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美術品の2つの価格とその構造(改題校正1) [アート論]

コメント欄に次の様なご質問が来ましたので、
お答えします。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
彦坂さま

貴重な話題をありがとうございます。

> 価格は、本人は嫌になるほど安いから、

彦坂さまの、この言葉から作品の値段は作家が決めているのではないということを感じました。
ギャラリー側が、大体の値段(いくら以上で)として出品し、オークションで値段が吊り上げられていくという方法になっていくのでしょうか。
製作をした作家本人が「本人は嫌になるほど安い」と思っても、ギャラリー側に苦情というか注文はできない立場なのでしょうか。
作家さんも、購入する方も話し合って、納得のいく形での交渉と言うわけには行かないのかなと思いました。ま、もっともオークションでは作品が順番に見せられて売られていくわけですから、話し合いをして時間をかけて・・・という場所ではないのでしょうが。
その辺の彦坂さまの心情を少しお聞かせ願えると嬉しいのですが。(^^ 
by じゃむ (2009-03-15 03:54)  


じゃむ様ご質問ありがとうございます。
作品の価格と言うのは、分かりやすく言えば2つあります。

一つがプライマリー価格です。
つまり最初の新作を売る時の定価です。

もう一つが、セカンドリーマケット、つまりオークションや交換会
などの価格です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まず、プライマリー・プライスについて説明します。
この定価をどのように決めるのか?

ルネッサンスの時に、材料や手間の時間数では値段を決めないということが、確立します。つまり材料費や手間で価格を決めるのは工芸であって、芸術作品は、芸術的な価値によって値段が決まるということになるのです。

そうすると芸術的な価値は、どのようにして、誰が決めるのかという、むずかしい問題が出て来ます。ここで、批評や趣味判断と言う問題が登場するのです。何を良しとするかという芸術論が重要なものとなります。

そうすると新しい価値観に基づく新しい芸術論が登場してくると、新しい芸術を擁護し、そして認めない古い芸術観と論争をするということが、ヨーロッパで繰り返し起きるようになります。それを『新旧論争』といて、この繰り返しが、ヨーロッパ芸術の歴史を作ります。

日本では、こうした芸術的な価値で価格を決めるのが、
何処からはじまったのか?

一つは室町時代の室町幕府の財政政策の中での、
美術品の売買と市場化です。

足利義政は、「東山御物」と呼ばれた室町幕府所蔵の美術品を、

オークションにかけて希望者に買い取らせたり、

市場に放出して、お金に換えるようになります。

この過程で、美術品の価値が、

材料費や手間賃とは別のものに、移行します。


それをより明確にしたのが、

千利休でありました。

利休は堺の商人で、同時に茶道の確立者ですが、

それだけでなくて、美術品の価値を自分で決定し、

非常に高額な価格につり上げます。

つまり芸術を見る目利きが、価格を決定できる構造を作りだしたのです。

 

『開運!なんでも鑑定団』のような鑑定性の源流は、千利休にあるとも、

低俗な言い方ではありますが、あり得ない事ではないのです。

つまり価格が材料費や手間ではなくて、

精密性、歴史性、希少性などのその付加価値を含む芸術性によって、

決定されるようになるのです。


つまり作品の価格と言うのは、

付加価値の領域のものなのです。

価値の分からない人には、価格は付けられないのです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


さて、それでも新作の定価の実際の決定は、
実は完売の事実にあります。

作品の個展をやって、完全に売れるという完売になると、
次の個展から作品の定価を上げます。
こうして出来てくる新作の定価が、プライマリー・プライスです。

完売すると値段を上げられるという意見は、
ニューヨークでも、ニューヨークタイムスの新聞記事でも読みました。
日本でもそうですが、一応の同意できる共通の常識と言えます。

つまり価格そのものは、急に上げられるものではなくて、
積み上げられて成立します。

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プライマリー・プライスとは別のもう一つの価格があります。
それがオークションでの価格です。

オークションの価格は、
中古品の市場であって、
セカンドリーマッケットなのです。

現在の金融危機で、価格は大幅に下落しています。

ニューズウイーク(2009/3/11号)の記事
『バブル散って蘇る現代アート』によると、
サザビーズとクリスティーズの多くション価格は、
1/3に暴落しています。
さらに落札されない作品が出品作品数の1/3に
なっているそうです。

昨年のマイアミビーチのアートバーゼルでも、
売れたにもかかわらず顧客から代金を回収できない
ギャラリーが少なく無いそうです。

ギャラリーの数も減り始めているとの事です。

調査会社アートタクティック社の発表している
「欧米アート市場信頼度指数」は、
昨年度5月から、信頼度56から、10に急落しているそうです。

つまり信用価値が、1/6になったのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
このニューズウイーク(2009/3/11号)の記事によると、


アンディ・ウォーホルから、美術市場の巨大化ははじまり、
1980年代のシュナーベルやサーレで、美術は巨大ビジネスになった。

私、彦坂尚嘉もこの時期、東京画廊を中心に完売を繰り返しています。
150号以上、大きいと500号の、大きな作品が売れて行くのですから、
良い事ではありますが、制作それ自身は大変です。

しかし1991年以降になると、根本的に時代は変わります。
ソビエトの崩壊は大きいことで、左翼系の後退は、
大きな地滑りとなります。
私自身も、追い落とされて行きます。

そしてこの時期、いわゆる「失われた10年」という、
経済の停滞期に日本だけが入り、完売で積み上げた価格は崩壊して
行ったのです。

つまりこの「失われた10年」という時期に、
1970年代、1980年代の多くの作家の価格は崩壊し、
市場性を失います。

それと1986年頃から、イギリスの広告代理店のサッチアンドサッチ
が、美術市場に参入した頃から、
モダンアートの美術が持っていた禁欲性が失われ、
全く違う美術市場性に変わるのです。
それがオークション先導の美術市場の登場です。
つまり、それまでのプライマリー画廊主導の時代が
終わったのです。

ニューヨークで言えば、レオ・キャステリ画廊の時代が終わって、
巨大なガゴシアン・ギャラリーの時代に移行します。

この変化に、日本の1980年代前半までのアーティストの多くは、
適応が出来なかったのではないでしょうか。
ですから、岡崎乾二郎や、中村一美、辰野登恵子戸谷成雄、
遠藤利克などは、今日までの美術市場性は、ほとんど無いに、
近いものがあります。

私は、1970年代アーティストでありますから、なおさら、
こうした変化にはついて行けないというか、理解できない変化で
ありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そうした中で、こういう市場性に乗って行けたのが、
草間弥生であり、李 禹煥でありました。
彼らの特徴は、もともと売り絵性を高く持っていた事です。

草間は、芸術の高みに向って成長するというようなタイプではなくて、
お金に異常に執着して、質の悪いものを大量に量産しました。
キッチュなシルクスクリーンの版画を、数カ所の工房で作っています。

お金への執着は、大変に強いものでした。
その頃の草間は、もう無くなってしまったフジテレビ
ギャラリーでしたが、そこの個展で売れ残った作品を、
アトリエにもって帰って、フジテレビには無断で某画廊に持ち込み、
価格を下げて、フジテレビのシールのついた作品を、フジテレビに
無断で安売りをしていたのです。
もちろん、シールがついているので、後に発覚して、フジテレビは
怒りました。草間には、そうした、異様なまでに販売にこだわって行く、
執着心がありました。

そして病院に入院しながらも、画廊主に手伝わせる事まで絵含めて、
アシスタントを使って、美術の量産性を
飽くなき追求をしていたのです。


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《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品、液体美術。

《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィエ(記号表現)の美術
原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】
実体的な美術(=エンターテイメント)
バーチャル・リアリズムの美術


【続きは下記をクリックして下さい】
何故に、草間は、時代を超えて、
1991年以降の新美術市場に対応できたのか?

量産を追求して来たと言うのが、
一つの理由ですが、
もう一つは、
草間の作品が、シニフィエ(記号内容)化していたということが
大きな理由であると、私は考えます。

つまり草間は情報化社会の芸術の基本基盤を持っていて、
物質文明の芸術ではなくて、
情報文明の芸術性を、草間は早くから持っていたのです。

彦坂尚嘉の芸術分析では、
このシニフィエ化という変化が、
この新しいインタネット時代の芸術の大きな特徴であると言う、
事になります。
シニフィエ化を理解できない作家は、淘汰されたのです。

(将来、揺り戻しが起きて、古い作品の再評価は起きるかもしれません。)


草間の作品が高騰し始めたのは、
それでも遅くて2002年以降で、
2007年10月頃に値段が下がり始めて、
業者の中では、パニックが始まります。

私自身は、直接のウオッチャーではなくて、
美術市場ウオチャーを、ウオッチングしている水準ですので、
細部の情報の精密度は低いですが、
しかしこの時期が、ちょうどアメリカの過剰消費の時期と
一致しているのです。

正確な数字ではないですが、0号の草間のカボチャが、
300万円を超えて、私の知り合いも、ほぼこの頂点に
近いところで買っています。
現在は暴落して、それこそ30万円くらいのはずですので、
おおざっぱには1/10になったのです。
300万円で買って、30万円に暴落すると、270万円の損失に
なります。


私は、その知人に電話をかけて、どうする気なのか、聞きましたが、
このまま持っているとの事でした。

コレクションの基本は、安い時に買って、
高くなったら売ると言うのが、基本ですが、
何故に、草間の一番高い時期に買って、ババを引いて、
多くのお金を失う道を選ぶのでしょうか?

その理由は、美術に限りませんが、市場と言うのは、
基本的に、理性では動いていなくて、
無知無能の愚かさの、盲目的衝動で動いているからです。
ですから、市場性は、芸術的評価とは、直結はしていないのです。

01.jpg
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品、固体美術(前-近代美術)

《気晴らしアート》《ハイアート》
シニフィエ(記号表現)の美術
原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】
実体的な美術(=エンターテイメント)
バーチャル・リアリズムの美術

李 禹煥という作家が、他のもの派の作家と違うのは、
まだデビュー以前から、作品を売って食べていた
売り絵のアーティストであったことです。

この頃に描かれた、梅の花の絵とかが、
市場には、今の流れていると聞きます。
私の見たのは、彩色された風景画で、李煥というサインが
ありました。
見せてくれたのは、在日朝鮮人のディーラーで、
日本で李 禹煥の作品を買って、韓国で高く売って、
巨万の富を得た人です。
もっとも、そのお金を韓国において来ていたために、
今回の金融危機の中で、ウオンが暴落し、
利益が大量に失われたと聞きました。
利益を守るのは、むずかしい事なのです。

李 禹煥がに初期に、団体展の所属して、絵を売っていたという、
この辺の事を調査したのは、
現代美術資料センターの笹木繁男氏で、
私は、彼から詳細聞きました。
それは新潟の美術館での李 禹煥の版画展のカタログに掲載される
との事でしたが、李 禹煥から拒否があって、
掲載が中止になったと聞きました。
李 禹煥の死後の情報公開を待つしかない状態です。

李 禹煥の売り絵の経験が、
もの派の中で、唯一市場性を獲得していったという、
その一つの理由ではあります。

さまざまな理由があると思いますが、
もう一つは、李 禹煥の作品が、固体美術、つまり
現代美術では無くて、前-近代美術であることで、
骨董性を持っていて、コレクターの保守性と、
鑑賞芸術本来が持っている、そうした骨董性に合致した。

さらには、シニフィエ(記号内容)の美術であって、
その奈良美智を先取りするかの様な、
シニフィエ(記号内容)性、つまり情報化社会の芸術の
薄さを持っていた事が、市場に息の残る大きな要素であったと、
彦坂尚嘉の芸術分析は示しているのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

さて、1991年以降の、新しい情報化社会の市場は、
新しい金融工学による、新金融商品を売り続けました。

その金融市場を支えたのが、サチャー/レーガンの
新自由主義であって、それは規制を緩和し、
市場を、ノーコントロールで、自然に任せたのです。

こうした規制をうしなった自然性の跋扈は、
ハイリスク・ハイリターンの過剰投資を生み、ブームになり
ました。

社会からは、《象徴界》的なものが消えて、暴走する自然性が
跋扈したのです。

そういう中では、自然領域である《第6次元》の美術が、
もてはやされました。

そして美術学校の卒業展示には、ギャラリーが群がり、
経験の無い美術家の青田買いが、はびこり、
実際に、高額になって行ったのです。

そういう風潮の中では、
実力のある中高年のアーティストは切り捨てられ、
価格は、事実上無くなって行ったのです。

美術の作品価格が、オークション主導になって、
オークションで高額であると、
それよりも低いプライマリー画廊の価格が歓迎されて、
画廊でも売れるという、メカニズムが作動したのです。

でずからオークションで、高額の作家は、
ギャラリーでも売れたのです。

そしてオークションで、切り捨てられた多くの中高年作家は、
画廊でも売れなくなって、
プライマリー価格は、破壊さされたのです。

この価格破壊は凄まじかったのです。

しかし、今起きているのは、
この逆転です。
オークションで、1億を超えた某作家の作品が、
900万円を割ると言う事態になると、
その作家の作品は、ギャラリーでも売れなくなるのです。

現在までの活況を呈して来た、
新興美術市場は、崩壊し、整理の時期になったのかも、
しれません。
整理には6年くらいかかるので、
何が淘汰されるのかは、
安易な予想は出来ない状態です。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

美術市場というものについて、
少しはご理解いただけたでしょうか。

美術市場は、ちょうど、自然のジャングルの様なものであって、
弱肉強食の無法地帯なのです。

この中で、サバイバルして作家を続けるのは、
ほとんど不可能な、むずかしい事なのです。

全人類の美術史の中で考えれば、
実は、美術家は、このような不可能な激動を、
何とか生き延びる努力をして、
展開して来ているのです。

いま、始まった事ではないのです。

私自身は、3回にわたる美術市場崩壊を見ています。

しかし、今回ほど激しい資本主義の崩壊を見るのは、
始めてです。

この作行きは、分かりません。

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コメント 8

丈

ご参考までに最近出版された無名時代のマーク・ロスコの著述から引用してみます。

「ロスコ /芸術家のリアリティ」より
(26〜27ページ)
「歴史上多くの芸術家は、社会的規範に忍従してきたというよりも、しばしばそれに挑戦し、周囲から突き放されてきたのである。

そしてまるで植物のように、芸術家は自らを破滅させかねない無数の出来事に日々囲まれている。

植物も芸術家も、生き延びるためには周囲からのこういった脅威に打ち克っていかねばならない。

生きのびるというのは、自己の属性の同一性を、その目的と役割を保持することである。(単に生活費を稼ぐという事ではない)

その意味で、芸術の歴史は、芸術を阻害するものを、それに勝る知力によって巧妙に出し抜いていく歴史でもある。

芸術は生きのびるために、一時的に進路をずらし、芸術ではない何かを装うこともあるだろう。

そうでなくても、芸術はその真の姿を隠すことが多い。そして好機とみるやこの変装を捨て去って本来あるべき姿を見せるのである。

芸術の固有性の生き残りが賭けられたこの闘争は極めて危険に満ちたものであり、しばしば絶滅の危機にさらされ、

それを切り抜けてきた芸術の物語は、いかなる冒険物語にも劣らないほどスリリングで、奇跡的な逃走の連続に満ちている。

生き残りを遂げようとする芸術の狡猾さと聡明さは、時にはオリエントの商人なみのものである。」




by (2009-03-15 23:10) 

ヒコ

丈様
ありがとうございます。
by ヒコ (2009-03-16 01:50) 

NO NAME

草間氏も李氏も生き残る執念はたいしたものだ。両氏に共通するのは建畠がいうところの「お花畑」の住人ではないことです。彼らから見えた同世代はなんとお気楽な人たちだったか。その心性は辰野、中村、戸谷まで続き終止符はムラカミの誕生まで待たなくてはなりませんでした。お金への執着や売り絵の話など本質的ではないということをもっと語らなくては。
by NO NAME (2009-03-16 09:19) 

縷衣香

 草間氏は体力をつけるために随分歩いて運動されていたとも読んだことがあり、むしろいい作品を作ることに不可欠な態度を行為的でしたが、コーネルさんと恋愛にもお金のことは著書ででてきます。コーネルさんも大変なケチだったとか。しかし、あんなに美しい作品ができるのですね。

 芸術家は本来、最も美しい仕事だと思います。
いい仕事をしっかりすれば、神様が支えてくれるし残っていくものだと思いますが。
 いずれにしてもこの大不況で健全化の道に軌道修正されると思います。
贋物は贋物の結果になるのはいたしかないと思います。

 個人的には李さんの作品には魂が触れないです。
草間さんは「可愛い」とかいう人気ではないでしょうか?
そして、〇〇病院はずいぶん高いそうです。病院側もあくどくて邪魔者は消せ的に〇〇病院に放り込まれている人達も多いと草間さんの「蟻の精神病院」而立書房に書いてありました。長い間、病者として排除されてきた習性で「生き残る」ことは最大の課題だったのではないでしょうか?そして、フリーダと等しく自分を諦めない生命力の一つの生き方として、私は金銭欲にも繋がったと思います。そういう生涯も含めて彼女は愛されるのだと思います。
 アーティストには物語が必要ですしね。

 しかし、この限界を超えたマネーゲームは終焉を迎え、これからは真逆な自己放棄的な本物のアーティストの時代になると思います。既に始まっている大きな地球浄化運動です。今まで沈黙を決めていた本物たちがいよいよ表に出てくるのではないでしょうか?
「お花畑」の住人と言う表現は素敵です。
本当に制作しているときの幸せだけでいいっていうところがありますよ!
売れるとか売れないとか、どう評価されるかとかはあまり関係ないですよ。
しかし、体力は必要ですよね。
by 縷衣香 (2009-03-16 13:26) 

らん

詳しく知らないので、勘違いでしたら申し訳ありません。
草間氏や村上氏のパトロンはロックフェラーだから価値が高騰した、というか吊り上げられた面はありませんか?ロックフェラー財団が何らかの形関わっているはずでしたが。パトロンに力があると商業的な価値も上がるのかな、なんて素人としては考えていました。
by らん (2009-03-17 05:48) 

じゃむ

彦坂さま
ありがとうございます。
感謝しながら読みました。
2つの価格と構造とありますが、その2つというのが非常に複雑に関わりあっているように思えました。
また勉強になりました。
さままざな環境の事情や身の事情があって美術大学やアート講座などを受けれない身の者には非常にありがたい講座だと思って読ませていただいていますので、このような貴重な話題の記事は本当に嬉しいです。
ただ美術を楽しむには「弱肉強食」ということなしに、楽しめると思いますが、やはり市場に出るということは「自然のジャングルの様なものであって、弱肉強食の無法地帯」だという彦坂さまの言葉から厳しさが十分にあらわれていると感じました。
世界的な経済不況の中、このような時代だからこそ改めて美術作品と作品価格について考えさせられます。

たとえば、依頼されて(お金のために、経済的に言う生活のために)作品を造る作家と、本当に造りたいという信念が溢れ出て売れる・売れないに関係なく造りたいから造るということで造っている作家の二人が私の目の前にいたら、私的には造りたいというエネルギーだけで造っている作家のほうに好感抱いてしまいます。
作家も一人の人間で、生活し、食べていかなければならないわけで、何かしらの形でお金が必要なわけです。
ですから、作品を売ってお金に換えるということは非常に理解できるのですが、それがいつの間にか「仕事、ビジネス」としてだけ、つまりは生活金が必要だから制作を続けていく作家の作品が、どんなに素晴らしく、どんなに高評価を一般的に得ていても、とても冷めてしまうのです。
「仕事、ビジネス」としてだけ、つまりは生活金が必要だから制作を続けていく作家という人は非常に売れている作家で、指名されることが多いということに成りますから非常にメデタイ話だとは、もちろん思いますが、その上での話です。
そんなことに拘らないで、気楽に美術を見て楽しみなさいという人も多くいることは、もっとも想像出来るのですが。
by じゃむ (2009-03-17 07:51) 

アートイベント

今、アートフェアーの勉強中で、大変参考になり、よくわかりました。すばらしいー
by アートイベント (2009-06-13 13:27) 

アートイベント

質問;美術品におけるROIとはなんでしょうか。
アメリカ人友人(元ビジネスマンでアートを好きで買っていました)が、artnet.comでオンライン画廊をはじめましたが、彼女の持っている中国系アメリカ人画家の絵を、中国の美術館がほとんどかいしめたので、この作家のROIの見込みなし、とうなだれていました。1年後artnet.comの支払いも高いので画廊の計画はながれてしまいました。今、絵も好きだけどROIを期待して購入した作品は、コレクションとして壁にかかっています。経済の本でROIの説明がしてありますが、このあたりの根本的な仕組みがよくわからないのですが。
by アートイベント (2009-06-17 08:54) 

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