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《言語判定法》について(加筆2) [アート論]

NO NAMEさんからの、コメントのご批判に次のようなものがあります。

写真による心理分析がどれだけ正確にわかるかは占いに近い様な物の程度でしょうか?

まず、基本で申しあげると、
私はNO NAMEさんを、説得する気持ちはないのです。
それは論点が、大きく違うからです。

それは、人間はひとりひとり、驚くほどに迷信にとらわれていて、
話は、通じないのです。

私は多くの人と、現実に議論をして来ました。
私の学生時代は、全共闘時代ですので、
議論は、政治セクトとからの論争する事でした。

民青(日本民主青年同盟)
反帝学評(社青同解放派・反帝学生評議会
ブント(共産主義者同盟
4トロ(日本革命的共産主義者同盟/第四インターナショナル日本支部

それと、エホバの証人、原理運動(世界基督教統一神霊協会 

私が彼らに論争を挑んだのではなくて、
勧誘されて、
それに反論をしていたのであって、
彼らと、戦わざるを得なかったのです。

たくさんの人と議論をしてくると、
話せばわかる、などと言う事が無い事が分かります。
人は、話しでも、お互いに理解し合えないものなのです。

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私自身が、おしゃべりの性もありますが、
私は多くの人と、話して来ています。

そこで分かって来たことは、
視野が異常に狭い人が、多い。
8割の人は、異常に視野が狭くて、
なによりも現実をみる事を避けています。

美術作品の鑑賞もそうなのですが、
作品をきちんと見られない。
展示やインスタレーションが理解できない。
そういう人が、多いです。

現実を、現実として見る事は、
実は、やさしく無いのです。
多くの人は、現実を直視しすることから逃げるのです。

もちろん、
自分自身に帰ってくる事で、あります。
私自身は、少なくとも、現実から逃げている自分を
ある程度ですが自覚はしているのです。

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NO NAMEさんからの、ご批判に戻ると、
私は、《言語判定法》と言う方法を使っているのであって、
それは美術作品を作る時に、実際に活用しています。

NO NAMEさんの言う、占いと言う方法は、
たとえば中国の占いには易経があります。
これは、ある種のチャンスオペレーションです。
実際ジョンケージの音楽に使われています。
ですので、『易経』は読んではいます。
易を立てる事も出来ます。

私の《言語判定法》については、
一度ブログで書いています。

それを見ていただきたく思いますが、
易経』とは、方法が、まったく違います。

《言語判定法》は、美術だけでなくて、
文芸批評にも使っているし、
映画、たとえば押井守の作品でも使っている。

ファッションや、建築の分析にも、つかっている。

非常に多様な使用をしているのであって、
それは「写真による心理分析」ではないのです。

山口百恵のブログで、詳しく書いていますが、
私は人の顔を、一枚の絵画のように芸術分析をしているだけなのです。

「《言語判定法》による芸術分析」というのが、
私の、このブログでやっている事なのです。

同じ視点で、原子力空母の芸術分析をするし、
ラーメンの味も、芸術分析をしているのです。

ところがNO NAMEさんは、視野狭窄の人で、
私のブログの多様性を無視するのです。

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この視野狭窄の根源は、蛸壺にこもっている、
《自己愛》性のものであると、私は思います。

美術界には、実はこうした蛸壺にこもったままの、
《自己愛》性人格障害の人が、非常に大量にいるのです。

この人たちをどうするのか?

そっと、しておく方が良いのです。

彼らは、蛸壺にこもっているので、
安全なのです。
何もしません。
そっとしておけば、
それで良いのです。

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さて、私は野球のバッターの様なもので、
《言語判定法》という方法で、
いろいろなものを芸術分析をして行きますが、
これは一人の人間のやっている事なのです。

人間と言うのは、実は神ではないのです。
神は、全知全能ですが、
人間は、不完全です。

私は人間ですから、不完全です。
野球のバッターが、10割を打てなくて、
最大でも4割、実際には2〜3割を打つのが、
せいぜいなのです。

私の《言語判定法》も、
間違いをする可能性は、当然のようにあります。

その責任を取ると言う意味で、
私は自分の名前を出していますし、
間違いがあれば、そのときに出来ることは、
謝罪や訂正を含めて、して行きます。

ですから、目指すのは10割の適中ですが、
しかし3割程度でも成果があって、
今までに無いかたちで芸術分析がされて、
芸術批評が、進展できれば、良いと考えます。

あらゆる目利きは、不完全です。

すべての哲学者は、実は間違いがあります。

私が《超1流》と言っていた《超次元》の人でも、
間違いはするのです。
ただ《超次元》の人は、視野が広いのです。


人間は、不完全なのです。
それをおびえない事が、重要です。

ですから、大切な事は、
実名で、責任をとって、執筆する事なのです。


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NO NAMEで書いていけない事はありませんが、
しかし責任を取らないと言う事の意味を理解して下さい。

日本の役人は責任を取りません。

責任を取らないと言う事は、何なのか?

精神異常者は、人を殺しても、その責任を問われません。
それは精神異常者には、主体がないからです。
「精神鑑定の結果、責任能力なし」とされます。

同様なことが、役人に言えます。
かれらは責任能力がないのですから、
それは精神異常者の様なものなのです。

同様に、NO NAMEで書く事は、
精神異常者の様なものなのです。
責任能力がない人であると言う事を、
自分で言っているからです。

責任を取りたく無ければ、取らなければ良いのです。
ですから、匿名で書けば良いのですが、
しかし、匿名で書いている人には、
見えない事があると言う事です。

責任主体が、見る眼差しと、
責任能力の無い人が、世界を見る眼差しは、違うのです。


タグ:言語判定法
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