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認識の限界(加筆2) [アート論]

人間は、
非常に狭い所に生きています。

自分という肉体や身体という、
狭い所に、まず生きています。

哲学者のカントは、プロイセンのケーニヒスベルクで生まれて、
ほぼ、そこだけで生きて死にます。

人間の自然性が、
生まれた場所に縛られて、
地縁に限定づけられる様になったのは、
文明発生以降のことです。

ニューヨーカーも、
ある限られた場所以外には出ないと、
言われていたことがあります。

それは生活の空間が限定されているだけでなくて、
趣味性も、実は、特定の狭い所にいるのです。

モンシロチョウの幼虫が、

キャベツの葉だけを食べるように、
特定のものだけを食べるのが、
ある意味で自然です。

私の義父は、いつも朝、
餅をトースターで焼いて、
プロセスチーズを乗せ、
海苔で巻いて食べていて、
これを30年ほど繰り返していました。

美術評論家のB氏は、
肉を食べません。

趣味の基礎は、食物です。
食物の趣味性が、美術の趣味判断と重なっているのです。

趣味判断というのは、もともと味覚から始まっているので、
味覚の限界性が、まず、その限界を示します。

18世紀、ヨーロッパ貴族の中で、
芸術の趣味判断は生まれますが、
基本は食物の判断でした。
だから、良い趣味をグッドティストと言い、
悪い趣味を、バッドティストと言います。

美術評論家のA氏は、
タバコの若葉を、60年も吸い続けています。

編集者のC氏は、
辛いものが食べられません。
こういう味覚の限界は、
美術の鑑賞性の限界をも意味します。

しかし芸術の趣味判断が生まれたのは,
18世紀に世界に植民地をつくって、
グローバリゼーションが起きて、
いろいろな知らない食物が海外から入って来て、
それを味わう中で、趣味判断が生まれるのです。

つまり食生活の多様性を基盤にして、
芸術の趣味判断が成立しているので、
多様な物を食べる勇気と、
その異質な味覚を楽しむ感性の自由がないと、
芸術は理解できないのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
作家のDさんは、
好きな音楽が、《超1流》〜《41流》性をもった、
大変過激なものを好んでいます。

しかし、
それらの音楽には、不思議なことに《1流》性がありません。
《1流》性の欠如した音楽が好きなのです。
つまり、
アンダーグラウンド性をもった音楽です。

そのことは作品にも現れていて、
Dさんの作品は《1流》性を欠いています。

しかし《超1流》〜《41流》の間の、
すべてを、《1流》以外は、持っているのです。

そう指摘したら、
今度はオフスプリングを、私に教えてくれました。
しかしオフスプリングの音は、
1980年代初頭のバットレリジョンの、
ほとんど焼き直しの音楽で、
しかも問題は、バットレリジョンが開放的な音楽であるのに対して、
オフスプリングは《自己愛》性人格障害者の音楽で、
閉塞感を持っているものです。
つまり言い換えるとアンダーグラウンド性のある音楽なのです。
《1流》が持つ社会的理性性を欠いている音楽なのです。

つまり作家のDさんの感性は、
どうも《1流》という社会的な理性性を欠いているものが、
好きなのです。

そういう趣味判断の性向を持っている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「琴線に触れる」という言葉があります。
琴線というのは、琴の糸のことです。
心の奥深くにある、物事に感動・共鳴しやすい感情を、琴の糸にたとえていった言葉です。
良いもの、素晴らしいものに感銘を受ける意です。

作家のDさんは、ですから《1流》という社会的理性領域を、
欠いた表現に、感動し、共鳴しやすい感情を持っている人なのです。

反対に《1流》の音だけを聞いている人たちがいます。
友人のPさんも、Rさんも、
聞いているのは《1流》の音楽だけです。
社会性のある人たちと言えます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こうした個人の趣味性の多様性は、
人間の遺伝子の多様性に対応した、
人間そのものの多様性であり、
肯定すべきものと、
私は思います。

エイズに感染しても死なない人たちがいるそうですが、
昔のヨーロッパでの黒死病の大流行でも、
8割の人が感染死しても、
2割の人は、黒死病への耐性を持っていて、
全滅をまぬがれたように、
遺伝子の多様性は、人間が絶滅を回避する、すぐれた能力なのです。

それと同じ様に、
芸術趣味判断の多様性というのは、
実は芸術そのものの絶滅を回避する多様性であって、
極めて重要なものなのです。

いろいろな趣味性をもつ芸術があるのであって、
一つではないのです。
芸術は、極めて多様なものなのです。

しかし1945年日本敗戦以後の美術が、
《6流》ばかりが大勢を占めて行き、
次第に他の趣味判断を排除して来ていることは、
この日本の総合的なサバイバル力の衰弱につながる、
危険な事であると、私は思います。

少なくても、
《6流》と《1流》《超1流》が、
並存して行く状態が、
私には普通の状態と考えられます。

しかし実は普通の状態そのものが観念的な事であって、
そういう風には、実は歴史は無いのも事実ではあります。

普通なんて、
どこにもなくて、
いつの世も、異常な状態なのです。

今回の世界的な経済危機の中で、
実は感性そのものの変動が起きるだろうと、
私は予想します。

約30年ほどの新自由主義の経済世界は、
社会ルールを過激に解除して行く事で、
展開して来た故に、
《象徴界》の無い人々が、跋扈する社会であったからです。

そのことは美術の世界にも言えたのです。
区切りとしては、川俣正さんの登場が、
私には印象深くあります。

彼は、その作品集『工事中』の中でも、
「消費」という言葉を使っていますが、
消費する運動としての美術を提起していたのです。
その消費主義と、新自由主義を連動させるのは、
証拠としては不十分ですが、
1980年代初頭に出て来たという時代性を含めて、
なんとなく、私にはそういう印象があります。

ジャーナリストの村田真さんも、
「川俣以降」という言葉を使っていましたが、
川俣以降の日本の現代アートこそが、
サッチャー/レーガンの新自由主義に対応する美術であったと、
私には思えます。

これらの新自由主義的な現代アートが、
時代の役割を終えて、
先端性を失い、
中堅の領域に後退して行くだろうと予想されます。

川俣さんの仕事が、
時代遅れの、古くさいものに見える時代が、
来る様に思えるのです。

その範囲がどこまでかは、
議論があるでしょうが、
少なくとも中国の現代絵画までは含まれるのではないでしょうか。

そして
しばらく、先端部分は空白状態になるでしょう。

この空白の中で、
各自の芸術の趣味判断の限界は、
より明確な形を示すはずです。

流行が消えて、
凪ぎのような状態の中で、
各自は、自分の認識の限界と向き合うことになります。

この凪ぎの時間が短いのか長いのかは、
予想はできませんが、
最短でも3年〜5年はあるのではないでしょうか。

しかし厳密にはもっと早くに、
次の方向は出るでしょう。
歴史と言うものは、止まらないのです。
時間は、いつも、流れます。
予想としては2009年から2010年です。
この2年間は、アンテナを敏感にして、
情報をチェックして行く必要があります。




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コメント 2

Tattaka

初めてコメントします。とてもわかりやすい論理ですね。いろいろ納得しました。
by Tattaka (2008-10-27 10:58) 

ヒコ

Tattaka様

お褒めのコメント、ありがとうございます。
by ヒコ (2008-10-27 14:56) 

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