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禅宗と岡本太郎【禅の2】(加筆1校正1) [アート論]

岡本白隠.jpg

禅と美術や書の関係は、
必ずしも一つではなくて、
多様なので、結論を急ぐ事は出来ません。

その中で、白隠は、特異性を示しています。
この特異性と、岡本太郎の特異性が、
同質性を持っているのです。
これをお話ししたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ウイリアムズさんは、次のように書いていました。

白隠さんは日本の禅の中興の祖とまで言われる方で 
書も異常なまでの迫力に満ちています。
原始平面の6流と分析されてはおりますが 
禅定力というものは最高レベルではないかと個人的に思っております。

白隠というのは、1686〜1769年の人。
江戸中期の禅僧です。

jyoko_rinzai01.jpg

臨済宗中興の祖と言われ、名僧という評価の高い人です。

ウイリアムズさんが言っている様に、白隠の書も、絵画も、
異常な迫力を持っています。
私も興味をもって、追いかけたことがあります。

白隠の初期は、普通の絵画であり、書でありますが、
それが、歳を取るに従って、異様な力を帯びて来ます。

これは何なのでしょうか?

雪舟と並べてみます。

雪舟白隠.jpg
雪舟の達磨             白隠の達磨
《想像界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》 《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン
《象徴界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》 《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン
《現実界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》 《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ 《現実界》の美術
               重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ   絶対零度の美術
              多層的な表現

《シリアス・アート》《ハイアート》     《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィアン(記号表現)の作品        シニフィエ(記号内容)の作品
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
芸術分析の結果は、自分でも驚くほどのものでありました。
白隠の絵画は、デザイン的エンターテイメントであり、
《気晴らしアート》であり、《ローアート》であったばかりか、
シニフィエの作品であったのです。
そういう意味では奈良美智の絵と同じであり、極めて現代的な作品と
言えるものです。

もっとも、白隠の絵を、デザインであるなどという彦坂の分析を見れば
怒る人もいると思うし、同意しない人も、多いとは思います。

その場合、雪舟という、これも禅僧であり、
評価の高い画家との、印象の違う絵画の差を、どのように説明するのか
という問題が残ります。

彦坂の説明は、白隠が奈良美智の絵と同様なシニフィエの美術であり、
脳内リアリティの直接的な表出である事を指摘します。
このことを含めて、一貫性のある説明になっているのです。
《言語判定法》による測定は、今までにない認識を切り開いていると、
自負いたします。

ネットで探すと、白隠の晩年の絵や、お団子を串刺しにしたような
書は、見つけられませんでした。

ウイリアムズさんは、次のように書いています。

彦坂様は禅思想を評価しておられないと思いますが このあたりについて考えをお聞かせください。
また禅僧として名高い白隠さんの絵画が六流であるのは 白隠さん自体が六流人間だったのかが気になります。白隠さんは禅僧の世界では評価が高いので..
深い悟りを開いていたはずと思っているのです。
禅僧の顔の評価とも合わせてご意見を伺えたらありがたいです。
もし禅僧の顔が一流なのに禅籍は6流になるとしたらこれはどういう事なのかが気になるところです 


まず、私は禅思想を評価していないわけではありません。
そうではなくて、禅というのは、《象徴界》を否定して、
《現実界》に還元しているだけだと考えているのです。

有名な「狗子仏性(くしぶっしょう)」という公案があります。
白隠が、重視した公案です。

「狗子に還って仏性有りや無しや」(大意:にも仏性があるでしょうか?)

趙州和尚は答えた。

「無」


《絶対的な無》への還元というのは、

人間の《象徴界》の精神を《現実界》にだけ還元して、

究極の真理に達したとする考えです。


言語の否定です。

同時にそれは無意識の否定なのです。

なぜなら、言語というのは無意識だからです。

禅は、不立文字を原則として、本質的に言語での思考を否定して、

「教外別伝」という、禅の先生の人格をまるごと弟子につたえること

を重視します。直伝の考え方で、その辺はラカンの精神分析にも

あって、ラカンから教育分析を受けた者だけが、真の意味で、

ラカン系の精神分析医になります。


建築界には、「教外別伝」というような言い方は無いにしろ、

徒弟制度的な教育方法は、実質的に生きています。


禅僧による《象徴界》の否定による《現実界》への超出の結果、

そこに出現する《無》とか《空》というのは、

実はそれほど高級な物ではなくて、

実は、普通の《青空》のようなものなのです。

それは宮本武蔵の五輪書の視点なのですが、

「雲ひとつない青空」が、《空》です。


《空》が究極性を示している様に見えたのは、

人間の精神が、次のような経緯をへて、展開するからです。


《想像界》→《象徴界》→《現実界》


つまり幼児が《想像界》に生きているのに対して、

その《想像界》を否定して、

去勢して《象徴界》に転移するのが、

大人になる事であったのです。

その言語の世界である大人の世界を、

再度否定して、《現実界》に達する事が、

禅宗が考えた悟りでありました。

人間精神の成長の究極の姿と、思われたのです。


ウイリアムズさんは、次の様にコメントをくださっています。


質問をさせていただいたウィリアムズです。丁寧に解説をしていただきありがとうございます。私は一年ほど前から 円覚寺系の在家の禅宗の団体に通っている者です。法の系列としましては 釈宗演老師の弟子の一人である釈宗活老師の法嗣の立田英山の流れになります。夏目漱石が「門」という小説で書いたモデルが宗演と宗活と言われています。禅に触れて一年そこそこであり、まだまだ理解が浅い身でありますが 日頃から疑問に思う事もあり違う角度から意見を言っていただける事を望んでおります。日本では禅は高尚な世界とされている事が多いと思います。また禅を学ぶ人間は室町時代からはじまり現代まで非常に多いと思います。現代では有名どころと言うならば、京セラの稲森和夫さんや巨人軍の川上哲治元監督などかなと思います。

人格形成の手段としてよく禅が挙げられる事もあります。実際に修してみて 確かに禅をやっている人々は一般の基準からしたらはるかに厳しくストイックな部分はあるかと思います。個人差はありますが、まず目付きが鋭くきつい人が多い印象があります。釈宗演の顔写真を見ても分かりますように 「獣が獲物を狙うかのような目付き」と私の友人や先輩は思っております。公案体系を使った参禅入室は非常に厳しく半分ノイローゼ状態になりながら修行をしていきます。論理的に考えて公案の解は出ませんし 体で理解する事が求められます。あるドイツ人の住職曰く「赤ちゃん帰り 馬鹿になりきる修行」などと言ったりします。そのあたりを考えてみますと 原始状態に戻って行くのですから 自然に獣のような雰囲気になっていくかと思います。


《想像界》を否定して《象徴界》に至り、

さらにそれを否定して《現実界》の精神を切り開いて、

3界をもつ重層的な人格にいたるということは、

素晴らしい事です。

しかし《現実界》にだけ、還元して単純化した人格を作り出す

ことに対しては、その魅力は認めますが、

原理的に、私は、承諾しない価値観です。


《現実界》だけに還元した精神を獲得すれば、

確かに、《想像界》が持っている妄想的な迷いを克服し、

さらに無意識の言語世界への耽溺も否定しますから、

そうした精神の贅肉性そぎ落として、

骨格だけのような単純さに至ことはできます。


人間の精神の3界は、相互否定の関係ですから、

おのおのがブレーキとなって、あらゆる状態の抑制を可能に

するはずのものです。

それは同時に、難しい操作であるとも言えます。

ですから《現実界》だけに単純化することは、

問題を簡単にして、明快になりますが、

同時にブレーキを欠いた暴走する自動車の様なものなのです。


白隠の絵画や、書は、

彦坂の私見で言えば、

それは自然採取時代の原始美術へと回帰しています。

それが絶対零度の美術です。

《第6次元》の中でも、極点的な原始への回帰です。

そういう意味で、白隠の精神は、

文明以前の原始に回帰するものであったと私は思います。


ですから、白隠の絵画や書は、

アフリカの黒人彫刻のようなものなのです。

アフリカ白隠.jpg            

《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン          《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン        《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン        《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン

《現実界》の美術                                            《現実界》の美術             
絶対零度の美術                                             絶対零度の美術
            
《気晴らしアート》《ローアート》      《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィエ(記号内容)の作品         シニフィエ(記号内容)の作品

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


こういう回帰の運動を、実は、私たちは、

現代美術の歴史として見て来たのです。

岡本太郎の重工業という作品です。

岡本白隠.jpg

《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン          《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン        《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン        《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン

《現実界》の美術                                            《現実界》の美術             
絶対零度の美術                                             絶対零度の美術
            
《気晴らしアート》《ローアート》      《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィエ(記号内容)の作品         シニフィエ(記号内容)の作品
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

つまり岡本太郎と白隠は、同一性があり、
さらにアフリカの黒人彫刻も、同一性があるのです。
この3者は、原始の絶対零度の美術なのです。

太郎白隠アフリカ.jpg

【下をクリックして下さい】

狩猟採取の野蛮時代の絶対零度に回帰するということが、
《退化》なのか、高度なものへの達成なのか?
そういう判断が、必要とされるのです。

私は、こうした絶対零度への還元を、
評価しないのです。

そこには、確かに野蛮と言える自然の世界が広がります。
それは一つの回答ではあります。
人間の精神の高みの放棄なのです。
そうして、文明から野蛮へ回帰することで、
人間の文化は、循環することになります。
ニーチェの言った永劫回帰が、ここで実現していると言えます。

ならば再度、こうした日本的禅の絶対零度を否定して、
再度文明的な高度な知性に向かうべきではないのか?

禅僧の顔と、双葉山の顔を比較してみましょう。
禅双葉.jpg
釈宗演しゃく そうえんの顔      双葉山の顔
《想像界》の眼で《第6次元》の《真性の人格》《想像界》の眼で《超次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《第6次元》の《真性の人格》《象徴界》の眼で《超次元》の《真性の人格》
《現実界》の眼で《第6次元》の《真性の人格》《現実界》の眼で《超次元》の《真性の人格》

《現実界》の人格    《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人格
固体人間         気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な人格

《シリアス人間》《ハイアート的人間》    《シリアス人間》《ハイアート的人間》

シニフィアン(記号表現)的人間。         シニフィアン(記号表現)的人間
『真実の人』                             『真実の人』

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
双葉山については、大相撲大麻事件の4人の人相分析」というブログ
で、書きました。

釈宗演しゃく そうえんの顔については、「禅宗とパンク【1】」で
書きました。

双葉山の理想とした、木鶏というのは、生きている闘鶏ですが、
それが静かで、動かない。まるで木で作られた彫刻のような姿である
というものでした。

双葉山の精神の到達した高みを、彦坂流に解釈すれば、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界を相互にブレーキを利かせると、
不動の精神に至と言う事です。

不動性自体は、表面的に模倣しても面白いものではありませんが、
人間の精神の到達しうる高さの最後の姿として、
双葉山の顔は、仏像の顔になっているのです。

私は、伝統的な悟りの境地というのを、
こうして《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもった精神の
相互ブレーキが生み出す不動の中に見ます。

それが解脱であると理解します。

そんなものに何の意味がある!として、
禅僧なら双葉山を、崖から蹴落とそうとするでしょうが、
双葉山を蹴落とせる禅僧はいないでしょう。

確かに、双葉山の不動の境地に、何の意味があるか、
理解は出来ませんが、そこを目指す以外に、
伝統的には、人間の精神を成長させる事ができないと、
考えます。

こうした伝統性が、
情報革命をへた今日の社会の中で意味を持ちうるのでしょうか?

かつてあった、金とドルの兌換の時代は終わり、
そして1ドル360円の固定相場制も終わった後の時代の、
このペーパーマネーの金融危機の不安定な中で、
精神の不動性など、何の意味も無いのかもしれません。

もはや不動性は失われて無いからこそ、
今日、双葉山の示した《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ
相互ブレーキがかけられた精神の不動性は、
大きな基準になる様に、私には見えます。

不安定な時代であるからこそ、
もはや失われた精神の不動性が目指される。

同様の事が言えます。
もはや、今日の高度消費社会の、過度の市場の中に、
《真性の芸術》は存在しないのです。
だからこそ、《真性の芸術》が目指される。

過去にはあった、今は失われた《真性の芸術》の姿にこそ、
今を生きる人生の意味構成を可能にする美術の存在があるのです。

私は、
現在のカオスを生き、旅行し続けるすべを、
この喪失した過去の中に見いだすのです。

それが《歴史的理性》です。

 









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ウィリアムズ

こんばんわ。ウィリアムズです。非常に詳しく解説していただきありがとうございます。私が禅の関係 宗教に対する生き方もいろいろと探っていくのに参考になりました。
私自身 禅で救われた感がありましたのですが禅の考え方や禅をやっている方々に対して疑問や違和感もありました。 真言宗やキリスト教、チベット仏教についてもいろいろと興味はありますが、まだまだ入口にいるかと思います。こういう問題を考えてみる機会は私自身にとって非常にありがたい事でした。まだまだ初学の段階にいる私に彦坂様がこのように丁寧に解説していただけるとは思っておりませんでしたので嬉しく思います。今後もblogを楽しみにしております。
by ウィリアムズ (2009-02-10 22:57) 

ヒコ

こちらこそ、良い質問ありがとうございます。
by ヒコ (2009-02-12 01:22) 

西天庵主

お邪魔します。「岡本太郎&禅」で検索していて辿りつきました。

岡本太郎が好きで、いろいろと著作・作品を見ていますが、太
郎さんの著作には佛教に通じるところが多いような気がします。
例えば「自分の中に毒を持て」では

  「瞬間瞬間に新しく生まれかわって運命をひらくのだ。」

などという表現がありますし、同書の中では禅僧を前に講演を
頼まれたエピソードを挙げ

  「ぼくは臨済禅師のあの言葉(引用注:「道で仏に逢えば、仏
  を殺せ」)も、実は「仏」とはいうが即己であり、すべての運命、
  宇宙の全責任を背負った彼自身を殺すのだ、と弁証的jに解
  釈したい。禅の真髄として、そうでなくてはならないと思う。」

と書いています。佛教の因縁浅からぬ岡本かの子を母に持った
ことが原因なのか、結果的に佛教の教えるところと同じようなと
ころに至ったのか・・・。私にはわかりません。
by 西天庵主 (2009-09-05 10:40) 

ヒコ

西天庵主 様
仏教の基本は、インドの初期仏典の中にあります。禅は、中国でうまれたもので、実は仏教を否定しているのです。
ですので、禅をもって仏教とする考えは、実は正確ではないと、私は考えます。
私自身も、中学生から岡本太郎の「今日の芸術」(カッパブックス)から始まってたくさん読んで来ましたが、成長してくると、岡本太郎の思想は、インチキであると言う事が分かって来ました。ですので,申し訳ありませんが、岡本太郎は、今日では評価できないのです。

by ヒコ (2009-09-24 22:00) 

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