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認識の限界・再論 [アート論]

芸術の話を他人とすると、
極めてむずかしいです。

私としては、芸術社会学視点で、
現実の芸術現象を観察して、
考えたいのです。

しかし、多くの人は、
芸術を事実の問題ではなくて、
すばらしいもの、
あこがれのもの、
あるいは理想のものとして考えているようなのです。

だから客観的なものとして語って行こうとする事が、
むずかしいのです。

例をあげると、
デュシャンの泉に象徴されるのです。
500人の芸術関係者による、
「20世紀でもっとも最もインパクトのあった現代芸術作品」において、
ピカソを抑えて1位に選ばれた作品です。

アルフレッド・スティーグリッツが撮影した写真としての『泉』は、
《超1流》芸術です。
しかし、サンフランシスコの近代美術館などで、
残された便器のレプリカを前にして鑑賞しても、
あのレプリカは、すくなくとも芸術ではありません。

しかしあれを芸術の名において喜ぶのです。

つまり芸術ではない物を、
芸術として見る事や,
語る事に、無常の喜びを感じる様なのです。

そういうものとして、
芸術という名称があるようなのです。

事実としての芸術作品は、
多くの人が嫌いであるか、
無関心である様に、
私の観察では、見えます。

プッサンの作品も、
セザンヌの作品も、
それほど人は好きではないようです。

ファン・アイクや、
宗達の好きな人たちはいますが、
しかし大衆的に夢中になるものではありません。

むしろ長谷川等伯の松林図や、
フェルメールの様に、
私が《6流》の
デザイン的エンターテイメントであって、
《真性の芸術》ではないと判断する作品の方が、
大衆的に大人気なのです。

人々は《6流》の
デザイン的エンターテイメントを、
芸術の名において鑑賞することを、
好むのです。

ですから芸術に見えるデザイン画を、
いかに作りだすかが重要な事なのです。

ですから、
芸術について、
少なくとも観察して議論しようとする事は、
無意味な様なのです。

無意味な事をしているというのが、
このブログの愚行の中心であると言えます。

もちろん、人間の事象で、
議論を出来ない事はたくさんあります。

ですから、そういう
議論の出来ない事柄として、
認識の限界の外に、
芸術という事象があるのです。

しかしそれは、本当に認識できないという事柄とは、
別の事なのです。
認識は出来るけれども、
事実を認識はしたく無いという、
そういう欲望の問題なのです。

人間が、
実は、事実を、
事実として認識したく無い生き物であると言う事と、
深く関わっています。

つまり人間は夢を見ていたいし、
迷信を生きていたいという、
そういう欲望に深く取り憑かれている
存在なのです。

そういう領域に関わって、
芸術があるのです。

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asa

はじめまして、これはChim↑Pomの件に関して書かれた文章だったりしますか?
もしそうなら具体的なお話をもう少し聞かせてもらいたいです。
by asa (2008-10-27 19:55) 

ヒコ

Chim↑Pomって、会田さんの所から出て来た人たちですよね。彼らについて書いたつもりはありませんでした。
by ヒコ (2008-10-28 03:24) 

ss

こんばんは、はじめまして 広島でのChim↑Pomの件に関してご存知でしたら どのようにお考えかご意見を聞かせていただきたいのですが。
by ss (2008-11-01 01:52) 

ヒコ

ss様

ブログで、簡単にですが、取り上げてみます。
by ヒコ (2008-11-02 19:29) 

ss

こんばんは。コメント、ありがとうございます。私が、はじめてこのブログに出会ったのは、お知り合いの詩人の方の詩にとても感銘を受けたのが切っ掛けでした。私の父も海外の詩人の翻訳を手がけておりましたので 詩を作ること翻訳することに苦悩する姿を見て参りました。小さかった頃私は、「どうしてそんなに苦しむのか?止めてしまえば?」と父に言ったことがあります。父の答えは、「表現する者には、大きな責任がある。そしてそれを公表するには、なおさらの事である」と。広島の件に触れますが、広島の方々が憤りを感じられたのは、空の文字もさることながら 彼らの過去の作品がとても許容しがたいものであったと想像いたします。その中で何か広島の方々に訴えるものがあれば、また状況は違っていたのではないかと感じました。そしてChim↑Pomは、最後まで作品を完成させ広島で展示し、その意図を徹底的に主張をするべきではなかったと思います。彼らは、批判を逃れ、責任も放棄したのであるなら、また現代アートが その作品と共に行為も含め美意識の一端として捉えるのであれば、私は現代アートに失望すると思います。
by ss (2008-11-03 02:10) 

ヒコ

 社会常識を逆なでにするひどい作品を作った時に、会田誠さんの場合には、自分がひどいことをしている事を知っているのと、会田さん自身の内部の反抗せざるを得ない葛藤の高さがあって、そのひどさが、芸術として、時代の中で誤読されて、賞賛されました。
 会田誠さんの下から出て来たChim↑Pomは、その所で、集団であることもあって、ひどさに対する自覚が甘かった。それに蔡國強が「ヒロシマ賞」で」25日午後、広島市中区の原爆ドーム付近の河岸で黒い花火を打ち上げるプロジェクトを行ったことが、事態を甘く判断させる要因になったのではないかと、思います。
 しかし一番の大きな問題は、こういう社会批判を浴びた時の対処の仕方です。社会から批判を浴びる事の本当の怖さを知らなかったのだろうと思います。社会の《1流》性と言う理性領域は、非常に凶暴なものであって、モダンアートというのは、これとの闘争を繰り返して来ていたのです。その歴史の過酷さを、知らなかったのだろうと思います。今からでも遅く無いので、やれる事を、きちんと処理して行く事が重要です。
by ヒコ (2008-11-04 06:06) 

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