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1900〜1909年の美術 [アート論]

一八九八年(明治三十一年)、岡倉天心は、橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草らと日本美術院を結成した。

一九〇〇年、第八回日本絵画協会第三回日本美術院連合絵画共催会出品の春草、大観ら新画風作品が、
「朦朧体」と評された。

同年安田靫彦らの紫紅会、今村紫紅を迎え紅児会と改称。のち小林古径、前田青邨、速水御舟らが参加。

同年結城素明、平福百穂ら无声会を結成、自然主義を綱領に掲げる。

同年、関西近代日本画の先駆者である竹内栖鳳は三十六歳、
7か月かけてヨーロッパを旅行し、
ターナー、コローなどから強い影響を受ける。

二〇世紀「日本画」の始まりである。
「日本画」という大日本帝国の近代絵画が確立され、
少なくとも東アジア文化圏において「日本画」が中国絵画を〈画格〉において凌駕し圧倒した記念すべき時代であった。

いや、もっと前から日本絵画は〈超1流〉性において中国絵画を凌駕していたようなのだが、
日本が義和団事件で八カ国連合軍に参加し、
しかも最大の兵力送ることによって、
日本は中国に軍事侵攻し、
これによって大日本帝国の「日本画」は中国絵画の権威を越えた輝きを獲得しようとするのである。

近代芸術というものが、こうした国家の覇権と密接に絡み合っていることを、
私達は直視する必要がある。

この近代日本画の確立に刺激されて、一つは平櫛田中の、
最も早いポストモダン木彫と言うべき《超一流》の木彫が出現してくる。

そしてまた前ー近代絵画性を持ったままではあるが富岡鉄斎の《超一流》の南画が台頭してくる。

こうして二〇世紀日本美術は、
重層性をもった日本文明としての美術を自覚的に確立しようとするのであった。


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