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薔薇とトマト(加筆2画像増加誤植訂正1) [自作紹介]

彦坂尚嘉薔薇とトマト1.jpg

薔薇とトマトという作品を作った。

彦坂尚嘉トマトと薔薇2.jpg

まだ出力していないので、
コラージュのエッジの汚さを整えるとか、
細部は、出力して見てから、
仕上げを考えたい。

出力ものは評判は悪いのだけれども、
私は好きで、性懲りも無くチャレンジして来た。

だんだん、1人でやるしかなくなって来ていて、
その辺は、普通の作家と全く同じで、
最終的には孤独しか無く、
話もしたくなくなる。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
【加筆1】

音楽の世界では、「打ち込み」という言葉があります。
乱暴にいえば、コンピューターで音楽を作る事です。

ドラムマシンやミュージックシーケンサーなどに前もって演奏情報を入力しておいて、
それを再生することで演奏を実現させる技法で、
その結果としての音楽のこともいいます。

「打ち込み」で音楽を作る事の面白さと、
その結果のつまらなさから、
もう一度、ライブの演奏にもどってくるという、
傾向はあるし、
そうした話は、友人のミュージッシャンからも聞きます。

私の場合は、手描きと、コンピューターと、
両方を追いかけて来ています。

だから、手描きが良いのか?
コンピューターが良いのか?
という問題設定自体が、駄目な問いであると、
思えます。

両方を使えて、コントロールできなければ、
今日のインターネット時代の芸術の探求が出来ないと
考えるのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

いろいろな事がありすぎるので、
急いで書くしかないのですが、

私が「デザイン的エンターテイメント」という言葉で言っている領域と、
ヨーロッパ的な意味での《イラストレーション》という領域は、
重なっています。
しかも、前のブログで指摘したように、
《イラストレーション》というのは、《現実界》なのです。

話はむずかしくて、分からないでしょうが、
私の探求の結果では、
ヨーロッパ的な意味での《イラストレーション》という領域は、
《真性の芸術》とは、反対の方向を向いているのです。

だから、一度解体してしまって、
《真性の芸術》性をゼロにして、
《イラストレーション》としてだけで作品を成立させることが、
必要なことに、気がつきました。

今日のブログの最初に掲載した図版は、
《真性の芸術》性がゼロの作品です。

《想像界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》〜《8流》のデザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント。

2番目の画像は、《真性の芸術》性を加えています。


《想像界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》〜《8流》のデザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《6流》の真性の芸術。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

この作品を作る前に作っていたものは、
7枚、この探求を成立させたものです。

トマトと花0完成190.jpg
図版を小さくし損なっているので、見にくくなってしまいましたが、
お許しください。

【1】
《6流》でデザイン的エンターテイメントのもので、
ひとっかけらも《真性の芸術》がないものです。

新幹線のところで書いたように、
この《6流》のデザイン的エンターテイメント領域こそが、
美術作品の範疇の中心であると考えます。
80%の作品は、この領域です。



トマトと花1完成190.jpg
【2】
これは《現実界》だけに《真性の芸術》を入れたものです。

《想像界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》〜《8流》のデザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《6流》の真性の芸術。

この状態が、モーツアルトの音楽です。
そういう意味で、一番、普通の人が喜ぶ領域であると言えます。

もう一つ例をあげると、ミース・ファン・デル・ローエの
バルセロナ・チェアという椅子や、彼の建築そのものも
この構造をしています。

《6流》の中で、《現実界》だけを《真性の芸術》のしたもの
というのも、実は少なくて、
モーツアルトや、ミースが高名なのも、
実は希少であるからです。

社会的に成功するには、
この領域の美術を作る事だと言えます。



トマトと薔薇2/190.jpg
【3】
《想像界》と《現実界》が《真性の芸術》で、
《象徴界》がデザイン的エンターテイメントであるという作品です。

《想像界》の眼で《6流》の真性の芸術。
《象徴界》の眼で《6流》〜《8流》のデザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《6流》の真性の芸術。

構造的には、
《真性の芸術》と《デザイン的エンターテイメント》が
複合していて、面白いものだと思いますが、
現実の作品や作家は、まだ発見していません。



トマトと薔薇3-190.jpg
【4】
3界とも《真性の芸術》である《6流》作品です。
これはエモーショナル・ドローイング展であった
イケガミレイコの作品の構造です。

《想像界》の眼で《6流》の真性の芸術。
《象徴界》の眼で《6流》〜《8流》の真性の芸術。
《現実界》の眼で《6流》の真性の芸術。

《6流》の中では、一番純粋に芸術である作品であって、
そういう意味で、
イケガミレイコが、評価されている事は、
大きな指標になります。



トマトと薔薇《1流》190.jpg
【5】《1流》の真性の芸術です。
《想像界》の眼で《1流》の真性の芸術。
《象徴界》の眼で《1流》〜《7流》の真性の芸術。
《現実界》の眼で《1流》の真性の芸術。


トマトと薔薇《超1流》190.jpg
【6】
《超1流》の真性の芸術です。
《想像界》の眼で《超1流》の真性の芸術。
《象徴界》の眼で《超1流》〜《7流》の真性の芸術。
《現実界》の眼で《超1流》の真性の芸術。



トマトと薔薇《41流》190.jpg
【7】
《41流》の真性の芸術です。
《想像界》の眼で《超1流》の真性の芸術。
《象徴界》の眼で《超1流》〜《41流》の真性の芸術。
《現実界》の眼で《41流》の真性の芸術。

こうシリーズの作り方は、
モンドリアンの木の変形のシリーズのようなもので、
ある種の詐術があります。

実際には、どうでもなるので、
もっと多様に変化します。

《41流》が、抑制的な色彩になっていますが、
《6流》に比べて《41流》というのは、
コントラストが格段に強くなっているので、
彩度を落とした方が、きれいに見えるので、
落としただけです。
《41流》でも派手な色彩の作品も出来ます。

つまり構造の問題なので、
表面の効果だけで判断するのは、
間違いなのです。

《6流》《1流》《超1流》《41流》と並べても、
ほとんど同じように見えると思うのですが、
微細な差異なのです。

この微細な《格付け》の差異を生み出している基本は、
ストレス(抑圧)の量です。
《6流》には、ストレス(抑圧)はありません。
《1流》になると、明確にストレス(抑圧)があります。
《超1流》や《41流》というのは、
異様にストレス(抑圧)が高いのです。

画像を作るときには、
《想像界》の格付けの差異をつくる大きな要素は、
コントラストです。

コントラストを上げて行くと、
《想像界》の格は高くなって行きますが、
上げ過ぎると《6流》に転落します。

明度は、どうも《象徴界》を変化させます。
なぜに明度が《象徴界》を司るのかは、
まだ不明です。
明度を上げると《象徴界》は上がり,
《超1流》になります。

彩度は、《現実界》を変化させます。
彩度を上げると、現実界も上がります。

手描きですと、いろいろ出来るのですが、
画像で、真性の芸術にするために《退化性》を生み出すのに、
一番直接に使えるのは、カラーバランスです。

言い換えると、色相は、
格づけや、真性の芸術性には、関係なく、
それ以外の差異を生み出すに使えます。

この微細な差異を見分けるのは、
イメージ判定法では無理でありまして、
《言語判定法》の威力が出てくるのです。

それと、こうした変化のサンプルを作るのには、
手描きは、計量化が微細にコントロールすることができないので、
コンピューターによる作業の方が向いています。

しかし実際の世界の中では、
驚くほど、人々は、本能的に敏感に見分けているのです。

分析的な言葉にはできませんが、
多くの人々は本能と直感で見分けます。



















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コメント 2

???

モンドリアンですよ?
あと何が違うんだかわかりませ〜ン・・・
by ??? (2008-09-29 20:47) 

ヒコ

モンドリアンは、誤植ですね。ご指摘ありがとうございます。
違いは、微妙なので、分からない人が多いと思います。

たとえば「うどん」と言っても、スーパーの「茹でうどん」なのか、群馬県の「うどん」なのか、それとも讃岐の「うどん」なのか、で違いが微妙にあります。

讃岐の「うどん」にしても、店によって、凄く違うのです。その差を分かるようになることが、趣味判断なのです。

by ヒコ (2008-09-29 21:17) 

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