新世代ワイン評論家と赤い石内都写真 [アート論]
8万人の視聴者を誇るインターネットテレビ番組「ザ・サンダー・ショー」で注目されているのが、ゲイリー・ヴェイナチャク(32)。彼はどこまでも自由に、率直にワインを評する。大学生が造った無名のワインを絶賛することもあれば、有名なイタリアワインを酷評することもある。また言い回しも独特で、たとえばこんな調子だ。
「このワインは“道路わきの茂み”を思わせる芳香を含んでいる。小枝やミネラルの香りもするが、その茂みには汚いバンソウコウや、つぶれた空き缶なんかも転がっている」
「このワインは“道路わきの茂み”を思わせる芳香を含んでいる。小枝やミネラルの香りもするが、その茂みには汚いバンソウコウや、つぶれた空き缶なんかも転がっている」
以下の文章で、赤い字は、上記よりの引用文章です。
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「信じるべきは自分の眼」
ネットで話題のラカン系芸術分析家
このワイン評論家を模して彦坂を売り出せば、こう言うのだろう。
彦坂も,ヴェイナチャク同様に率直に美術作品を評しています。
無名のアーティストが造った無名の作品を絶賛することもあれば、
有名な巨匠アーティストを酷評することもある。
それと何と言っても彦坂の特徴は、芸術から逃げない事です。
果敢に見つめて、考え続けて行く。
多くの人は、芸術から逃げるのです。
芸術が分からないアーティストとか、
芸術が分からない美術評論家とか、
芸術が分からないギャラリストって、
専門家として信用できませんよね。
しかし彦坂は、このゲイリー・ヴェイナチャクほどの、
しゃれた言い回しが、
出来るわけではない。
むしろ直裁すぎる言い方が、反発を呼ぶ、反省!
そこでパロディ。
「石内都の写真は“道路わきの茂み”を思わせるホコリ臭さを含んでいる。老人のしわだらけの肌のすえた臭いや、死んだ母親の死臭もするが、その茂みには汚いバンソウコウや、つぶれた空き缶なんかも転がっている。しかし何よりも特徴的なのは、その原始平面性の浅さなのだ。その浅さの直接性は、道路のアスファルトのような臭いがする。
以前に石内都の足の写真と、ロバート・メイプルソープの女性のヌードの写真とを並べて、臭いを感じるかどうかを、何人の人に質問することをしましたが、メイプルソープの写真には抽象性があるのですが、石内都の写真には抽象性がないのです。
レトリックを重視したのは美術評論家の故東野芳明さんでした。
文学の復権というのは、重要なのですよね。
さらに今日の芸術分析というのは、今日の医者の診断のように、
データー分析が、細密化する必要があるのです。
石内都の顔です。
《想像界》の眼で《21流》
《象徴界》の眼で《6流》
《現実界》の眼で《6流》
液体人間、《想像界》の人
《気晴らしアート》的写真家、《ローアート》的写真家
たいへんに悲しみに満ちた顔で、
失意に満ちています。
眼がすごいですね。力が無い。
これはネット上に流れている写真です。
私には、素朴な驚きがあって、ここでとりあげました。
《21流》というのは、人生のどぶ泥の世界で、直接性の世界です。抽象性がないのです。高さが無い世界です。高さというのは、理想とか、形而上的な価値とかいうものです。こうした理念性が無い。建築家ではザハが、やはり《21流》の顔をしています。ザハも人気がありますが、石内都の人気と、ザハの人気は《21流》の顔を持つ人格として共通性があるのです。
《6流》は自然領域です。同時に原始平面の世界です。
ザハの顔です。
《想像界》の眼で《21流》
《象徴界》の眼で《超1流》
《現実界》の眼で《超1流》
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人物
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な人物
《気晴らしアート》的建築家、《ローアート》的建築家
正直言うと、ザハの顔も建築にも疑いがあったのですが、
今回こう顔を見直してみると、
なかなか良い顔していますね。
先日のモバイルアートでの建築は、ひどかったですが・・・
チャンスを見つけて、ほんもののザハ建築を見に行きたいですね。
つづけて、ワイン評論家の顔です。
ゲイリー・ヴェイナチャクの顔
《想像界》の眼で《超1流》の《真性のワイン評論家》
《象徴界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテナー
《現実界》の眼で《1流》の《真性のワイン評論家》
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人格。
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な人格。
《超1流》《6流》《一流》という組み合わせは、
松たか子と同じです。
珍しい人と思います。
眼に、石内都と違って力があります。
すばらしい表出力ですね。
二人の顔を並べて見ます。
比較という行為をする時には、
条件があって、
似たものどおしであるという類似性が必要です。
ですから、こういう違う職業の人物の比較は、
意味の無い比較と言うことになります。
しかし、無意味な比較であっても、
このヴェイナチャクの前に出てくる強い表出力と、
石内都の後ろに引く様なネガティブな差を、見てみる事は、
石内都の写真のネガティブな性格を確認する意味では無意味だけとは
言えないものを持っていると、私は思います。
そして後で触れる様に、ワインの批評家というのも、
根底では実は、芸術に関連しているものなのです。
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ヴェイナチャクの一家は、彼が3歳のとき、
当時はまだソ連だったベラルーシから米国に移住した。
一家は貧しかったが、80年代初頭に父親が酒屋を開店。
ヴェイナチャクは飲酒が許される年齢に達する前からワイン通になり、
客にワインを薦めるようになっていたという。
自身が気に入ったワインを紹介した
『ゲイリー・ヴェイナチャクが選ぶ101のワイン』(未邦訳)は、
アマゾンの「フード&ドリンク」部門の売り上げ1位になったこともある。
これは「気取った奴らによるワイン界の支配」を終わらせるために書いたのだとか。
インディペンデント(UK)
インディペンデント(UK)
芸術の善し悪しを判断することを趣味判断と言います。
趣味判断は、実は食べ物を、美味しいか、まずいか判断するところから、
始まりました。
18世紀のヨーロッパでは、世界に植民地をつくって、
世界中から珍しい食べ物が入って来たので、
貴族たちは、これを食べて、感想を言い合ったのです。
ですからこの18世紀のグローバリゼーションが、
グルメの質を変えて、趣味判断を成立させたのです。
ですので良い趣味をグットティストといい、
悪い趣味をバットテイストと言います。
これが転じて、美術作品の善し悪しも、
論じられる様になったのです。
このワイン評論家の出現も、
ですから、美術批評に連動する面を持っているのです。
食べてまずそうな作品は、バットテイストなのです。
石内都の作品は、食べて見ると、まずいのです。
なにしろ私と石内都、本名藤倉陽子は、1967年からの付き合いです。
作品は、初期の織物から見て来ているのです。
映画も見ています。
どれも特有にザックリしていて、汚い。
このバットティストが、評価の軸なのでしょうね。
私には、正直いって、何が良いのか分かりません。
本来なら初期作品を見るのが私の方法ですが、
今回は赤いワイン色の作品を見てみたいと思います。
昔とは、違う写真に展開して来ているのです。
《想像界》の眼で《21流》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント
液体写真、《想像界》の写真
《気晴らしアート》《ローアート》
薔薇の花の方には、荒木経惟の後期の花の影響が見られます。
石内都は、荒木経惟と親しかった時期がありますし,
荒木経惟は花に絵の具をぶっかけたり、ペインティングして
撮影した作品があります。
口紅の写真は、
いわゆる、ブツドリの写真ですが、
私の眼には、少なくともこの程度のデザイン的な写真しか撮れない写真家が、
日本を代表する偉大な写真家であるとは思えないのです。
しかし石内都の写真を評価する人は多いのです。
ただし写真の専門家では無い人が多いように思います。
写真的には石内都の写真は、いわゆる玄人の写真ではありません。
石内都は、多摩美術大学の織科の出身です。
素人写真の延長なのです。
写真教育を受けた人が、
このレベルの写真を評価するのはむずかしいのです。
しかし素人の時代であり、
素人写真の延長が悪いわけではありません。
率直にワインを評するヴェイナチャクが、芸術評論家であったなら、有名な石内都の写真を、どのように評価するでしょうか? 私のように酷評するのでしょうか? それとも逆で、絶賛するのでしょうか?
石内都も私も、その内に、自然の摂理で死にます。
石内都と私の2人の死後に、もう一度,彼女の写真作品の善し悪しを論じてもらいたいものです。
作家の死は、評価を変えることがあるのです。
芸術というのは、作家の死後に初めて、
真の評価の法廷に立つと言えます。
死後に輝きを増す作品と、
死後に輝きを落とす作品があるのです。
死は、芸術評論家なのです。
2008-11-24 01:54
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