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鑑賞する眼と、カタログを見る眼 [アート論]

■鑑賞について■

◎芸術下層民

会期中に、某美術館の館長O氏が来てくれたのだが、
彼の作品の見方が、異様な落ち着きの無い動き方で会場を動いて、
眼を見張った。
どうも鑑賞という精神活動は、できないらしい。

鑑賞というのは、誰にでも、できることではないのです。
一つの精神行為なので、
訓練を受けていないと、できないのです。
下層の人たちには、できない人が多いのです。

とは言っても、普通はローアートと思われている音楽、
たとえばブラック・サバスや、ニルバーナといたロックにも
鑑賞構造はあるので、
社会的に下層の人々が、鑑賞という精神活動を、
していないという事ではないのです。

『目暗千人、目開き千人』という古い言い方通りに、
実にいろいろな人がいるのであって、
実際には、すぐれた鑑賞眼のある人々が、
たくさんいるのです。

そしてO氏のように、美術館の館長でありながら、
鑑賞精神の無い人もいるのです。
つまりO氏は美術館の館長でありながら、
芸術的には下層民なのです。

だから、逆にO氏に魅力があって、
面白いと言うことも言えます。
私も好き嫌いで言えば、好きな方です。

しかしO氏が例外というのではなくて、
実は日本の美術館の学芸や、批評家、ジャーナリストには、
この手の人の芸術下層民は、かなりいるのです。

アメリカやヨーロッパの場合、美術館の館長はもとより、
学芸員も、上流階級の師弟です。

ニューヨーク近代美術館の学芸員の大半が、やはり上流階級の師弟なのです。
彼らは、家にルネッサンスの名画が掛かっているような家で、
子供の頃から育ち、美術品を見る眼は、極めて優れています。
(トマス・ホーヴィングは、メトロポリタン美術館の館長でしたが、館長を辞めた後に、エンターテイメントの小説家になって『名画狩り』を書いてベストセラーになります。これを読むと、アメリカの上流階級の様子を垣間見ることができます。おかしいのは、上流階級に生まれながら、美術家にあこがれてなりたかったようです。しかし上流階級からは、芸術家は生まれないようです。)

彼らは、不労所得が多いのです。
お金がお金を生むので、
ジッとしていてもお金が入ってくる。
だからニューヨーク近代美術館などの学芸員の給料は安いのです。

つまり美術界で働くことはボランティアで、
上流階級の精神性と社交の世界なのです。

だからといって下層の出身の職員もいないと、組織が動かないので、
下層階級も働いていますが、この人達の給料も安い。
そうすると家賃が馬鹿高いマンハッタンで生活ができないので、
下層の職員がニューヨーク近代美術館でストライキをしてピケを張ったという事件がありました。
私はたまたまこれを見る機会があって、
こういう内部事情を少し知るきっかけになったのです。

サザビーズに働く日本人というのも知り合って、話を聞きましたが同様で、
上流階級の師弟が働いています。
ここでも給料は安くて、
あくまでも社交活動の様なもののようです。

つまり欧米の美術界の、
こういう生まれつきの上流の眼の肥えた人に比較して、
日本の美術館の館長や学芸員は、
階級的にも、そして教育的にも、
美術の名品を見る眼が訓練されていなくて、
芸術的な下層民がたくさんいるのです。

日本でも、芸術鑑賞の訓練をする必要があるのです。

ササビーズやクリスティーズのオークション・カタログの
特に前半部分ですが、
芸術選択眼は、すばらしいものです。

『美術手帖』なんかの粗悪な図版と、杜撰な選択眼は、足下にも及びません。
もちろん『美術手帖』はジャーナリズムですから、杜撰な選択眼でも良いのです。
しかしこういうものだけを見て学習する限界があると、私は指摘しているのです。
ササビーズやクリスティーズのオークション・カタログを見て勉強する方が、
良いと言っているのです。

日本美術ジャーナリストの眼の、
芸術の鑑賞眼を訓練されていないものであって、
下層民のそれなのです。

『目暗千人、目開き千人』という自然性に任せておいて、
良い目の人の出現を待つというのでは、
実は状況はひどくなるのです。

何しろ「悪貨は良貨を駆逐する」という原則が作動して、
悪い目の方が、社会的には強いのです。
だから、日本の美術界は、
どんどんひどくなっていく。
美術界だけでなくて、
日本全体が、どんどん悪くなっていく。

ですから、こういう事実を踏まえて、
日本の美術界を立て直す対策が必要なのです。

美術の作品で、何がすぐれているか、
何が駄目なものかを、教育するコースを造ることです。

まず、レオナルド・ダ・ヴィンチや、ヴァン・エイクなどの、
すぐれた作品を、眼で暗記することです。
少なくともレオナルド・ダ・ヴィンチの作品を、
暗記することは重要です。
現状では、レオナルド・ダ・ヴィンチの工房の修業時代のデッサンを見せても、
レオナルド・ダ・ヴィンチであると分かる美術関係者が少ないのです。

平安の源氏物語や、鳥獣戯画などの4大絵巻、
宗達や、雪舟、狩野永徳、葛飾北斎、運慶などの、
傑出した美術作品の暗記も重要なのです。

こういう事を言うと、
現代美術は違うと主張する人がいるかもしれませんが、
近代芸術と、近代芸術以前の断絶を強調することは、
私は間違っていると思います。

美術史を分断して連続していないと考える考え方をとると、
便利は便利ですが、
しかし眼の悪い、
浅い教養の人を増やします。
日本の現代美術評論家には、こうした教養の浅い人が多かったのです。

この議論は長くなるの、
ここではしませんが、
基本は、前・近代の文明の芸術こそが、
基準になる眼を作り出すと思います。

前・近代の名品を鑑賞すると、
感動しますし、
ここに確かに芸術というものが存在するということを、
確実に確信することができます。
芸術とは、仮説ではないのです。
この確信をまず、前・近代の芸術を通して体感することが重要です。

しかし若い人は、古美術を見ても、感動をしないかもしれない。
その時は、とにかく眼で暗記することです。
暗記が重要なのです。

語学を学ぶのに暗記が重要なように、
芸術鑑賞のプロになるためには、
名品を眼で暗記することは重要なのです。
暗記していくと、眼と感性が良くなっていきます。

こういう枠組みは、
芸術に限りません。
言語論をするにしても、家族論をするにしても、
そして社会論をするにしても、歴史論をするにしても、
近代以前にもどって検証しない限り、
根本を論ずることはできません。

近代で、区切っては駄目なのです。
近代・現代を根本で支えているものは、
前・近代の古い文化構造なのです。

私たちが使っている言葉にしても、
近代以前に根本が生まれていることを、思い出してください。
そこまでさかのぼって見ない限り、
本質を学習することはできないのです。

………………………………………………………………………………
■美術の根本にある建築

それと建築を鑑賞することが重要です。
エジプト美術を見るときに、
ピラミッドやスフインクスをイメージしないで、
エジプトの彫刻や絵画を判断することはできません。

ゴシック美術を見るときに、
ゴシック建築を無視して、考えることはできません。

建築こそが大芸術であって、
絵画や彫刻の母体なのです。

平安時代の美術を見るときに、
京都御所を見ないで見ることはできないのです。

同様に大正期の新興芸術を見るときに、
分離派の建築を見ないで語るのは、間違っています。
たとえば山田守の建築はすばらしいものであって、
この分離派建築を背景にしてこそ、
大正期の日本美術を記述すべきなのです。
しかしそれがなされていないのが現在です。

戦後の美術も同様であって、
1950年代美術を、
それこそ岡本太郎で語るのは間違いです。
岡本太郎の美術は、ハイアートではありません。
ローアートなのです。
《6流》の原始美術で、
下品な色つき漫画に過ぎません。
1950年代を代表するのは、
丹下健三の〈超1流〉建築です。
特に香川県庁舎はすばらしい傑作の名品です。
こうした建築を基本として、
日本の1950年代美術を編纂すべきなのです。

1960年代美術にしても、
篠原有司男のひどい作品で、日本の現代美術をイメージしては駄目です。
丹下健三の代々木体育館や、
菊竹清訓の破天荒な〈超1流〉建築のすばらしさと欠点を見ないで、
1960年代美術を考えることはできません。

こういう美術史の基本である建築への視点を
日本の現代美術史は欠いているのです。

先日、あわただしく出版された『日本近現代美術史事典』(東京書籍、発売年月 2007.09、サイズ A5判函入、頁数688頁、定価9975円)にしても、
監修者の中に、建築評論家の多木浩二氏がいるにもかかわらず、
建築がないのです。
多木さんの精神はどうなっているのでしょうか?

【美術と周辺領域】という章においても、建築がない。

これは美術を見る視点が根本的に錯誤しているのです。

たとえばバーバラ・ローズの『20世紀アメリカ美術史』(美術出版社)の中には、
建築が取りあげられています。

ホイットニー美術館の『アメリカン・センチュリー』と言う2冊の
20世紀アメリカ美術史の回顧展カタログにも、建築は取りあげられています。

日本美術全集にしても、
たとえば小学館の『原色日本美術全集』でも、
講談社の『日本美術全集』でも、
建築は入っています。

建築抜きには美術は鑑賞できないにもかかわらず、
『日本近現代美術史事典』は、それを忘れているのです。
つまり、何か美術や芸術を鑑賞し考える基本的な枠組みにおいて、
根本的な錯誤を、戦後の日本の美術界は持っていると思います。
敗戦呆けして、精神欠損者になっているかのようです。

そういう意味で、
芸術鑑賞眼を訓練するコースには、
建築の実際の現場での鑑賞訓練は不可欠な事なのです。

さて常識的な教育コースをここで述べることは割愛して、
彦坂流には、
芸術の判断として、イメージ判定法と、
現実判定法、
そして言語判定法の3つを、
マスターさせて、
基本的な〈格〉づけが、各自で、できるように、
訓練する教育コースをもうけたいと思います。

そして日本の中に、
芸術鑑賞ライセンス制度を確立することです。

鑑賞の訓練を経て、
試験に合格した人だけが美術館の館長や、
学芸員になれるという制度を作るのです。

これをすれば、少なくとも現状のひどさは、
乗り切れるようになります。

………………………………………………………………………………

◎テオリア

「鑑賞」というのは、
ギリシア哲学ではテオリアであって、
テオリアは、直訳すれば「観照」です。

テオリアは「眺める」という言葉からできて、
あるがままに物事をみようという態度ですが、
2階の窓から、下の往来を見下ろすようなものの見方に関係する、
つまり距離をもって、間接的に見る見方です。

それが展開して、のちに理論という意味のテオリーを生み出します。

………………………………………………………………………………
■対話の哲学

もう一つ、テオリアとは逆の視点での、鑑賞論があります。

鑑賞している対象を客観視しないで、
正面から対峙して、我ー汝 という対話の関係の中で見ることです。

主観的に向き合って、見つめることです。
こういう主観的な「対話の哲学」の視線の重要性を語ったのが、
マルティン・ブーバーでした。

マルティン・ブーバーは、( Martin Buber, 1878年 - 1965年)はオーストリア出身のユダヤ系宗教哲学者・社会学研究者。

さらにこの《対話の視線》は、
見つめる対象を通して、
《永遠の汝》を、そこに見通して、
出会っていく、
というのが鑑賞という行為なのです。

《永遠の汝》というのは、「普遍」ということですが、
昔の言葉を使えば、「神」ということです。

「神」というと、人格神をイメージしてしまうかもしれないですが、
それは、彦坂流に言うと違います。

聖書にも「初めに言葉があった」とあるように、
「神」というのは言葉なのです。
《全知全能》という言葉が「神」です。

美術作品を通して《全知全能》という領域と対話していくというのが、
鑑賞の基本的な構造であると私は思います。

ただそれを可能にするためには、
鑑賞する作品が、すぐれていないと無理です。
なんでも鑑賞できるかというと、それはできないのです。
鑑賞構造を持っているすぐれた芸術作品を見つめるときにだけ、
鑑賞が可能になります。

作品論的には、
作品が〈非-実体性〉をもっていること。
そして〈象徴界〉の美術であることが必要です。

つまり実体的な作品では鑑賞できないし、
そして〈象徴界〉の美術でないと、
神に出会うような鑑賞が成立できないのです。

実際、アメリカ人は、驚くほどに美術館に行きます。
これは一種の宗教行為であり、
美術館が教会の代わりになっていると、私には思えます。

《全知全能》という領域と出会うという精神活動には、
良く知られているものに、
《祈り》という行為があります。

つまり《祈り》という精神活動と、
重なっている精神行為が、鑑賞であるのです。

しかし現代美術や、現代アートの人々の中には、
《祈り》という行為のできない人々が多くいるのです。

一つには〈象徴界〉の人格形成を欠いた、
精神的未訓練者が、日本人に多いのです。

訓練で、〈象徴界〉の精神領域は開けるのですが、
敗戦での、占領軍による神道の解体がひびいたのかどうか、
〈象徴界〉の発達を訓練するプログラムを失ってしまったのが、
日本の戦後社会です。
………………………………………………………………………………
■瞑想と、禅の芸術化

《テオーリア》と、《対話の視線》は、
厳密には違うものではあるのですが、
これは、実は通底しているのです。

念を入れて、そこに《瞑想》という、
東洋的な精神を加えても良いです。

実際、日本美術史の中で、
鑑賞という行為が確立されてくるのは、
禅宗における先生の肖像画(頂相)や、風景画を、
禅の瞑想として鑑賞する中で生まれたのです。

加藤周一が指摘したように、
禅宗の芸術化が、
日本の芸術鑑賞の成立に大きく寄与しているのです。

こうした精神活動が、
鑑賞という精神活動なのですが、
これができない下層的な人々がたくさんいるのです。

分かりやすく言うと、
音楽で言えば、クラシック音楽を聴けない人は、
鑑賞精神が無いと言えると、私は思います。

もちろんこれは、かなり単純化した言い方です。
フランスの社会の階層性を研究した
ピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』によれば、
フランスの下層民はベートーベンを聴いているのです。
つまりベートーベンの第9を聞くという人々は、
下層民であって、
上流階級は、現代音楽を聴いているのです。

確かにそうなのですが、
それは社会階層としての上流と、下層の区別であって、
私の言っているのは、
あくまでも鑑賞という精神行為ができる人と、
できない人の区別をつける、簡単な一つの目安として、
クラシック音楽の受容の有無があると言っているだけなのです。

文学でも、金原ひとみは読めるが、
綿矢りさは、読めないという人は、
鑑賞精神が無いと、私は思います(笑)。

金原ひとみは、
《8流》のローアート=大衆文学であり、
綿矢りさは、〈1流〉のハイアート=純文学であるです。

鑑賞という精神活動は、
ハイアート特有のものなので、
鑑賞活動のできない人々は、
ハイアートが理解できないのです。

O氏が、美術館の館長でありながら、
鑑賞ができないロークラスの人であると気がついて、
ある意味で納得がいきました。
今までも
O氏が押す作家、
そして某公立美術館で開催した個展や、
グループ展で取りあげた作家は、良くないアーティストばかりであったのです。

またO氏が書いた本も、
学芸員という学者、であるはずなのに、
註や出典が少なすぎて、
学問的な執筆の体裁が取れていなくて、
不思議に思っていたのです。
インテリの振りをした下層民であったというわけです(笑)。

こういう芸術下層民を差別する事が、良いとは思わないですが、
しかし現実にクラシック音楽も、
そしてハイアートの美術を鑑賞できない人々は存在するのです。

芸術的な下層民と、上層民の2種類が存在するのは事実なのです。

この事実を認めた上で、
この分離を図るのではなくて、
逆に、高度な統合を目指す必要があると、
私は考えるのです。

事実O氏は、ポロックをメチャクチャなアーティストと、
公言していたのです。

ポロックを理解できない人が、
公立美術館の館長でいるというのも、
日本の現実なのです。

ポロックは、大変にすぐれたアーティストです。
〈超1流〉から〈41流〉までの多様な〈格〉の作品を残していますが、
こういう制作をなした作家は、
ポロック以前には存在していないのです。
その意味でも、希有な偉大性をもった、
アーティストであったと、私は思います。

………………………………………………………………………………
■カタログを見る眼

鑑賞をできない芸術下層民は、どういう視線で、
作品を見ているのだろうか?

先に挙げたマルティン・ブーバーによると、
《我ーそれ》という第3者的視点で、見ているのです。

つまり作品と、主観的に向き合えないで、
第3者的に見るのです。

しかし、こんな事を言われても分からないでしょうから、
もっと具体的に言うと、
カタログを見るように見るのです。

こういうカタログ的視点は、
実は広く社会的に広がっています。

作品も、カタログを見る視点で、できている作品が、
若い作家の中に、たくさん出現しているのです。

実は私がつき合っていた若い作家のASADAと、
彦坂敏昭君の作品で、上記のカタログ的視線で作品ができていることに気がついて、
かなり強く警告したのです。
2006年の越後妻有トリエンナーレの数ヶ月前です。
ブーバーの『我と汝』という本も読むように強いたのです。

その結果は、作品が変わった。
カタログ性を脱したのです。

本人達は、「意識すると変わるのですね」と言っていましたが、
当たり前で、芸術とは、意識なのです。

どのように意識して世界や外部と向き合い、
見ているのか?
向き合っているのか?」
その事を意識することが重要なのです。

自分を包む外部世界を、カタログの様に第3者的に見ているのか、
それとも自分が対話し、真摯な関係を結ぶ対象であり、
その先にある普遍性との対話を求めているのか・・・。

そういう外部世界との関係を作り出す視線として、
作品が作られのであって、
したがって、意識の水準こそが、〈格〉なのです。

〈格〉が高いというのは、意識水準が高く、
根底的に世界と歴史と向き合っていると言うことなのです。


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コメント 1

丈

非常に貴重な内容を惜しげもなく公開されているのに驚きます。
by (2008-02-04 23:34) 

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