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人生と芸術のむずかしさ [アート論]

From: hiko@ja2.so-net.ne.jp
Subject: 人生と芸術のむずかしさ
Date: 2007年9月29日 22:33:33:JST
To: KIHA@yahoogroups.jp

白濱 雅也さんと昨日話していたところ、
デュシャンと、ジャッドが分からないという話になって、
私は、絶句して、答えられなかった。

デュシャンが分からないというのは、
辻惟雄さんにもあって、
まあ、その気持ちが、分からないではないのだが、
しかし、それでも困ってしまう。

分からないから、
フィラデエルフィア美術館まで行って、
実物を見るというようなことをしていないのだと思うのである。

分からないことの大きな原因の一つは、
時間をかけていないことである。

時間をかけて、勉強し、
習うより、馴れろで、努力すれば、
かなり変化する。

しかし、そんな努力自体を、
そもそも、したくないわけで、
努力無しで、
分かろうというのは、
むずかしい。

それがジャッドになると、なおさら、困ってしまう。

清水誠一さんと話したのだが、
清水誠一さんもジャッドの評価は高くて、
私もジャッドは良い作家だと思っている。

ジャッドで良くないのは版画、
あの人の、平面作品は駄目である。

それと晩年の椅子は、
どうも良くないように思う。
なにしろ実物の椅子が、美術館に出てこなくて、
画像でしか見ていない。

しかしジャッドのメインの作品は、
非常に良いものであって、
それが分からないと言われると、かなり困る。

そもそもレオナルド・ダ・ヴィンチの作品とか、
ヴァンアイクの絵画とか、
宗達や、雪舟の仕事とかも、
分からないのではないのか?
という、疑いになる。

もっともジャッドが分からないのは、
何も白濱 雅也さんだけの問題ではなくて、
それこそ奈良美智さんも、分からないだろうし、
多くの美術家が分からないだろう。

そもそもで言えば、モンドリアンが分からないだろうし、
マーレヴィッチが、分からないだろう。

モンドリアンも、晩年の仕事は、
本物を見に行くのは、
フィラデルフィア美術館と、MOMAに限られている。
そういう努力をしていないだろう。

………………………………………………………………………………
白濱 雅也さんは、たいへんに優れている人で、
彼の好きなイラスト系の美術を、
メールとネット検索で、次々と見ながら、放浪する作業をしていて、

私の見てこなかった良い作品を、
たくさん教えられている。
彼の眼は優れている。

写真を見る眼にも言えて、
私よりも、良い眼を、写真に対しては持っていて、
教えられる経験が何度もある。

つまり白濱 雅也さんの好きな美術というのは、
具象系で、
イラスト系の優れた作品なのである。

白濱 雅也さんは、
根本的には〈想像界〉の人である。

《偶像崇拝の禁止》という、
人類史の中で、文明の最初にあった基本的な戒律を、
白濱 雅也さんは、受け入れていない。

つまり文化的には、子供で、
野蛮人である。

イメージというものを、禁止しないと、
〈象徴界〉は立ち現れないのだが、
それが、嫌で、拒否しているのである。

偶像崇拝を否定しないと、
聖書や、仏典や、イスラム教典も理解できない事になる。

つまり理解できないのはデュシャンや、ジャッドだけでなくて、
人類の文明の初期に作られた、
経典類も理解できないはずなのだ。

何故に聖書や、仏典が生まれたかと言えば、
人間が人生を生きていくのが苦しくて、
この苦しみを克服するために、
偶像崇拝の禁止という戒律が生まれ、
言葉による救済が図られた。

私の人生は、極めて不幸であったので、
聖書を読み、仏典を読んできて、
かろうじて生きてきたのである。

デュシャンも、ジャッドも同様のものであって、
生きるのが、苦しいから、
彼らの芸術が救いになる。

芸術は、宗教と同様に、
救いの問題である。

………………………………………………………………………………

美人さんの研究も同様であって、
ただ、官能性のある、天然の花のような〈1流〉美人は、
偶像であるかもしれないが、
この人生の、絶望の回答にはならない。

この愚劣な人生を超越する、
もう一つ《外》の美しさが、私には必要だ。

人生の《苦》と《無意味》性の、
《外》をかいま見せてくれる戦いが、
欲しいのだ。

ギャラリー手の杉山旭さんは、
「ヒコサカさん、死ねばおしまいですよ」
と言う。
一緒にイタリア旅行をしたときも、
私は教会を見つければで、蝋燭をかって、
死んだ子供の供養をしていくが、
同様の人々は、たくさんいる。

ボローニャの巨大教会の朝のミサに出ると、
パイプオルガンとコーラスの音が、
世界最大という教会建築の上から反響になって降りてくる。
「宗教ってすごいですね」と、さすがの杉山さんも言う。

死ねばおしまいになるのであれば、
人間の苦は、減るだろうが、
人類の文化というのは、
そういう風にはできてこなかった。

インカでは、死後もミイラにして、
死者とともに生きていた。
ミイラと一緒に食事をし、ミイラを連れて散歩をした。

人間は、死者と共に生きているのであって、
その事を忘れると、
教典の意味も、芸術の意味も、
理解することは出来ないのである。



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