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紺泉と中川晋介、ステラ/辛美沙(下)[加筆校正6] [アート論]


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想像界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》《ハイアート》
シニフィアン(記号表現)の作品

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 中川晋介さんについては、良くは知らない。先日の第13回アートスタ
ディーズを聞いて下さって、2次会にも出席してくれた。
 そこで、この自分の制作した封筒を、見せてくれて、「彦坂さんだった
らデザインというでしょうね?」というから、芸術分析をして,「そんなこ
とはありません。《超1流》ですよ」と答えた。
 こういう封筒で、どうみても常識的にはデザインワークにしか見えない
ものを、このように《超次元》の《真性の芸術》として評価して、しかも
《シリアス・アート》で《ハイアート》であるとなどと言うと、人聞きが
悪いというか、信用を失うこと確実で、世間体を気にすれば、言わない方
が良いと言うことになる。国宝級の名品だけを語っていれば良いのだ。

こういう社会的な常識で見るという事が《第1次元》の領域の視界です。
常識で見れば、中川晋介の封筒は、封筒であって、芸術ではない。

《第1次元》の世界が、【常識の広がり/シニフィエの連合】です。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

話を、このブログの(上)で説明したことを繰り返す事から、
始めます。

つまりビールであるBièreのシニフィエの類似性からは、

Vin(ワイン)、Whisky (ウイスキー)、Cognac(コニャック)など

を連想するのが、【常識の広がり/シニフィエの連合】です。

こういうタイプの類似性が、常識を形成しています。

この領域では、ですから言葉というものが常識的に決定されています。
ビールに対しては、ビールという言葉が対応するだけ、と言えるほどに
単純化されるのです。

それは抑圧であると言えます。
無意識的な《詩的》な連想が、抑圧されているのです。

ビールと言う言葉を聞いて、「」を思ってはいけないのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

つまり【詩的領域/シニフィアンの連鎖】を、抑圧しているのです。

フランス語のビールであるBièreという言葉は、

シニフィアンの類似からは、

Bière(棺)、pierre(石)、tieres(第3者)と連鎖し得るのですが、

こうした【詩的領域/シニフィアンの連鎖】を、

社会的理性であり常識世界である《第1次元》領域は、抑圧している。

【常識の広がり/シニフィエの連合】だけで、《詩的言語》を排除する
のが、社会的理性であり、常識なのです。

ですから、この《第1次元》の世界で、美術批評を成立させようと
すると、すでに有る批評を模倣した文章になるという、
そういう連鎖になります。

たとえば李 禹煥はすばらしい作家であるという批評が成立していると、
次に批評を書く人は、既成の批評を疑わずに、
同じ様に、李 禹煥は、素晴らしい作家であると書くのです。

3番目の人も、無批判に、疑う事を知らずに、
同じ様に、李 禹煥は素晴らしい作家であると、書くのです。

こうした模倣の連鎖が、無限に、疑いも、検証もなしに続くのです。
ですから、退屈な文章の連鎖になり、批評無き、日本の現代美術世界
が成立するのです。

近代哲学では、すべてのものを懐疑するというのが基本的な方法です。
ところが、この《第1次元》では、哲学の方法が使えなくなるのです。
疑うのではなくて、社会常識を信じて繰り返すことだけが、
正しい事になるからです。こうして社会は閉じるのです。

哲学無き日本の現代アートの世界は、同義反復の空虚な世界であり、
退屈なのです! そして閉鎖している。

せいぜい、この常識を極限まで増大いさせる事が目指されます。
それがチンポムであったのかもしれません。チンポムが破綻したのには
こうした同義反復のメカニズムが無関係ではなかったと、私は思います。
チンポムと会田誠氏が、困って針生一郎氏のところに相談に行ったそ
うです。「日本の現代美術は10年遅れている」と批判したチンポムが、
会田誠氏と、老いた美術評論家連盟会長に相談しに行く所が、なんとも
同義反復的な自己撞着した閉鎖性を示しています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【常識の広がり/シニフィエの連合】だけで、芸術を考えるというのは、
普通に行われています。そこには懐疑がないし、検証がないのです。
それが1991年から2000年代の現代アートの熱狂と金融と結びついた
バブル化を作り出して来たのです。この1991年以降のアート状況を、
アートインダストリアルと呼んで、次のような本が書かれています。


アートフェア東京のエグゼクティブ・ディレクター 辛美沙氏の
著作『アート・インダストリー/究極のコモディティーを求めて
(美学出版)です。
副題の「コモディティ化」とは、「商品」の意です。芸術作品を、
一般消費財のように安く手に入れられ日用品化するという意味で用いら
れます。つまり芸術作品が、商品化して、誰でも簡単に買えるように
るということです

そういう意味では中川晋介の封筒も、誰でも買えものです。  事実、三月
末まで渋谷の和カフェ kurage で、販売しています。 

つまり 中川晋介の封筒は、「コモディティ化」されていて、現代アート
のトレンドに上に乗っているのです。いや、もしかすると、「コモディ
ティ化」されているものをアートと、考えているのかもしれません。
そうした時代に、本質的になったのです。

この本『アート・インダストリー/究極のコモディティーを求めて』は、
なかなか笑える本です。とえば、
「アートマケットのないところに美術史など存在しない」と言うのです。

「アートマケットのないところに美術史など存在しない」と言うのなら、
まずアルタミラの洞窟画も美術史から削除しなければならないだろうし、
現在においても、アートマーケットに組み込まれない所で描かれている
作品は、美術史に、永遠に記述されないことになります。

ところが美術史というものは、そういうものではないのです。美術市場
に入っていない作家の作品でも、すぐれた芸術性の作品であれば、将来
美術史的な評価は起きえるのです。たとえば、江戸時代に江戸の商品世
界の外の、北海道の山奥の洞窟に、捨てる様に置かれていた円空の仏像
群は、美術史の中に入ってきたのです。

同様にして1990年代美術史は、再発見されて記述され得るのです。
1950年代の美術史も書き直しは行い得るのです。さらには20世紀日本
美術史は、再記述される必要があるのです。美術史は、何よりも学問で
あって、学問そのものは、あくまでも市場の外に存在します。

このことは重要です。現在の様に、市場があらゆる所に、割り込んでも
なお、《市場の外部》は存在するのです。美術史は、《市場の外部
存在するのです。そして実は、市場は、《市場の外部によって実は支
えられているのです。外部性を失ったとしたら、それは崩壊します。
現在起きている金融危機の根本的原因は、そこにあります。

「アートマケットのないところに美術史など存在しない」という、
市場の外部を見ない、こういう不用意な発言をする人の精神は、
信用はできませんが、現在の美術界の《第1次元》性を、良く示して
はいるのです。この著者・辛美沙氏の顔を見てみましょう。
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辛美沙の顔
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的人物
《象徴界》の眼で《第21次元》のデザイン的人物
《現実界》の眼で《第7次元》の《真性のビジネス人》

《想像界》の人物、気体人間。
《気晴らしアート的人物》
《ローアート的人物》
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こういう風に、顔の分析をすると、《第7次元》というのはビジネス
領域ですが、ここでは《真性のビジネス人》で、辛美沙氏は、ビジネス
面に限れば、すぐれている方だと思います。

《想像界》の《第6次元》は自然領域ですので、普通の人と言うべき
人物です。

《象徴界》というのは、モラルの領域ですが、《第21次元》というの
は、ドブ泥の人生の欲の世界です。金銭欲や愛欲、名声欲、地位欲など、
さまざまな人間のどぶ泥の欲望が、強い方なのかもしれません。

《真性のビジネス人》として辛美沙氏は、
ビジネスにすぐれている人だろうと私は判断しますが、
しかしこういう人に、美術史が分かるのでしょうか?
美術史を真に理解しない人が、「アートマケットのないところに
美術史など存在しない」などという軽率な発言で、人々を惑わせるという
のは、いかがなものかと、思います。

言い換えると、このような軽薄な発言の上に、
つい、この前までの、アートバブルは乗っていたのです。

辛美沙氏は、
美術作品が「値下がりして喜ぶものはだれもいない」というのですが、
これも不用意の発言であって、私は、たとえば、
李 禹煥の作品が、暴落しているのを聞いて、喜んでいます。
中国現代絵画の値下がりの報道を聞いても喜んでいます。

芸術的にすぐれていない作品が値下がりして、関係者が損をして
痛い目にあうことを喜んでいる人は、実はたくさんいるのです。
人数的には、かなりの人々が、「それ見た事か!」と、
喜んでいるのです。
あんな、安易な作品で、億もするのは、おかしいと、
誰もが感じていたのです。
あんな《第21次元》の下品なデザイン画が、億もするのは、
おかしいと、多くの人が思っていたのです。

しかし、どれほど暴落しても、ゼロにはなりません。
評価も、消えるものではありません。
美術史と言うのは、玉石混合で、不純に多様に、続くのです。

辛美沙氏には、しかし、そうした《市場の外部》の現実が見えない
視野狭窄があるから、
「値下がりして喜ぶものはだれもいない」などという能天気な
戯れ言を、著書の中に書くのです。
市場の外部が見えていないのです。
こういう馬鹿げたアートインダストリーワールドを
苦々しく思っていた多くの人々が、見えていなかったのです。
こういう辛美沙氏的な偏狭な視野が、《第1次元》の領域です。

この《第1次元》という領域だけに、住んでいる人たちがいます。
この人たちを研究して書かれた本が、
アメリカの偉大な精神科医のM・スコット・ベックの著作です。
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【続きは下をクリックして下さい】
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《想像界》の眼で《超次元》の《真性の人物》
《象徴界》の眼で《超次元》の《真性の人物》
《現実界》の眼で《超次元》の《真性の人物》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人格
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な人格

《シリアスな人格》《ハイアート的人格》
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『PEOPLE OF THE LIE』と言う本は、
人間の《自己愛》性人格障害、
つまり過度のナルシズムがどのような虚偽と邪悪を生み出すかを、
追跡しています
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日本で出版されたのは1996年で、
ベストセラーになっています。

この『PEOPLE OF THE LIE』の世界が《第1次元》の領域です。
では《第1次元》に住む人々は、どのような人格なのでしょうか。

●どんな町にも住んでいる、ごく普通の人。
●自分には欠点がないと思い込んでいる。
●異常に意思が強い。
●罪悪感や自責の念に耐えることを絶対的に拒否する。
●他者をエスケープゴートにして、責任の転嫁をする。
●体面や世間体のためには人並み以上の努力をする。
●他人に善人だと思われることを強く望む。

こういう人々が《第1次元》の領域をつくっているのです。
こういう人々が、実は社会をつくっていて、
その数は、最大で考えれば80%の人々である可能性があります。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
こういう《第1次元》の人々が、
たとえば、幼い天才歌手・美空ひばりを、のど自慢で失格にし、
そして「ばけものだ!」と弾圧したのです。

美空ひばりを、擁護し守ったのが、
山口組3代目の田岡 一雄であたことが、
この《第1次元》領域の《常識という暴力》に徹底抗戦する領域のありようの
一端を見せるのです。

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田岡 一雄の顔
《想像界》の眼で《第31次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《超次元》の《真性の人格》
《現実界》の眼で《第31次元》の《真性の人格》

《現実界》の人格。固体の人。
《気晴らし的人格》《ローアート的人格》
《平気でうそをつく人》
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
田岡 一雄は、《真性の人格》ではありますが、しかし彼もまた、
《平気でうそをつく人》であるのです。
つまり《第1次元》の反転した倒錯領域が《第31次元》であって、
犯罪領域なのです。山口組は暴力団なのですから。

つまり逆に言えば,《第31次元》というヤクザの犯罪領域が、
反転して倒錯した領域が《第1次元》の社会的理性世界なのです。
だから《第1次元》という社会の建前の世界は、
仮面をかぶった犯罪領域であり、仮面をかぶった暴力団の世界なのです。

繰り返します。
つまり社会理性領域である《第1次元》と言うのは、《平気でうそをつく
人》たちの世界であり、仮面をかぶった暴力団組織の世界なのです。

たとえば、現在の経済危機を考えて下さい。いま首になって、職を失っ
て路頭に迷い、自殺へと追い立てられている人々には、この金融危機を
まねいた責任は、どこにも無いのです。責任の無い人に、犠牲が押し付
けられて、自殺するのは、自己責任であるという、かってな自己責任論
が押し付けられる。これが正しい事なのでしょうか。

会社の経営者こそが、責任があるのであって、多くの利益を上げて来た
トヨタ自動車の、その蓄積してきた利益をそのままにして、派遣労働者
の首が切られるという事態は、他者をエスケープゴートにして、責任の
転嫁をするということです。企業が、仮面をかぶった暴力団であるとい
いうことにほかなりません。

社会理性というものが、仮面をかぶった暴力団であると言う事は、それ
は、遠く、人類が農業を始めて定着して、戦争をする事で巨大社会を形
成してきた古代文明社会の成立までに遡(さかのぼ)るものです。

そこには他者を暴力で屈服させ、社会秩序を法として成立させ、その成
立もまた暴力を背景にして可能にしたという、そういう巨大社会の出自
の根源的な犯罪性と暴力性が、隠蔽されているのです。

だがしかし、だからといって社会的理性世界を、憎むことは、しないで
ください。社会的理性のもつ虚偽と邪悪さという罪を憎んでも、この罪
人の組織である社会を愛する必要があるのです。社会はかならず、是正
して行きます。この是正の可能性に働きかけて、社会正義を回復し、
《第1次元》の社会的理性領域を肯定して行くという、社会理性の擁護
の立ち位置が必要なのです。

《第1次元》の社会的罪を憎んで、しかし罪である社会を愛する必要が
あるのです。ここに芸術の成立する秘密があります。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
社会自体が錯綜性の中で成立し、そしてまた社会と個人の関係も、複雑
に錯綜し、大げさな言い方ですが、ですから《第1次元》の領域では、
中川晋介の作品は、芸術ではないことになりますが、だからこそ、だか
らこそ、中川晋介の作品が、《真性の芸術》として、成立してくるので
す。つまり、【詩的領域/シニフィアンの連鎖】の視界の中では、芸術
としても語りえるのです。

私は、大きなリスクを賭けても、この中川晋介の作品を、《超次元》の
《真性の芸術》と言うのです。それが私の《言語判定法》での芸術分析
の結果だからですが、大きな前提としてあるのは、鑑賞芸術と実用美術
の分離が、17世紀くらいからであると考えて来ていて、その分離の時代
が終わって、再度の統合の時代になったと考えているからです。ですか
ら、芸術とデザインの区別は無くなったと思っています。実用性をもつ
ものでも、充分に芸術になり得ると考えるのです。


芸術というのは、実は、《第1次元》の社会的理性領域の罪を憎んで、
しかし仮面をかぶるニセの正当性を肯定しつつ、しかしそこからはみ出
した、抑圧された領域に依拠する活動だからです。

何重にも、折れ曲がり、錯綜した複雑な欲望と解放と、絶望と希望と、
虚無と救いの、複雑系の入れ子構造なのです。

紺中川.jpg
紺泉と並べても、紺がシニフィエ(記号内容)作品であるのに対して、
中川の作品は、シニフィアン(記号表現)であるので、芸術としては、
上なのです。
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紺泉と、中川晋介の作品のレイアウトの手法は、
上のステラの作品のレイアウトの手法を似ています。
stella紺泉.jpg
stella紺泉3.jpg
紺泉の方が、《透視画面》で、ステラの《原始平面》よりも、
すぐれているはずですが、紺がシニフィエで、ステラがシニフィアンということも
あって、優劣が、今一分かりにくいところがあります。

中川晋介ステラ.jpg
中川晋介              ステラ
想像界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》 《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン
《象徴界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》 《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン
《現実界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》 《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン

《透視画面》の作品              《原始平面》の作品
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
中川晋介ステラ2.jpg

モノクロにすると、なおさら、中川の作品が《透視画面》で、
ステラの作品が、《原始平面》であることが、分かります。

しかし、作家と言うものは、
生き物です。
そして芸術は、逃げ水のように、消えて行きます。

才能のある作家は、夏草の様に、生えて来ますが、
成長して、大木になる者は、極めて少ないのです。

作家の寿命は、普通は5年、正味3年で、凡庸へと、
転落して行きます。

中川晋介氏の、精進を望みます。

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コメント 2

丈

大変読み応えがありました。
「平気で嘘をつく人達」というのは
自分に嘘をつく人達なのですね。
by (2009-01-29 16:20) 

中川晋介

分析ありがとうございました。

 商品化というのは、意識しています。作品は、自分の手を離れて第三者の意見を知るところまでいって、次の段階が見えてくると思っているので、商品化はその一環で行っています。もちろん、作品が売れてその利益が次の作品の予算等になる事も望んでいます。

 一点質問させていただきたいのですが、「気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現」というのは、私が絵巻物や浮世絵にある「間」(私が言いたいのは「何も描いていないが隙間ではなく空間があること」)を意識している事、昔からある方法を踏まえて描いてある事と関連が有るのでしょうか?勘違いした質問ならすみませんでした。


 それと、和カフェkurage へのリンクが、kurageを紹介してる個人のブログのアドレスになっていると思われますので、下記のアドレスのほうをおすすめします。

http://www.jellyfish.bz/shop/tokyo/kurage/kurage.html


 

by 中川晋介 (2009-01-29 17:11) 

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