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伊東豊雄/せんだいメディアテーク [建築]

今日は仙台まで、行って帰ってきた。
五十嵐太郎さんの授業の中で、皇居美術館空想が学生への課題となったので、
その学生の作品の講評に参加するためである。

5時起き。
新幹線に遅れるかと思って急いだが、
無事乗れる。

IPodで音楽を聴きながら、
ハイアートとローアートの問題を考える。

鑑賞音楽と実用音楽の違いである。
ハイアートには鑑賞構造があって、
ローアートにはそれがない代わりに、
実用性がある。ダンス音楽の実用性であり、
また娯楽性である。

たとえばファニホーの現代音楽に、
ダンス音楽のような実用性はない。
鑑賞のためという性格が強いのである。

しかし現代音楽といった純粋音楽だけでなくても、
普通は大衆音楽に分類されるロックやファンクにも鑑賞構造はある。

たとえばブラック・サバスや、
最近のピンクにも、
鑑賞構造はあって、
彦坂流の分析では、ハイアートに分類されるのである。

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■原広司/日専連仙台

少し早めに仙台駅に着く。
昨日の雪が残っている。
五十嵐さんが出迎えてくれて、
まず、原 広司さんの日専連仙台を見る。
http://uratti.web.fc2.com/architecture/hara/BEEB.htm
ファサードの上部にはアーチがあって、
原さんらしいトレードマーク的なものであるという。

私のアートの格付けでは《6流》建築である。
《6流》の《6流》の《6流》で、
典型的な《6流》建築である。
鑑賞構造性はない。

内部まで良く作られてはいるが、
装飾であって、つまり実用建築である。
ローアートの建築であって、
だから娯楽性はある。

液体建築(=近代建築)

ラカン的分類では、〈想像界〉の建築である。
つまりファンタジー建築。
つまりハリーポッターの様なものであって、
純文学ではない。(つまり純建築ではない)

原広司さんについては、理論家であるという評価は高いが、
しかしジジェクが言うように、人間は自己欺瞞の存在である。
言っていることと、やっていることは違うのである。
現実の建築を見て、私は高度な建築とは思えない。

もちろん原広司さんの建築の評価は高いのだろうから、
たぶん世評的にはハイアートの建築として見られているのだろうが、
私にはそうは見えないのである。
十日町の〈越後妻有交流会館キナーレ〉も、鑑賞して感動する建築ではない。
実用建築なのである。
私は、あそこのお風呂は好きである。

原広司さん設計の京都駅が実用建築としてすぐれてるかどうかは判断できないが、
鑑賞芸術として感動する建築ではない。

そういうわけで、
私の評価は、原広司さんの建築はローアートと言うことになる。
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■伊東豊雄/せんだいメディアテーク

つづいて
伊東豊雄さんの〈せんだいメディアテーク 〉を見学する。
http://www.smt.city.sendai.jp/smt/photolibrary/exterior/

もっと変な建築かと思っていたのだが、
外見は四角いガラス張りの建築。

仙台市が青葉区に開設した
図書館やギャラリー等々の複合文化施。
2001年1月に開館。

なかなかきれいな建築で、
原広司さんとは違って、鑑賞構造性を持っている。
ハイアートの建築である。
つまり純文学といういみでの純建築である。

全館が鉄の溶接でできた、まるで舟の様な建築。
下から天井を見ると、この溶接跡が見える。
その複雑さに驚く。とんでもない建築である。
実際に造船をしている溶接工が作業をしたという。

近代建築における最も一般的な構造形式であるラーメン構造を、本当に乗り越えたと言えるかどうかは正直言って専門家で無い私には判断できないが、美術家の私の眼から見る限りは、そうした脱ー近代の建築には見えない。
あくまでも近代建築の内側からの延長で、従来の限界を超えているものである。だからラーメン構造を根本的に越えているとは思えなくて、しかし伝統的なラーメン構造の限界を超えていることは確かだろう。

何よりも、建築の柱がたくさんの細い鉄柱に分解されていて、すけすけのチューブを作り出している。この柱の解体はすばらしい。
驚くべき創造性である。
視覚的にも極めて刺激的。
館内で見ていても、柱の内部の空洞に、屋上からの光が落ちて来る様は、感動的である。
 
しかもこの柱に傾斜があって、さすがにユニーク。
外部のケヤキ並木の見事さに照応していて、実に美しい。

五十嵐さんのガイドで、最上階から地下の駐車場まで見る。

ガラスの壁面が外壁に使われているだけでなくて、
内部の壁面にも透明なガラスが多用されていて、
トラックの搬入口のようなバックヤードもすけすけに、
大きなガラス壁面をとおして、丸ごと見えてしまう空間は、
実にすばらしい。
美しい!
現在の情報公開の時代を建築として可視化したものと言うべきなのか、
感動する。

彦坂流のアートの格付けでは、
〈2流〉の〈1流〉の〈1流〉
液体建築=(近代建築)
〈象徴界〉の建築。

■創造性について

これだけ創造的で、
すばらしく美しい建築を
〈2流〉などというと、
怒られそうだが、
〈2流〉は技術領域。

〈1流〉は社会的正当性というか、常識の領域。

ほんとうに創造的なものは、
実は〈2流〉という技術領域でこそ作られているらしいのである。
たとえばソニックユースというロックバンドは〈超1流〉であるが、
実はこのバンドの音は、
初期アルバムを聴くと明らかにカンというドイツのバンドの音を下敷きにしている。
カンを聞くと、〈2流〉なのだが実に創造的なバンドで、
ミニマル・ロックとも言うべきものを、明快に作り出している。
この創造性にはうたれるのである。

創造性という視点で見ると、むしろ〈超1流〉作品は落ちる。
〈2流〉のものを下敷きにして〈超1流〉というのは、
摸倣の上に立てられた高みであるように見える。

レム・コールハースのシアトル中央図書館を見に行っているので、
どうしても比較はしてしまうが、
あちらは〈41流〉の〈超1流〉〈超1流〉である。

レム・コールハースと比べて、落ちるという気はしない。
伊東豊雄さんの建築の《独創性》と美しさは、
実にたいしたものであると思う。

敷延すれば、創造性を至上の目的とするのならば、
〈2流〉の領域での表現を模索すべきなのかもしれない。
〈2流〉という技術領域は、実はそういう意味で重要な領域であるのだ。
このことを伊東豊雄の建築は強烈に指し示している。

■合法性と鑑賞構造

きれいなものであるが、
しかし、私にひっかかるのは、
伊東豊雄の建築が合法建築で、
デザインでしかないことである。

オペラシティでの伊東豊雄展も見ているが、
この合法性は気になるものである。
きれいだが、これで良いのであろうか?

仲間由紀恵の美人顔を見ているような、
薄さがある。

だが、このことこそが実は伊東豊雄の
創造性を示す勲章ではないのか?

もう一つ彦坂のアートの格付けでもアップしないのは、
この合法性のぬるさに原因があるような気がする。
偉大な建築とは言いにくいのである。

しかしすぐれて創造的な建築である。

つまり技術的な創造性と、
芸術性は必ずしも一致はしない。

伊東豊雄は芸術性は薄いが、
極めて技術的に創造性を切り開く建築家なのであろう。
芸術性の低さゆえに伊東豊雄を低く見るのは、
創造性を重視する視点からは間違いなのである。

すでに伊東豊雄の建築には鑑賞構造があると言った。
そして伊東豊雄の建築は、デザインである。

だとすると、私たちはデザインを鑑賞することができることになる。

しかし普通はデザインは実用美術を意味するのであって、
鑑賞芸術とデザインは違うはずである。

・デザイン=実用美術=ローアート
・芸術=鑑賞美術=ハイアート

上記の分類が常識というものであって、
その常識に当てはまらない事態が出現している。

つまり鑑賞構造というのは、
デザインにもあるのである。
デザインと芸術を区別することなく、
私たちはデザインを鑑賞している。

その原因は、
伊東豊雄の建築に、〈非-実体性〉があるからである。
〈非-実体性〉故に、鑑賞ができる。

言い換えると、
実は〈非-合法性〉と鑑賞構造は連動していなくて、
鑑賞構造は、〈非-実体性〉が生み出すものなのである。

さらに言えば、〈非-実体性〉こそが、
ハイアートの構造である。
つまり〈非-実体性〉のあるデザインは、
鑑賞できるし、ハイアートなのである。

そうすると、
ハイアート=鑑賞構造=〈非-実体性〉には、
2つの違った表現があることになる。

・〈非-実体性〉があって、合法的な表現(=非-実体的なデザイン)
・〈非-実体性〉がって、〈非-合法性〉のある表現(=芸術)

鑑賞構造があれば、ハイアートであるのだから、
それで良いとすれば、
伊東豊雄の建築の様に、合法的表現で、十分に鑑賞物たり得るのである。

ならば、〈非-合法性〉のある合法表現で良いのではないか?

つまり〈非-実体性〉のあるデザインワークこそが、
今日のシュミラクルなアートであるのではないか?

つまり伊東豊雄の建築というのは、
シュミラクルなアート建築なのである。
あまりにも今日的であるのだ!

そして、真性のアートの不在性としても、
極めて日本的!

さて、追加である。
原広司の建築に鑑賞構造が無かったのは、
《実体的》であるからと言うことになる。
確認してみる。

日専連仙台、実体的である。
http://uratti.web.fc2.com/architecture/hara/BEEB.htm

京都駅、これも実体的。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/2964/kyoto/kyoto.htm

問題なのは、空間の扱いである。
日専連仙台のアーチのフォルムが分かりやすいが、
アーチの実体の形に意識が集中していて、
アーチの下の空洞であるボイドの形や存在に、
意識が注ぎ込まれていなくて、
この何もない空間の意味が構成されていないのである。

そのことは京都駅には明らかに顕著であって、
中央部分の空洞の空間の意味に原広司の意識が集中していない。
原広司の意識は、
このボイドを取り巻く壁面の様々な装飾やレリーフ状の要素の多様性に向かっている。
だから建築がボイドを孕んでいるのにもかかわらず、実体化しているのである。

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■シニフィアン

もう一つ伊東豊雄の建築で気になるのは、
内部に展示してあった図面やデッサンを、
五十嵐太郎さんに見せられたが、
当初の図像が一番過激で、美しいことである。

実際の施工の現実化の中で、おとなしく平凡化していくのだが、
そのありようが気になる。

つまりソシュールの用語で言えば、
シニフィエ段階が一番美しくて、
現実化していくというシニフィアン化する中で、
本当は意味を構成していくはずなのが、
凡庸化に向かうというのは、
制作という基本からは、
間違いであるのだ。

現実の制約を受けることでこそ、
表現は意味を立ち上げ、
すぐれた感動を生み出さなければ、
駄目なのではないか?

この辺のことも、
実は伊東豊雄氏が、芸術家というよりも、
創造的な技術者、デザイナーであるが故なのかもしれない。
つまり、建設された建築よりも、
伊東豊雄のデッサンや図面の初期段階こそ、
注目して追いかけてみるべきなのかもしれない。

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東北大学で昼食後、授業へ。

学生達の回答も、なかなか果敢であって、
面白かった。

一番過激なのは、
皇居を真っ平らにしてしてしまって、
地下の美術館を作るというものだが、
多くの人に顰蹙をかいそうなその画像は面白かった。

まあ、ある種のタブララーサであるわけだが、
それが皇居という場所での設定になると、
ある恐ろしいまでのリアリティを帯びるのである。

あくまでも空想の自由の問題であって、
それはどのようなものであっても、
評価する精神が欲しいのである。

合同合評会にも参加した。
建築家の五十嵐淳氏のクラスと、
そして建築家の米田明氏のクラスとの合同での合評会。

米田明氏とは、南泰裕さんとのギャラリー手の2人展で会って、
お話しをしている。
デコンストラクションの建築家と、アースワークの美術家の作品の関連を指摘した
『ポストミニマリズムが現代建築に示唆するもの』(建築文化94年4月号)を書いた建築家である。

建築の合評会出席は2度目だが、
私の反応は今一。

3つの課題に対して、
かなり恣意的な解釈で切り結ぶ学生の姿勢に、
私自身は、必ずしもついて行けない。

終わってから、
ファインアートでの合評会との違いを
先生達に話す。

建築デザインの持っている、
恣意性の緩さが、私にもう一つ、入り口がないのである。

その後、飲み屋で2次会。
楽しかった。

米田明氏、五十嵐太郎さんと3人で東京まで帰る。
無事帰宅。


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