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水平絵画と〈7流〉論 [日記]

2007年11月6日(火)

A様

On 2007/11/04, at 8:26, JapanTomii
>四国では、いろいろお世話になりました。

ニューヨークから来ていただいて、
深く感謝しています。

回顧展ですので、
今までの親しく長い付き合いの人で、
見に行ってくれない人は、
基本的に人間関係を切っていく方針です。

人間というのは、
20人くらいしか、
親しく付き合えないものですから、
よほど重要な人は別ですが、
行ってくれない人は、切っていく。

そして新しい人間関係に組み替えていく。
新陳代謝ですね。

今年中に単行本もでるので、
なおさら、地政学的にも変動が起きるので、
人間関係も再編していくつもりです。

>彦坂さんとと一緒に作品を見れて、よかったです。
>お時間をとっていただいてありがとうございました。

ありがとうございました。
初期の赤いウッドペインティングを、
時間をかけて見てくださって、良かったです。

ただ、モザイクのフロアイベントを、
ほとんど見てくださらないのには、失望しました。

もともとAさんは、
美術作品の足下を見ることを避けている所がある。
美術館の様なホワイト・キューブを、美術の基盤と考えておられる。

まったく、近代の文脈でしか、美術を見ない。
近代においても、実はモダンアートは、美術市場と密接に
関連して成立してきているのですが、
その事を見るのを避ける傾向がある。

それはAさんだけでなくて、
日本の美術関係者に多いのですが、
それが、何故に起きるのか?
と言うことは、興味深いです。

ビジネス領域というのは〈7流〉ですが、
どうも、この〈7流〉というのが、
世界の床を作っているらしいというのが、
最近の彦坂の到達した〈格〉づけ分析です。

私のアートの格付けでは〈超1流〉から〈41流〉まで42段階で、
トップの〈超1流〉と〈41流〉は対応して、
円環を形成しています。

〈超1流〉と〈41流〉
 〈1流〉と〈31流〉
 〈2流〉と〈21流〉
 〈3流〉と《11流》
 《4流》と《10流》
 《5流》と《9流》
 《6流》と《8流》
 
そして〈7流〉だけが、対応するものを持っていない。
 
〈7流〉というのが、ビジネスの領域です。
 
デザインで言うと、電車の週刊誌の吊革広告や、
ラーメンと大書しているような伝達だけの広告がありますが、
あれはモダンデザインというものでもないもので、
あれが〈7流〉です。

ブランドで言うと、ユニクロが、〈7流〉です。
こう見ると、
世界のフロア(床)ような基盤が〈7流〉というビジネス世界かもしれません。

デザインの〈7流〉が、
伝達機能に特化していることからも、
この世界の基盤性を指し示しています。

誤解されては困るのは、
42階層のアートの格付けの構造全体を見ながら、
この〈7流〉という領域の特異性、
つまり世界の床であるという事を見ないと、
彦坂尚嘉の視点の面白さが、見えなくなります。

Aさんお得意の3行の引用ねらいで、
〈7流〉のビジネス領域だけを切り離して、取り出しては
いけないのです。

Aさんの引用主義が駄目なのは、
部分でもって、全体を要約できると考えていることです。

それこそ、「モネは眼だ」といわれれば、
モネから、眼だけを切り取って、
さあ絵を描けと言っても、
眼だけでは、絵は描けないのです。
手も足もいるのです。

部分を切り取っては、駄目なのです。

総体を見なければ、
人間が向き合う総体は理解が出来ない。

哲学というのは、この総体を理解する言語世界です。
これを3行で切り取るのは、意味がないのです。

さて、そういうわけで、
私の美術家としての基本は、
この自分の立つ床を見つめると言うことにあります。

そういう中で、
床にビニールを敷いた1969年の作品が出てきます。

これは同時に、水平絵画の問題なのです。

絵画を垂直に壁に掛けてみると言うこと自体が、
疑われる必要があるからです。

歴史的には、
まずローマ帝国の美術の問題があります。
近代絵画に大きな影響を与えたのはポンペイの発掘であります。
「ポンペイの赤」と言われる鮮やかな色面の発見は、
実は印象派・フォーヴィズムから、ロスコー、
バーネット・ニューマンに至るまでの
大きな影響を与えます。

ですから、現代美術の画家は、ポンペイに行かなければ
近代絵画の本質が分からない。

それは建築家が、ギリシアのパルテノンを見に行く必要が
あるのに似ています。

さて、ポンペイに行くと驚かされるのは、
天然の色石によるモザイクの精密さと、
その美しさです。
ポンペイには、すばらしい床面のモザイク絵画という、
水平絵画があるのです。
そして、絵画の中を歩く。

絵画の中を歩くと言うことが、
極めて重要な、絵画理解なのです。

絵画というのは、実は水平であって、
歩くべきものではなかったのか?
という、本質的な、反省を現代画家に生じさせます。

実は、ヨーロッパの建築を見て歩くと、
この床面絵画の世界は、随分とあるのですね。

その中でも、さらに根本的に反省を強いるものは、
ピサにある教会の床です。
床を歩いていくと、床面に、転々と花束が挿してある。
気がつくと、床面全部が、お墓になっている。
つまりの上を歩くのです。

水平絵画の指し示すものは、
実は、この《死者の床》ではないのか?

ノーベル文学賞を受賞している文学者・カネッティは、
『群衆と権力』という著作の中で、
戦争して、累々たる死者たちが横たわる大地が出来て、
そこに生き残って立ち、この死者の《死者の床》の上を歩くも者に、
権力が発生すると、書いています。

つまり、私が立つ床とは、実はこの《死者の床》ではないのか?

歴史的に《水平絵画》を見ていくと、
一つは自然採取文明における《水平絵画》として、
さて、ここまで書いたら、図版が出てきませんが、
大きな水平の石面に、線刻で、動物の輪郭を彫った水平絵画があります。
《ロック・ペインティング》と呼ばれる種類のものです。
私の見た画像は、この線刻の中に、赤い顔料が詰められているものです。

もっと有名な《水平絵画》は、
ナスカの地上絵です。
ペルーのナスカ川とインヘニヨ川に囲まれた
乾燥した盆地状の高原の地表面に「描かれた」幾何学図形や、
動植物の絵です。
紀元前2世紀から6世紀の間に、「描かれた」と考えられています。
これらは《水平絵画》の代表と言えるでしょう。

「ナスカの地上絵」は、盆地の暗赤褐色の岩を、
特定の場所だけ幅1m~2m、深さ20~30cm程度取り除き、
深層の酸化していない明るい色の岩石を露出させることによって「描かれて」います。
規模によっては、線の中心から外側へ暗赤褐色の岩、砂、砂利を積み上げて、
それから線の中心部分に少し残った暗赤褐色の砂や砂利も取り除いて
明瞭になるようにしたと推察されています。

この水平絵画の中を、人々が、雨乞いをして、演奏をしながら
歩いたと考えられています。
《水平絵画》というのは歩くものなのです。

さて、こうした大規模な《水平絵画》以外には、
水平絵画はないのでしょうか?

日本絵画の源流には、
平安時代の四大絵巻があります。
源氏物語絵巻などの絵巻は、
実は水平で描かれ、そして水平にして見る、
《水平絵画》なのです。

さらに言えば、日本画の多くは水平状態で描かれているのです。
ポロックのドリッピング絵画、
そしてそれに影響を与えたインディアンの砂絵も《水平絵画》です。
つまり《水平絵画》というのは、
実は絵画の根幹を撃つ、重要な視点なのです。

私のフロア・イベントが登場してくる時期、
1960年代末というのは、
水平の作品が増えている時期ではあります。

その《水平絵画》の領域の中で、
床面モザイクは、重要なものです。

絵画の中に立つと言うことが、
実は美術理解の神髄を指し示すのです。

伏見 修邸のモザイク画は、
こういう事を伏見さんに、
私がレクチャーして、説得して
つくった作品です。

しかしAさんは、
単なるコミッションワークで、
作家が、金のために家を装飾したつまらない作品として、
眼をそらして見なかった。

ああ、何という眼の浅さよ!

という嘆きをもって、
Aさんの後ろ姿を見て、
しかし自分は、自分の作品の美しさを、
鑑賞していたのです。
これはきれいな作品です。
私は大好きな仕事です。

しかし作品の美しさというのは、
〈象徴界〉の眼がないと、見えません。

まあ、仕方がないことではありますが、
絵画を見ることの深さを、
少しでも知っていただきたくて、
書きました。

しかし、一難重要なのは、
この先です。
絵画の中に立って見ると言うこと。

この一番重要なことは、
またの機会に書きたいと思います。

彦坂尚嘉


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コメント 1

丈

非常に重要なご指摘ですね。
身近で言えば80年代には長重之氏が水平レリーフ「視床」を発表されていました。思えばあれはその後壁面に移行したのですが、床にあった方がよく見えました。栃木県美の長重之の回顧展は来年7月に向けて準備中のようです。氏はシルバーの地図絵画の他「茶室」形式の作品を制作中です。
by (2007-11-06 12:27) 

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