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複雑系の絵画理論(2) [アート論]

ようやく旅行から帰って来たので、
いつもの、画像の接着をしてみます。

エジプト/写本.jpg
良く似ている平面的なイラストに見えます。
《類縁性》という概念でくくれば、ともに平面絵画であると、同一視することも出来ます。

しかし、ずいぶんと、違います。
似て非なるものなのです。

おそらく、多くの人は、写本画の方が好きなのだろうと思います。

実は、写本画は、私も若い時から惹かれていて、
ずいぶん見て来ています。

エジプト画と比べると、
「きちんとしている」さまが違います。

多くの人は、きちんとしていると杓子定規で気楽ではないので、
「きちんとしている」ものを嫌います。

しかし芸術というのものは、「きちんとしている」ものなのです。
これは良いものをたくさん見てくると、
共通性格として、「きちんとしている」ということがあることが、
分かります。

その意味で、エジプト美術は、芸術の一つの原型を示すお手本であります。
大変にキチンとしているからです。

ニョーヨーク近代美術館の代表的なキュレーターであったウィリアム・ルービンが、
エジプト美術の研究者から出て来た現代美術の学芸員であったということも、
その辺からきています。

ともあれ、エジプト美術は、非常に奥の深い芸術性を示しています。

さて、これをモノクロで見てみます。

エジプト/写本グレー1.jpg

モノクロで見ると、
背景の感覚が、似て非なるものであることが分かります。
背景の色も違いますが、それだけでなくて、
背景と図の関係が、違うのです。

エジプト画では、背景は、人物の後ろにきちんと、背後のものとしてあります。
これが、彦坂理論では、《透視画面》と言っている画面です。
オプティカル・イリュージョンが成立しています。

Egypt_Through_Other_Eyes_Sig_335-1.jpg
こうした浅い空間構造の絵画であっても、
きちんとした,前後関係が描き出されていることで、
オプティカル・イリュージョンが成立しているのです。

エジプト画に《透視画面》の絵画構造を見いだすというのは、
実は、かなり非常識な主張でして、
多くの方々の同意を得られないだろうと思います。
それは、ある範囲までは私も知っていて、
それでもなお、そう主張する根拠があると思っています。

つまり、彦坂の主張は、
グリンバーグを代表として語られて来た「平面」というものが、
実は、2種類あったというものなのです。
一つが《透視画面》であり、もう一つが《原始平面》であったのです。

人類は、その歴史の中で、
2種類の平面を持って来ているのであって、
それは《類縁性》によって同一化して見えますが、
その差異によって、似て非なる2種類の絵画を作り出して来ているのです。
私はこの差異を重視する立場を取っているのです。

そしてこの視点から、
今までにない、精緻な芸術分析が可能であると、しているのです。

モダニズムの中には,この2種類の質が混在していたのですが、
それを同一視する事で、混乱をまねいていたと言うのが,
彦坂の発見なのです。

エジプト/写本グレー1.jpg

さて、写本画を見てみます。
ところが、写本画では、背景が、人物を押しのける様に前に出て来てしまいます。
この空間が《原始平面》です。
子供が絵を、画用紙に描く様にして描かれた絵画が空間です。
これが、グリンバーグの言う「ペンキ絵」です。


さらにコントラストを高めてみます。

エジプト/写本グレー2.jpg

人物と背景の関係は、コントラストを強めると、なおさら明らかになります。

これで見ても、《原始平面》の写本の方が面白く感じる人が、
多くいると思いますが、こういう面白さが、
ペンキ絵の面白さです。

お風呂やの富士山の絵が面白く感じるという、ああいうものがペンキ絵です。
第6次元の自然領域の面白さなのです。
それは直接的で、野蛮な面白さです。
野蛮なものは、下品で面白いのです。

それに対して、背景が、人物の後ろにきちんと位置づけられているエジプト画は、
きちんと、し過ぎていて面白みに欠けると言えますが、
こうした秩序の有る絵画が空間が、《透視画面》の絵画空間なのです。
これが第1次元の文明的理性領域の絵画構造です。

エジプト/写本.jpg

一見すると、同じ様な平面的な絵なのですが、
その背景との関係から見える絵画構造は、全く違っていて、

エジプト画が、《透視画面》で、第1次元の文明的理性領域の絵画であり、

写本画が、《原始平面》の、第6次元の自然領域の絵画であるのです。

そして重要な事は、エジプト画の後に、写本画が出現すると言う事です。
言い換えると、第1次元の文明的理性領域の成立の後に、
第6次元の自然領域の野蛮な美術が出現するのです。

文明の中に、野蛮が出現してくるという順番が重要なのです。
つまり、美術の歴史が、必ずしも進歩するのではなくて、
時間がたつと、むしろ退化して、野蛮が出現して来て、
その直接的な面白さが、人々を魅了するのです。
しかし、その第6次元の自然領域も、実は行き止まりであって、
それ以上の展開は出来ません。

彦坂が主張している基本は、
こうした2種類の絵画があって、基本的な差異の構造があるという事実です。

第1次元の《透視画面》の絵画と、
第6次元の《原始平面》の絵画と、
2種類があるのです。

基本的には、この2種類を両方ともに、評価していく事が重要です。
しかし敗戦後の日本は、
敗戦ボケをして、野蛮に回帰してしまい、
第6次元の《原始平面》の美術ばかりを評価する社会になってしまったのです。
これに対して、彦坂が異議を唱えているのです。

さて、次に、ポロックと、白髪一雄を見てみましょう。
これも画像を接着してみます。

ポロック/白髪.jpg

ここでもポロックの絵画は、《透視画面》で、
オプティカル・イリュージョンが成立しています。
奥への深みがあります。

それに対して白髪の絵画は、《原始平面》で、
ペンキ絵なのです。
ペチャとしていて、そして息苦しい。

白髪の作品が、赤い絵であると、違いすぎるので、
もう少し、ポロックに似ているものに代えてみます。

34b601feec71473937fb4655a2f73fb5.jpg
この作品は、大阪の国立国際美術館が持っている『天雄星豹子頭』という作品です。

白髪一雄の絵画は、1枚だけ見ていると迫力があるように見えます。

しかし白髪の個展を3回見ると、深い疑問がわいて来ます。
どれもこれも同じに見えることと、
それに下品です。
長く見ていると飽きるのです。
芸術作品としては、低いものです。


この作品とポロックを接着してみます。

ポロック白髪2.jpg

ポロックの方が、弱くて、奥に対する深みがあります。
この感覚がオプティカル・イリュージョンです。

それに対して白髪一雄の作品の方が、迫力があて、
良い作品であると思う日本人が多いと思います。
それは、芸術観が、原始的で野蛮だからです。
白髪の作品にある息苦しさは、悪い作品の特徴なのです。

彦坂尚嘉の芸術分析では、
ポロックのこの作品は《1流》のオプティカル・イリュージョンの絵画ですが、
白髪のこの作品は《6流》の《原始平面》絵画であって、ペンキ絵なのです。
白髪は、ずいぶんと落ちるのです。

つまり白髪の迫力は、ペンキ絵の野蛮さの迫力なのです。
そしてペンキ絵の息苦しさなのです。

敗戦後の日本人は、敗戦ボケで、
風呂屋のペンキ絵のような、白髪の絵画の方が、
ポロックよりも良いと感じる、下品な感性の人が多くいるのです。

下品な人間には、上品な芸術は理解できません。
それは下品であるということは、野蛮であると言う事だからです。
野蛮な人間には、文明の高等性が分からないのです。

さて、その辺も含めて、もう少し丁寧に見て行きましょう。
まず、モノクロにしてみます。

ポロック白髪2グレー.jpg
ポロックの方が、複雑さが、感じられます。

コントラストを上げてみます。

ポロック白髪2グレー2.jpg

ポロックと、白髪の差は、まだ充分には見えて来ません。

さらにコントラストを上げてみます。

ポロック白髪2グレー3.jpg

ここまで来ると、
ポロックと白髪の差が、少し出て来ます。

さらに上げてみます。

ポロック白髪2グレー4.jpg

白髪の作品が、団子になってしまって、単純であることが分かります。
それに対して、ポロックの絵画が構造は、複雑なものであることが、
分かります。

そしてポロックの絵画は、奥があって、向こう側を感じさせます。
これが芸術の重要な所なのです。
現在の「超ひも理論」で言えば、私達の生きる4次元世界の向こう側に、
5次元や、6次元の世界があると言われていますが、
そういう、向こう側への入り口として、芸術の空間性があるのです。
つまり超越性ですが、これが芸術の要諦です。

しかし白髪一雄の作品には、そうした超越性は無くて、
この世の現世での迫力だけに固執しているのです。
下品と言う意味は、そういう現世への固執だけだからです。

白髪一雄は、実は、そういう自分の芸術の限界を感じていたように、
私には思えます。
実際、彼は描けなくなります。

この描くなくなった時期が、
いつなのかは、正確な時期を、私は確定していません。
後の専門家の調査に待ちたいと思います。

とにかく、白髪一雄は、仏門の入ります。
1971年比叡山延暦寺で得度します。つまり坊主になったのです。

仏門に入った1971年というのは、微妙な年です。
前年の1970年には、大阪万国博があって、白髪も参加していた具体は、
大規模なお祭り騒ぎで参加しています。
そして、その後、金銭問題もあって仲間割れします。
1971年に、白髪が仏門に入るのは、そうした具体の崩壊と関係があるのだと、
私には思えます。万博は、具体の墓場になったのです。
そして翌年の1972年に、リーダーの吉原治良は死にます。
吉原治良が死ぬと、具体は解散になるのです。

その彼を励まして、
再度、足で描く作品を継続させたのが、東京画廊です。
この励ましをしたのが、東京画廊の初代社長の山本孝なのか、
あるいは番頭であった松本氏なのか、私には確定できません。

番頭の松本氏が、斉藤義重氏や白髪一雄といった、
東京画廊の重要な作家を占有して独立していったこと。
そして山本孝氏が、東京画廊から、経営責任を問われて追放されたらしいことなど、
良く分からない東京画廊の内部の確執が、外部からも、
少し見えたからです。

ともあれ、白髪一雄という作家を問題にするとき、
この仏門に入ったいう事実と、
そして、白髪がもともと日本画の出身であったという事実は重要です。



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そして、もう一つ、
彦坂の《言語判定法》による芸術分析ですと、
白髪の絵画は、固体美術である事です。
つまり前ー近代美術なのです。

固体美術というのも、彦坂独特の用語なのですが、
H2Oという水の比喩で、時代区分を語っているのです。
前近代の時代は、氷の時代で、氷河のようにゆっくりと流れる歴史の時代でした。
それが産業革命が起きると、温度が上がって、氷河は溶けて、水になって、
川になって流れる様になり、そのスピードは上がって、速くなる。
さらに、それは海に入って、沸騰し、水蒸気になって、気体分子になる。

こうした沸騰の時代を予見した絵画として、
ポロックのドリッピング絵画があったのです。
つまりポロックの絵画は、気体絵画なのです。

jackson_pollock800.jpg
水が沸騰して、水蒸気になって行く様な絵画です。

ポロックには、《超1流》の作品が多くあります。
それは初期の具象画からあって、私は、むしろ初期具象画にポロックの本質を見ます。
過渡期の中期の絵画に大変にすぐれていて、《超1流》の作品があります。
ドリッピングになって、上に掲載した作品は《超1流》ですが、
しかし《1流》のドリッピン絵画もたくさんあって、
ポロックの本領を理解するのには、見分ける眼が必要です。

グリンバーグが評価したポロックの最良のドリッピング絵画は
五尋の深み(1947)(ニューヨーク近代美術館)です。

JacksonPollock-Full-Fathom-Five-1947-1.jpg
スチームの部屋の中の様な、水蒸気の溢れかえる世界です。
この作品は、たいへんにすぐれたものですが、

多くの日本人には、理解できないだろうと、私は思います。
このポロック理解の問題は、別の機会に語ることにして、
ここで問題にしたいのは、白髪一雄や、堂本 尚郎といった、
日本の画家との差異の問題です。

堂本 尚郎もまた、日本画出身で、アンフォルメルの画家になった人物です。

S0071029.jpg
堂本 尚郎の作品も、まるでターナーの絵画の抽象版のようで、
気体状態を描いている様に見えます。

この作品と、ポロックを並べて見ます。

堂本JacksonPollock.jpg
一見すると、両方ともに、スチームのような、気体状態を描いている様に見えます。
はたしてそうなのかどうか、モノクロにしてみます。

堂本JacksonPollockグレー1.jpg

これでも、差異は良く分からないので、コントラストを上げてみます。

堂本JacksonPollockグレー2.jpg

こうすると、両方の絵画構造の差が、見えて来ます。
さらにコントラストを上げてみます。

堂本JacksonPollockグレー3.jpg堂本JacksonPollockグレー4.jpg

ここまで来ると、まったく違う構造の絵画であることが分かります。
堂本 尚郎の作品は、縦に2分割があって、
これは西洋遠近画法の水平線のよる画面の2分割を、90度回転させて、
縦の分割にした構造をしています。
ポロックのオールオーバーのネットの様な構造とは、まったく違う絵画なのです。

彦坂の《言語判定法》で芸術分析をすると、
堂本 尚郎の作品は、固体美術であって、
実は、アンフォルメルの作品との類縁性をもちながら、
前近代絵画に押し戻したものなのです。

固体美術という意味は、氷河のように、凍っているびじゅつです。
一見すると流動的なのですが、
堂本 尚郎の絵画は、凍りついている絵画なのです。
そのことは画像からも分かります。
ポロックの水蒸気のような絵画と、もう一度見比べて下さい。

堂本JacksonPollock.jpg
絵の中に、手を入れる事をイメージして、
絵画の温度を感じて欲しいのですが、堂本 尚郎の絵画は、凍てついています。

このことは、白髪一雄にも言えて、
彼の絵画は、前近代絵画であり、固体美術なのです。
一見したところ流動的ですが、凍てついて、止まっています。

ポロック白髪2.jpg
ポロックの方が、絵画の中が絶え間なく動いているのですが、
白髪の作品は、凍てついて止まってしまっています。
動き続けてはいません。

彦坂の考えでは、近代美術というのは液体美術で、
現代美術と言うのは、気体美術なのですが、
それらの作品に良く似た類縁性を持ちながら、
日本人のそれらは、固体美術で、前近代美術なのです。

《類縁性》という視点で見れば、白髪一雄の作品は、
気体化したポロックのドリッピング絵画と同一の時代の作品なのですが、
しかし絵画構造的には、固体美術で、
しかも《第6次元》の自然領域の原始平面であり、
似て非なるものなのです。
だからこそ、白髪一雄は、仏門に入って,前近代に回帰したのです。
そしてまた、題名もまた『天雄星豹子頭』といった、
前近代性をあらわにしたものなのです。


こうして、日本の中で、現代美術や、現代アートをやる事のむずかしさが
あぶり出されて来ます。
《類縁性》だけで同一のものとして見れば、
日本は、過激な現代美術を展開した様に見えますが、
実は、「現代」の名のもとに、前近代へと回帰する《退化性》において、
美術を制作して来ているのです。

そこには、異様なほどの野蛮礼賛があって、
《第6次元》の自然領域の原始平面への、依拠があります。
しかもこうした性格は、敗戦後の日本美術だけの特質であって、
戦前には、《1流》や《超1流》の作品がたくさんあって,
《第1次元》を、なによりも重視した文化があったのです。

もう、そろそろ、敗戦ボケから脱却しても良いのではないのか?
というのが、彦坂尚嘉の主張なのです。

さて、《第1次元》の絵画と、《第6次元》絵画の差を見る事は,
実は、もっと奥が深いのです。

そこには文明的理性領域と、自然領域の、抑圧関係と、開放関係のドラマの構造があって、
文化の多様性を作り出しているのです。
これを、次回は、ストライプの絵画を通して見てみます。



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symplexus

前回のコメントの中でのQ,今回の丁寧な展開で良く理解できました.
平面絵画という中に実は二種類がある,原始平面とそうでないもの
がそれだというのはコロンブスの卵です.指摘されれば当然なのに,
それを明確な意識の上に言葉として出来ないでいました.世界を
深く観るか浅く観るかという分岐点を絵画の見方にまで敷衍するなら,
平面という形式を深く観る必要が有ったということです.
 そこからさらに戦後日本の抽象画の代表作とも言われてきた白髪,堂本
両氏の作品をとりあげ,絵画空間としての特性から古い人間像をあぶりだす,
謎がとけていくような驚きの連続です.

 ところで僕自身はグリンバーグの評論の有効性に依然として強く魅かれる
一人です.それは”モダニズムの芸術は,間隙も断絶も無く過去から発展
しているのであり,どこで終わろうとも,常に必ず芸術の連続性という点から
理解されよう.(グリーンバーグ評論選集,藤枝晃雄訳,p72)”という徹底した
歴史擁護の立場に立ち,絵画の救済としてのアバンギャルドの必然性を誰よりも深く
理解していたと思うからです.
by symplexus (2009-01-04 11:15) 

ヒコ

symplexus 様
 いつも、コメントありがとうございます。
 グリンバーグに対する批判は、もっともな面も、多くあると思います。しかし、どれほどすぐれた《超1流》の思想家でも、必ず欠点はあるのです。そしてまたインチキであると言えるものです。
 ジャック・ラカンの方法は、フロイトに対して、丸ごと肯定して,個人崇拝の道を選んだ事です。フロイトを丸ごと肯定した時に、フロイトの科学者としての傑出した透徹性が現れます。安易なフロイト批判は、全く誰にでもできる事であって、そういう安易な批判に溺れていては、現実を透徹してみるフロイトは、見えなくなってしまうのです。個人崇拝という、一見非合理な方法が、実はすぐれている方法であることを、ラカンは明らかにしたのです。
 グリンバーグに関しても、同様のことが言えます。グリンバーグの欠点をあげつらうことは、確かに出来ますが、それでは、モダンアートそのものを推進しえた、グリンバーグの思想そのものの価値が見えなくなります。グリンバーグの論文は、良く書けていると思います。
 同様のことは、彦坂尚嘉にも言えて、彦坂理論の欠点や、異様さを批判する事は、簡単にできる事です。今回書いた《透視画面》という一つの用語で、中国絵画を説明は出来ても、実はエジプト絵画を説明する事は、普通の学問的な手続きでは、無理というべき所はあります。それを知っていてもなお、《透視画面》で語ろうとするのは、東洋芸術=中国芸術の基本は、書にあるからです。書の芸術としての構造を、平面/画面論として切り分けるためには、この《透視画面》と言う用語の、拡大解釈が必要なのです。つまり《透視画面》という用語は、彦坂尚嘉に於いては拡大解釈されています。
by ヒコ (2009-01-04 11:37) 

na

素晴らしい文章ですね。
芸術鑑賞の道は深く険しいものと改めて認識いたしました。これからも何度もブログや著書を読み返させていただきます。

それにしてもよく語られる一般的芸術論とは、毎回一線を画しますね、驚きます。違いすぎていてそれでいいのか、と思うのです。そしてここまで常識から外れるとバッシングされる意味もよくわかります。一回目読んだ時にはまるで新興宗教のような胡散臭さが漂っているように感じられたのですから!
しかしそれも誤解で、何度も根気強く読み、今まで書かれてきた古今東西の芸術論と同等に扱い、一歩引いて見つめると、書かれている一貫性と正当性には驚きます。
尊敬の念がつきません。

自分も日本現代美術の野蛮さを喜ぶ精神には首をもたげておりました。
馬鹿みたいだとよく思ったものです。しかしそう思う心は間違ってはいなかったのですね、嬉しいです。

ストライプの絵画を使った絵画論には期待させていただきます、
怪我や病気に気をつけ頑張ってください。


by na (2009-01-04 13:42) 

ヒコ

na様
励ましの言葉、ありがとうございます。
 日本の現代美術の常識が、根拠の弱い先入観に過ぎないように思います。
 前にも書きましたが、私自身は、小学校1年生から、日展の故/清原啓一先生に高校の最後まで師事して来ています。中学2年生で、講談社版世界美術全集と、日本近代絵画全集を買っています。東京国立博物館に中学生から通って、国宝重文を眼で暗記して来た人間です。理論的には東大美学の今道友信氏や、藤枝晃雄氏から大きな影響を受けて来ています。美学的な大枠は、現象学研究会をやっていたこともあって、現象学系の美学の枠組みと方法です。
 美学者の谷川渥氏や、美術史家の富井玲子さんからは、「彦坂はオーソドックス」だと言われているのであって、そういう意味で美術美学的な常識の中で育って来た人間です。
 しかし、あくまでも美術家であって、美術家としての批評性であり、美術家としての歴史性です。美術史を見れば、ギリシアの昔から美術家は文章を書き、歴史を論じて来ているのです。
 そういう私だから、保守反動であるとする批判には、正当性があるとは思いますが、私のもう一人の先生は刀根康尚氏でありまして、ジョン・ケージやフルクサスの方法の中から私は現代美術家としてデビューしてきているのです。
 1994年からブログの時代であると言われますが、ブログの時代だからこそ可能な、一人美術雑誌を展開できて、しかもnaさんをはじめとして、読んで下さる方々がいて、それが励みで書けて来ています。みなさまには、深く感謝しています。
by ヒコ (2009-01-05 01:29) 

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