◆◆《シリアス・アート》◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ポールマッカーシーは、1945年、アメリカ合衆国、
ソルトレイクシティ生まれ。
1960年代後半 西海岸のアンダーグランド・カルチュア・シーンを代表するパフォーマーとして活動します。
ケチャップまみれになってままごとを繰り広げる
パフォーマンスなどを行ったのです。
次に紹介する画像が、その時のものかどうかは、
私には判断できませんが、
極めて《シリアス・アート》のパフォーマンスであると言えます。
《想像界》の眼で、《41流》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で、《41流》から《8流》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で、《41流》の《真性の芸術》
気体美術、《現実界》の美術
《ハイアート》、《シリアス・アート》
《自己愛》性人格障害者の作品。
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《自己愛》の人の作品は、
どうしても閉塞感があって、
好き嫌いでは、私は好きではないですが、
しかし、これら、
マッカーシーの初期作品の、
《ハイアート》性や、《シリアス・アート》性は、
《真性の芸術》になっています。
《41流》〜《8流》というのは、
ヤクザ映画と同じなので、
その辺は、私はやや低い評価ですが、
それでも、評価に値するパフォーマンスです。
市原研太郎氏が、マッカーシーの回顧展を見て、
ARTSCAPEに文章を書いておられる。
http://www.dnp.co.jp/museum/nmp/artscape/war/0102/ichihara.htmlが
ポール・マッカーシー回顧展
Geffen Contemporaryで行われていたのは、ポール・マッカーシーの回顧展だった。マッカーシーは、“Heidi”で共同制作をしているマイク・ケリーよりも年長で、キャリアも長いけれども、このように大きな展覧会を開いたのは初めてである。なぜ彼が、長い間本格的な注目を浴びなかったかは、作品を見ればすぐに理解される。というのもパフォーマンスをメインにやってきた彼の作品は、猥雑かつ暴力的、さらに俗悪かつグロテスクだからである。このような作品を目の前にして、ショックや苦笑を禁じ得ないのは当然だろう。今回の展覧会を見て、活動のある時点で彼のパフォーマンスが、系譜学上の祖先といってよいウィーンのアクショニズムと袂を分ち、シリアスではなくポップに、すなわち漫画チックな仮面やヌイグルミを被って行なわれるようになったこと、そしてその結果より過激にしかし同時に親しみやすさも感じられるようになったことが判る。おそらく初期の素顔のままでのパフォーマンスを継続していたなら、精神の崩壊を免れなかったであろう。それほど鬼気迫る状態にあったのだと想像される。いずれにせよこの回顧展によって、アートを含め文化の転覆を目論む彼のエネルギッシュな作品の全貌が明らかとなった。付け加えておけば、“Spaghetti Man”(93年)は、彼の自画像と呼ぶべき作品である。
初期の《ハイアート》、そして《シリアス・アート》は、
終わって、
ポール・マッカーシーは、
転向して、
《ローアート》で、《気晴らしアート》へと、
展開するのです。
この転向を、批判するのか?
それとも、賞賛するのか?
人によって違うと思います。
◆◆《気晴らしアート》◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《想像界》の眼で、《41流》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で、《41流》から《8流》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で、《41流》の《真性の芸術》
気体美術、《現実界》の美術
《ローアート》《気晴らしアート》
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市原研太郎氏が書いていた様に、
もしもポール・マッカーシーが、
転向していなかったら、
彼は有名にならなかっただろう。
その意味で、この転向は、
評価されていいのだと言わなければならないでしょう。
人々は、《ローアート》を愛し、
そして《気晴らしアート》を好むものなのです。
しかし、転向を評価するにしても、
実は初期の《ハイアート》で、
《シリアス・アート》である作品の存在を抜きには、
ありえないです。
2008-10-20 01:43
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