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歴史批評という方法/ドローイングについて [アート論]

私自身の依拠する方法は、歴史批評というものです。

昨日のドローイングのシンポジウムでも、
議論は真剣なのですが、
その方向が、「ドローイングとは何か?」という、
普遍的な問いに収斂されるものでした。

こうした普遍主義は、抽象的すぎるように
私には思えます。

ドローイングというものは、
時代によって違うので、
私の歴史批評という方法からは、
時代ごとにまず、ドローイングについて、
考えるという方法をとります。

基本はまず、4つの時代のドローイングを採取するところから始まります。

1、自然採取時代(絶対零度状態のドローイング)

2、農業革命以後の文明のドローイング(固体状態のドローイング)
  たとえばエジプトの壁画におけるドローイング的なるもの
  あるいは、中世の写本画など等々

3、産業革命以後の産業社会のドローイング(液体状態のドローイング)
  ピカソのドローイングや、デュシャンのドローイング

4、インターネット成立以後のデジタル時代のドローイング
  (気体状態のドローイング、あるいは循環系に入ったドローイング)

すみません、絶対零度/固体/液体/気体というのは、
H2O(水)の様態変化の比喩で、時代変化を捉えた説明なのですが、
すでに書いているので、ここでは詳しい解説は割愛します。
  

95160-004-AC17F5E9.jpg
あくまでも学問として、
現実を観察し、資料を採取し、
そして考え、理論を作り出そうとします。

例えば、まず、文明発生以前の自然採取文化における、
ドローイング的なものを探します。
この原始時代には、文房具屋さんもなく、画材屋さんもないので、
紙も、鉛筆すらもありません。
この時代のドローイング的なもので、
今も残っているものを、
見つけて論じるのです。

アボリジニのボディ・ペインティングには、
ドローイングと私たちが思えるものがあります。
この表現は、シニフィアン(記号表現)としての表現です。

aborigine_markings.jpg

これもアボリジニの岸壁に描いた絵ですが、
こういうものに、人類の自然段階のドローイングを
確認で来ます。

RockPaint-TocadoMorcego.jpg
上のものも、ロックペインティングと言われるものです。

ですから、
こういうものと、
インターネットが生まれ、
文房具屋や画材屋があって、
膨大な文房具や画材のある現代において、
デジタル時代のドローイングは、
いかなる変貌をとげたのか?
それが論じられる必要があるし、
過去との参照もまた、
時代を区切って、組織的な歴史的反省が、
学問的になされる必要があると、
私は、考えます。

exhb_125.jpg

このブログで詳細に論証するのは、
手間として出来ませんが、
私見によれば奈良美智をはじめとする多くの
《6流》のデザイン的エンターテイメントである
ドローイングは、物質性を事実としては持っているにも関わらず、
シニフィアン(記号表現)としての質を欠いていて、
シニフィエ(記号内容)としての、つまり彦坂尚嘉流にいえば、
脳内リアリティ的な質の高い表現になっています。

ここに、私はデジタル時代の表現の特質を見るのです。

アボリジニ奈良.jpg

ロックペインティング奈良.jpg

奈良美智のこのドローイングに書かれている文章は、
「脳の中にある気持ちを決して恥じる事はない」と
書かれていますが、
こうした脳内リアリティのストレートな表出と言う性格は、
歴史的には、ロックペインティングなどに見られる
シニフィアン(記号表現)の表現とは、違うものなのです。

中世の写本(固体状態のドローイング)と、
現在のドローイングは似ているようにも、
思えますが、
現実に見てみると、やはり違います。
たとえば14から16世紀に描かれたと考えられている
ヴォイニッチ手稿です。
450px-F78r.jpg
awr_6vm2.jpg
voynich_schaefer.jpg
ヴォイニッチ手稿4.jpg
ヴォイニッチ手稿1.jpg
ヴォイニッチ手稿2.jpg
ヴォイニッチ手稿3.jpg
ヴォイニッチ手稿
《想像界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント/

固体美術。
《想像界》の美術。
シニフィエの美術。

《6流》でデザイン的エンターテイメントであることで、
現在の多くのドローイング・アートと似ていますが、
現在ものものが、気体美術であること、
シニフィエ(記号内容)の美術であるのに対して、
固体美術で、シニフィアン(記号表現)の美術なのです。

Voynich奈良.jpg

つまり奈良美智と、ヴォイニッチ手稿を比較すると、
《6流》のデザイン的エンターテイメントであることは、
同一ですが、
ドローイングが、気体化していることと、
シニフィエ(記号内容)化しているのが、奈良美智なのです。

次のドローイングは、ピカソのものです。

picasso_178058t.jpg
ピカソのドローイング
《想像界》の眼で《6流》の真性の芸術
《象徴界》の眼で《6流》の真性の芸術
《現実界》の眼で《6流》の真性の芸術

液体美術
《象徴界》の美術。

ピカソ奈良.jpg
奈良美智とピカソを比較すると、
同じ《6流》のドローイングといっても、
ずいぶんと違う事が分かります。

一番の違いはピカソが液体美術で、しかも《象徴界》の作品である事です。
もちろんシニフィアン(記号表現)です。

奈良は《想像界》の作品で、気体美術なのです。
そしてシニフィエ(記号内容)なのです。

つまり映像装置や、映像インスタレーションの作品に見られる
シニフィエ(記号内容)化した作品と、共通する芸術構造を、
今日の奈良美智的なドローイング作品は持っています。

繰り返しますが、
シニフィエ(記号内容)というのは、脳内リアリティの内容のことで、
記号内容化ですが、
物質性が希薄化し、意味を形成しないで、
本質的な伝達性が高い表現です。

「木」という文字を和紙に墨で書道して、
それを鑑賞する様な見方が、シニフィアン(記号表現)です。

それに対して、文字を書かないで、
脳内だけで「木」という文字を思い浮かべた時の本質内容が、
シニフィエ(記号内容)です。
コンピューターの中のメールの文字は、
電脳の内部になりますので、
シニフィエ(記号内容)と言えます。

奈良美智のドローイングは、
紙に描かれているのですが、
にもかかわらず脳内化していて、
シニフィエ(記号内容)化しているのです。

ですから伝統的なドローイングにあった
シニフィアン(記号表現)としての意味形成ができません。
ラカンは、シニフィアン(記号表現)において意味構成が出来ると言います。

奈良のドローイングには
シニフィエ(記号内容)として表現の本質はありますが、
意味構成は出来ないのです。
ですから、奈良の作品を見ても、
観客の内側に意味を構成できない。
帰って思い出しても、奈良を見た体験が、
自分の人生の意味を構成するようにには、立ち表れないのです。

つまり伝統的な芸術を鑑賞した時にあった、
深い感動が生じないのです。

つまり万華鏡を見る体験に似ているのですが、
面白いのではありますが、
奈良美智の作品の鑑賞体験は、無意味なのです。

タグ:奈良美智
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コメント 3

GB

イケガミレイコじゃなくてイケムラ(WWWWWW

脳じゃなくて胸(WWWWW 

PS.42流のおっさん 銀杏知らねえの?(WWWWWWW∞
by GB (2008-10-02 16:48) 

ヒコ

GBさん、ご指摘ありがとうございます。
訂正します。
まあ、昔から速書きで、誤植が多いのです。
以後、少しは気おつけます。

また、ご指摘ください。
by ヒコ (2008-10-07 10:39) 

mamimi

いつも楽しく読ませてもらっています。

ちょっと気になったのですが
奈良さんのドローイングのような作品は
意味を生み出すことをそもそも狙っているのではなくて
「シニフィエ」を交換するためにあるように思えるのです。
だからその意味でなんと言うか
自己啓発に近い感じで機能して有意味化しているのでは
ないかと思うのですが、、いかがですか?






by mamimi (2008-11-12 05:27) 

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