エモーショナル・ドローイング(題名訂正/誤植訂正1) [アート論]
東京国立近代美術館で、
下記のシンポジウムを見て来ました。
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エモーショナル・ドローイング
「ドローイング再考 テクネーとアートのはざまで」
日程: | 2008年9月27日(土) |
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時間: | 13:00-16:00 |
場所: | 講堂(地下1階) *聴講無料、申込不要(先着150名) |
主催 東京国立近代美術館、国際交流基金
パネリスト(50音順)
金井直(信州大学人文学部准教授)
斎藤環(精神科医、爽風会佐々木病院精神科診療部長)
ヤン・ジョンム(韓国芸術綜合学校美術院美術理論科准教授)
中林和雄(当館企画課長)
保坂健二朗(当館研究員、本展キュレーター)*モデレーター
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なかなか、頑張っているレクチュアーとシンポジウムで面白かったし、いろいろと考えさせられた。
この展覧会自体は、タイムリーで、良くできています。
私見を申しあげれば、
すべてが《6流》《6流》《6流》の作品です。
その中でイケムラレイコ以外は、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界が、
すべてデザイン的エンターテイメントでありました。
そして大きな特徴は、シニフィエの美術であると言う事です。言い換えると脳内リアリティの作品で、
うすいものです。
つまりイケムラレイコだけは、
《非合法性》や《退化性》があって、
3界ですべて真性の芸術性を持っています。
そしてシニフィアンとシニフィエの両面性を持っていて、作品として、《6流》ではありますが見る値打ちがあります。
とは言っても出品されている3種類の作品の中で、
「顔」のシリーズはデュマスの模倣で、
いただけないしろものです。
まあ、こういう作品だけでは、作家の長期戦は難しいのでしょう。
展覧会のタイトルと記事タイトルが違うような・・・
by nav (2008-09-28 04:53)
ご指摘ありがとうございます。間違えました。
直しました。
by ヒコ (2008-09-28 17:28)
こんにちわ。オオウラと申します。ブログを毎回拝見させていただいております。
質問があります。今日の美術はシニフィエ(記号内容)の表現であり 脳内リアリティの高い表現となっていると ブログには書かれています。なんとなしに分かるようなわからないような状態ですが 脳内リアリティの高いシニフィエの表現から脱出する為には具体的にどうした心がけが考えられるのでしょうか。
このシニフィエの表現というのは現代人の病で 逃れられないものなのでしょうか。
よろしくお願いいたします。
by オオウラ (2008-10-02 15:05)
オオウラ様
コメントありがとうございます。凄い質問ですね。たしかにシニフィエ化というのは現代人の病です。私自身で言うと、子供の頃から重傷でしたね。大学生の頃は、時間球体という意味の《時球》の中にいるという閉塞感がありました。
私自身が、精神的に病んでいたからキルケゴール、初期仏典、フッサール、ラカンと読んできています。
基本は、病気は、直さなくて良いという事です。まず、そこに立たないと不毛なのです。フロイトの凄い所は、精神分析を打ち立てながら、私の私見では、精神分析では病は治らない事を知っていると思われる所です。
人間は、皆、病んでいて、どうしようもない迷妄を生きているのですが、基本は、一切直らないし、直さなくて良いのです。それは苦しい事ですが、この苦しみを引き受けて行く事が、人生の答えであり、意味を形成します。
さて、最終的に直らないかと言うと、彦坂尚嘉が初期から主張している事は、《背理》という方法の重要性です。自分が病を引き受けて、病気のまま生きる事を引き受けた時に、そのものと反対になるという《背理》が起きます。ゴムボールの内側が、外側にひっくり返る様な、くつがえし(覆し)
が、起きるのです。それが《反覆》です。普通は「反復」という字を、『反覆』という旧漢字でかくのは、この《くつがえし》を強調する為です。
人間と言うのは、基本的にジジェクがいうように深い自己欺瞞を生きるしかありません。その宿命を引き受けると、じこぎまんそのもののメカニズムを逆手に取る事ができる様になります。
シニフィエの表現そのものになることを引き受けると、背理が起きます。それがいつ起きるかは、神の御心であって、偶然にまかせるしかありません。犬も歩けば棒に当たるというのが、人生の真理であって、多様な試行錯誤の無駄の集積の中で、たまたま巧く行く方法を見つけられるのです。ご健闘を祈ります。
by ヒコ (2008-10-07 10:35)