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制作の大変さ [アート論]

いま、次回の個展に向けて、
4点で1セットの組ものの作品を作っている。

初期の57577のウッドペインティングの、
焼き直しというべき作品である。

これも今回の個展のウッドペインティング同様の小さなものなのだが、
小さいからと言って、簡単にできるわけではない。

今作っているのは、注文主がいて、
一応は買い手がある仕事なのだが、
この買い手との格闘がある。

買い手の側は、
カタログを見て、昔の作品のイメージを前提に、
自分の家の部屋の狭さを言って、
小型化した作品を4点セットで展示したいという。

しかも、作品の
ニュアンスはいらない。
色はベタに塗ってくれと言う。

ひどい注文である。

この時点で、
引き受けるかどうかの問題がある。

もちろん、芸術の純粋性を振りかざして断るという選択もあるが、
私の場合は職業美術家でもあるので、
断る選択は、選択しない。

その意味で、
建築家同様、
施主の希望は受け入れつつ、
しかし創造的な仕事をすることが必要となる。

引き受けるのだが、
しかし、
単なる焼き直しの制作はしない。
これをすれば命取りになる。
自己摸倣は作品を《8流》へと転落させる。

むかし、ある作家の焼き直しの仕事にかかわったが、
その時は、ものの見事に昔と同じ作品が出現して、
あきれた。
注文通りとは言えるのだが、
その時に、
終わったのだ。

つまり焼き直しが、
焼き直しで終われば、
その作家は終わる。

だから、
買い手の頭の中にある現代美術の
ステレオタイプの価値観を、
理解すると同時に、
これを逆手にとって、
自分の仕事を展開する方法を考えることになる。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

今起きていることは、
現代美術のステレオタイプ化であり、
現代美術そのものがキッチュ化していくという流れだ。

かつての前衛が、今日では焼き直しされて、
キッチュと化す。

こうして実は現代美術というモダンアートが、
死滅の過程を歩んでいるのである。

だから、この流れを愚劣と批判することは正しいが、
しかし全人類の文化や歴史を反省的に見れば、
こうした事態は繰り返し起きるのであって、
このこともまた、文化の新陳代謝の作業である。

この現代アートの表面的隆盛の裏で、
別の事態が進んでいる。
あまり報道はされないが、
今日の芸術の構造変動は根こそぎのものであって、
特に日本画や、古い具象洋画の世界の値段の下落は、
深刻なものがある。
つまり日本画を愛してきた鑑賞者層が死んできて、
観客の世代交代が大きく進んでいる。
そして世界的に現代アートにシフトが代わってきているのである。

いやそれだけでなく、
戦後の五都展以降できた、
日本画の業者だけのクローズ・マーケットが、
今日のグローバリゼーションによる情報開示の流れと、
オークションの隆盛の中で、
日本画の価格決定システム自体が古くなってしまったのだ。

しかしだからといって、
現代アートへの移行と隆盛が、
新しい時代と新しいアートへの移行かというと、
そうではなくて、
モダンアートのキッチュ化と、
創造性の退廃として出現してきているのだ。

私見では、
重要なのは、こうしたキッチュ化を逆手にとって、
創造の多様性と、
創造というゲーム、
芸術というゲームを展開し続けることである。

そうしたときに大きな励みになる作曲家に、
ソヴィエトの作曲家ドミートリイ・ショスタコーヴィチがいる。
自らが求める音楽と、
ソヴィエト体制が求める音楽との乖離に葛藤した作曲家である。

このショスタコーヴィチの格闘はしたたかで面白い。
スターリンの存命中は「社会主義リアリズム」に準拠した作品を書いているのだが、
しかし「社会主義リアリズム」色濃い作風の作品というのは、
意識的に作風を捏造した仕事であって、
こうした詐術が、屈折した表現を生み、
今日聞く観客に訴えるものをもっている。

ソ連の芸術政策に表面上は迎合し、
分かりやすい音楽を多く作曲したために、
難解な現代音楽が隆盛した20世紀において、
ショスタコーヴィチの音楽は、
分かりやすい大衆的な、
しかし高度な屈折した精神性を持った、
両義的な音楽を作り出した稀有な作曲家となった。

つまり美術家である私に引き寄せいて言えば、
自分の求める美術作品と、
買い手が求める美術作品=ステレオタイプ化した現代美術との
乖離と格闘し、これをかいくぐる制作が必要なのである。

この制作はしかし、
やってみると想像以上の可能性を生み出し得る。

野球というゲームの規則が決まっていても、
常に複雑な展開を生むように、
たとえばミニマルアートというアート・ゲームにしても、
実は微細な工夫をしていくと、
ステレオ・タイプをかいくぐって、
これに背理する表現は可能なのである。

こうして、とにかく保守的なコレクターのイメージを
受け入れつつ、
しかし、創造の新たな可能性を見出すのだが、
しかし、実際の作業は、
手間がかかる。
うんざりする。

制作という手仕事が嫌いなわけではないが、
小さな仕事というのは、
手間がかかる。

構想を考えること。
デッサンをすること。
図面をつくること。
木工。
組み立て。
色彩プランのコンセプトを考えること。
色作り。
下塗り。
ペインティング。
仕上げ。

まあ、息が長い。

大きくても、
小さくても、
実は、それほどの差はないから、
小さなものほど、手間がかかるという印象があって、
つくづくと嫌になる。

この疲労と嫌悪という感覚を乗り切っていかないと、
プロのアーティストとは言えない。

やるしかないのだが、
制作というものの、
実働の苦しさに悲鳴が上がる。

まあ、何をやっても、
結局はこの実働の苦しさがある。


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