳ございません。

失礼します。
by 田中栄樹 (2009-10-31 21:23) 

ヒコ

田中栄樹様
良いご質問をありがとうございます。
成人になった時に、子供のときから自己史的に形成された自我を、1回殺して、身の回りに居る大人たちの自我をコピーして、大人の自我を急遽つくるのが、成人になるというイニシエーションです。それが、あまりにうまく行くと、彦坂がデザイン的エンターテイメント的な自我と言っているものになります。
成人になることを拒絶することは、自分の子供の自我を守ることになるので、この守りを過剰にすると《自己愛》性人格障害になります。ナルシズムというのは、自己防衛機能なので、過剰に作動させると、他者排除になって、その結果として学習能力の低下に結果します。さらには他者排除の必要にかられて、無差別殺人に至るという不幸に帰結します。
どちらにしろ、成人になる時期の自我の問題は、凄く難しいのです。
 一般的にいえば、アーティストになるというのは、子供の時からの自己史の継続性を維持して、自我を発達させ続ける事を意味していて、成人になるイニシエーションを全面的、あるいは部分的に拒絶回避して、もうひとつの別の次元、つまり芸術とか学問とかいう、別の次元の偉大な人々の自我を模倣する行動の中で生まれます。

by ヒコ (2009-11-05 12:00) 

田中栄樹

回答ありがとうございます。

よくわかりました。過度の自己愛に陥らないように自我を発達させつつ、学習をするということが矛盾しないのだということが理解できました。ありがとうございます。質問はできるだけ控えるようにしているのですが、どうしても理解できないところがあれば、また質問させていただくかもしれません。その際は忙しいかと思いますが、お暇があればまた回答いただけるとありがたいです。

失礼します。
by 田中栄樹 (2009-11-05 23:43) 

春野


出会いの季節っしょ♪
一人暮らしの女とかマジですぐポンポン落ちておもしれーww
お姉さん美味しかったです(^q^)
http://dg09l-a.www.sofban.info/dg09l-a/
by 春野 (2011-04-11 12:58) 

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