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ローアート再論 [アート論]

ローアートの領域は、
民衆の領域で、これは同調性で動いている。

蛍が一斉に光ったり、消えたりするのが同調性だが、
こうした同調性が人間の社会でも作動している。

女性が同じ家に住むと、生理が同じになったり、
同じ部屋にある振り子時計が同調するように、
自然そのものの中に,こうした同調性の原理が動いている。

そのことは逆にも言えて、
同調しないものを排除するのである。

こういうシステムを、
ビートたけしは『赤信号、みんなで渡れば怖くない』と
言った。
この意味は同調性であって、
同調性はしかし怖い結果になる。

実際には、ネズミの群れが集団で崖から海に飛び込んで行くように、
そうした集団自殺現象が起きるのである。
日本の第2次世界大戦もまたこうした同調性による集団自殺現象であった。

このような同調的な集団の中に生まれる表現が、
ローアートである。

だからローアートのアーティストは、
表現主体としての自己権力を確立しない。
同調に意味がある領域だから、
事故権力はじゃまになるのであって、
排除される。

伝承的な模倣の連鎖としての文脈で表現がなされる。

代表的な例は、黒人音楽で、
たとえばラップの曲が、どれも良く似ているのは、
こうした集団的同調性を基盤とした模倣の連鎖の中で、
表現がなされるからである。

つまりローアートには、
決定的な独創性というのは、
無いのである。

ファインアートの歴史の中にも実はこのようなローアートの構造はあるのであって、
たとえばルノワールの絵画は、典型的に同調的な模倣の連鎖性を持っている。
ルノワールの絵画と、ティッツアーの絵画は、模倣の連鎖でつながっているのである。
この場合、お手本のティッツアーの絵画の絵画はハイアートで、ルノワールの絵画は、ローアートである。

さて、少し急いで、
結論だけ書いて行くと、
ローアートには、鑑賞構造が無い。

鑑賞構造は、非実態性は生み出すのだが、
ローアートは、実体的である。

そしてローアートは、想像界の芸術であって、
象徴界性が無い。

同調性の世界というのは、
実は想像界の世界なのである。



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共通テーマ:日記・雑感

コメント 1

丈

同調しないものを排除する…原始的ですが子供のいじめもそうで、集団を維持する動物としての本能ともいえるでしょうか。「美術」を志す人は同調の苦手な人が多いはずですが、集団になると同調が始まるようですね。
by (2008-02-05 17:04) 

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