SSブログ

南京大虐殺をめぐる情報戦争の外で(映画『靖国YASUKUNI』2) [アート論]

靖国1.jpg
上の画像にあるように、キネマ旬報は、ニュートラルな視点として映画『靖国YASUKUNI』をとらえている。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

靖国100.jpg
李纓(り・いん)
1963年中国・広東省生まれ。84中山大学卒。中国中央電視台に入局。
中国中央電視台のディレクターとしてドキュメンタリーを制作後、

89来日。文化庁の海外招聘芸術家研究員として日本に留学、
93文化庁の招聘で海外芸術家研修員として大島渚、吉松安弘監督の指導を受ける。

日本映画の研究の傍らプロダクション龍影(dragonfilmsinc)を設立。

『2H』(1999年ベルリン映画祭NETPAC賞受賞)がデビュー作となる。

第二作となる『飛呀飛(フェイ ヤ フェイ)』は、2001年度ベルリン映画祭へ出品され、高い評価を得ている。最優秀アジア映画賞。

「北京映画学院夢物語」で、放送文化基金賞。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

■李纓(り・いん)監督 第1作 『2H』

靖国101.jpg

Japan, 1999, 35mm, 120mins, Color

製作群/Credit :
導演: 李纓(り・いん)
Director: Li Ying
Producer: Zhang Yi
Cinematographer: Li Ying
Editing: Li Ying
Sound: Shinichi Mikami

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

■李纓(り・いん)監督 第2作 『飛呀飛(フェイ ヤ フェイ)』

靖国102.jpg

金銭というものは、人間の悲喜劇を凝縮している。千年前でも千年後でも、金銭夢物語には何も変わりがない。いわゆる人類文明の進歩というものは、金銭の影響力が大きくなっていくことにすぎないのかもしれない。中国は、今、金銭の世界秩序の中に、巨人のような勢いで進出している。私は、中国社会における金銭を巡る人間関係を表現するために、ドキュメンタリーとフィクションをミックスして、現実と舞台、現代と古代、それぞれの絡み合いの中に、単純な映画的言語を探し求めた。そして、私は探し当てたのだ、手錠と亡霊を。
――李纓(り・いん)

2001/02年/中国・日本/35mm/92min.
監督:李纓(り・いん)
撮影:張健(ツァン・ザン)
出演:芒克+寥亦武(リャオ・イ・ウ)+張怡(ツァン・イ)ほか
2001年ベルリン国際映画祭フォーラム部門公式出品作品

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

■李纓(り・いん)監督 第3作 『味 Dream Cuisine』


靖国2.jpg

靖国103.jpg

出演:佐藤孟江、佐藤浩六、劉広偉
「わたしの料理は絶対砂糖を使わない」。中国伝統の“魯菜”料理を唯一受け継ぐ日本人女性。歴史の荒波の中で失われた、体に良い美食中華料理を愛する老夫婦のスロー・ライフ物語。
35mm/134分/2003年/日本/劇場公開日:2003年12月20日

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

靖国.jpg
靖国104.jpg


さて、
白濱雅也さんは、
真面目な人なので、
映画『靖国YASUKUNI』について書いた、
このブログでの私の批判に答えて、
長いメールを気派のメーリングリストにくれました。

■白濱
On 2008/05/10, at 2:52, 白濱 雅也 wrote:
> 私がなぜ先の大戦の事やこの映画に興味を持つかですが、
> 私の制作の動機の一つに、社会と個人の関係を考えたいという
> 事があり、
> 日本の社会について考える時、その歪みと脆弱さが先の戦争に
> おいて凝縮されて現れていて、同根の問題であると感じるから
> です。

> 映画靖国については、靖国神社の解決の難しさを考える時、被
> 侵略国側の冷静な視点から何か教示を得られるのではないかと
> いうのが関心の発端です。
> 改めて読み返したインタビューでは監督の真摯な姿勢は伝わっ
> てきます。


靖国6.jpg

李纓(り・いん)の顔である。
《言語判定法》で、《超1流》《1流》《2流》《3流》《4流》《5流》《6流》《7流》の重層的人格。
《現実判定法》で、《超1流》の現実。
《イメージ判定法》で、《8流》のイメージ。

非合法的、非実体的だから、芸術的芸術家。
気体人間。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

白濱さんが指摘している
映画の監督である李纓(り・いん)
は、
インタビューの中で、
次の様に語っている。

■「靖国YASUKUNI」制作の動機
日本での生活が長くなるにつれ、歴史観や社会問題に対する受け止め方など、中国人と日本人の間に大きな隔たりがあることを思い知ったというのが理由です。
中でも衝撃的だったのは、97年に南京大虐殺60周年を迎えた折に日本で開かれた討論会での出来事です。その会場では「南京」というドキュメンタリー映画が上映されました。これは戦前の日本軍によって撮影された作品ですが、この上映中に1000人の観衆の中から拍手が沸き起こり、わたしは機関銃に打たれたような衝撃を受けました。拍手を送った中には、大学教授など、きわめて教養の高い一般人も含まれていました。
ご存知の通り、日本は表現の自由が保障されています。戦争に関する史実についても、さまざまな書籍や映画、報道が多角的な事実を伝えており、日本人の理解が偏っているということはないはずです。にも関わらず、いまだに戦時中の歴史を1つの栄誉と感じている人がいるという事実。そして戦死した者はすべて英雄として祀られている事実。わたしは被侵略国の国民の立場としてではなく、事実そのものを語る立場の者として、映画を撮ろうと決心したのです。
http://www.recordchina.co.jp/group/g18764.html


靖国7.jpg

■白濱
> この中で、監督が体験した南京虐殺についての日本人の反応に
> ついては私も驚きます。私に見えていない現在の日本の一面が
> ここにあるという事でしょう。

パンタ.jpg
■彦坂
南京大虐殺については、
ロック歌手のパンタ(頭脳警察)が、
とりあげてアルバムにしようとしましたができず、
南京の代わりにナチスの虐殺を歌った
アルバム『クリスタルナハト』
という傑作になっています。



その後、私も、
南京大虐殺を作品にしようとして、
調べましたが、
いくつもの文献を読んで行くと難しいのです。

それは中国側が、情報戦を、当時から展開しているからです。

その事自体は、大日本帝国と中国は、交戦関係にあったのですから、当然で、
その事を非難する事は出来ません。

つまり南京の事実を争う事自体が、
情報戦争なのです。

そしてその情報戦は、
今も続いているのです。

美術家の範囲で、扱うのは無理なのです。
そのことは分かりました。

その場合、
私の判断は、まず、この情報戦争の外に出る事です。

私は、どちらの側にも、参戦する意思はありません。
大日本帝国が始めた中国での戦争・・・今も情報戦として継続されているその戦争に、
私は参戦する意味を見いだせません。

同時に、中国側にも参戦する意思は、私にはありません。

戦争というのは、
たとえば碁とか、将棋と同じ様なものであって、
良いも悪いも無いところがあって、勝負で、勝ち負けが決着するのです。
これは100年戦争、もしかすると200年戦争です。
長く続きます。

ですから、私は参戦しない。

外に出ることを目指して来ています。

問題は、外に出る方法です。
そこで、
日本人としてのアイディンティティというのは、
かっこに入れてしまって、
自分自身が何者であるかを問わない所から、
考えると言う方法をとっています。

この方法は、現象学のフッサールの《エポケー(現象学的還元)》と言
う方法と、
『正義論』のジョン・ローズの
《無知のヴェール》を重ね合わせて、考えています。

靖国9.jpg

率直に言って、
白濱さんは、あまりにも素朴です。
素朴な視点で、世界や歴史を理解する事は、
そもそも出来ないのです。
八百屋のおばさんでは、現代の世界情勢や、現代の歴史は極めて複雑で、
理解する事は出来ません。

方法が必要なのです。
少なくともモダニズムというのは、
最低でもデカルトの『方法論序説』を読んで、
《方法》というものが、何であるのかを学習する所から、
始めなければ無理なのです。

そういう事を主張するということは、私は、モダニストであることを、
明らかにすることになります。

ところが、今、私の付き合っている人たちのほぼ全員が、
デカルトの『方法論序説』を読んでいない。

コギトのもんだいや、エポケー、
そして《無知のヴェール》といった、
一連の近代特有の方法を知らず、
そうした訓練をして来ていないで、
素朴な自然的な態度で、外部を見ています。

これでは無理です。

靖国5.jpg


全部を話せないので、
ジョン・ローズの 《無知のヴェール》についてだけ、
簡単に引用しておきます。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ジョン・ロールズ

1921〜2002.アメリカの政治学者。

主著「正義論」などで公正としての正義の説を唱えて功利主義を批判、
広範な議論を引き起こした。

■『正義論』のねらい

19世紀以来英語圏の倫理学と社会科学を支配してきた功利主義の正義観 に取って代わるべき社会正義の構想、
すなわち「ロック、ルソー、カン トに代表される社会契約説」を現代的に再構成した公正としての正義
(justice as fairness)を提唱すること。

■無知のヴェール

正義が、先験的に与えられたものではなく、社会の構成員が合意した原 則によって決まる、と考えた。
そのとき、社会の構成員は「無 知のヴェール(the weil of ignorance)」におおわれた状態 で、
正義の原則を選ばなければならない。

「無知のベール」とは、自身の位置や立場について全く知らずにいる状 態を意味する。
一般的な状況はすべて知っているが、自身の出 身・背景、家族関係、社会的な位置、財産の状態などについては知らな い、という仮定である。
自身の利益に基づいて選ぶのを防ぐた めの装置だ。
それを通じて、社会全体の利益に向けた正義の原 則を見いだせるようになる。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

読んでも、分からないでしょうが、
繰り返しになりますが、
そもそも、素朴な自然的な視線では、
世界も歴史も、理解できないと言うことを、
認めないと、こういう《方法》を学ぶ事は、できません。


このローズは、クリントン政権に大きな影響を与えた人で、
私とクリントンは同じ年齢と言うこともあって、
私も大きな影響を受けていますし、
私は、 《無知のヴェール》という作品も作っています。

私の場合には、内村鑑三、キルケゴール、フッサールという流れを学ん
で来ていて、
その中で、ローズを読み取っています。

ローズの正義論に対しては、多くの批判もあり、
もはや過去化しているのですが、
私が、『靖国』という映画を見る時には、
当然のように《無知のヴェール》を透して見ているのです。

ですから、
私自身の位置や立場について全く知らずにいる状態で、映画を鑑賞しま
した。

一般的な状況はすべて知っているのですが、
私自身の出身・背景、家族関係、社会的な位置、財産の状態などについ
ては知らない、という仮定です。

自身の利益に基づいて判断するのを防ぐための装置です。

こういう《無知のヴェール》を介して映画を見ないと、
日本と中国の、現在も続く情報戦争に巻き込まれてしまって、
映画それ自身を見る事が出来なくなります。


靖国3.jpg

白濱さんの言説には、個人が無いのです。
日本人や日本社会を抱え込んでしまっている。
これでは駄目です。
あくまでも、孤独な個人を、日本社会から切り出して、自立しないと、
同調性でしか、ものを見られなくなります。

たとえば、

■白濱
> 映画の中のインタビューについては様々な立場を見せていてバ
> ランスが取れていると思いますが、随所に織り交ぜられる終戦
> 記念日の狂騒が分量的にも多く
> また終戦記念日の出来事であるという事がわかりにくく、
> 外から見ればこういう事が常態であるかのような印象を与える
> 点に違和感を感じました。


■彦坂
こういう視点や、感想そのものが、駄目です。
「外から見ればこういう事が常態であるかのような印象」という、
外をかってに、
白濱さんの推量する《想像界》の主体そのものが、
無効なのです。

濱さん自身が、孤独に、一人の責任で、何を感じたのかを、
明確に語らなければ、はじまりません。

ありもしない外部の人々の意見を推量で代弁するかの様な主体は、
欺瞞以外のなにものでもありません。

■白濱
> むしろ
> もっと冷ややかであったり無関心であったり、知らなかったり
> する層が多く存在するというのが伝わって欲しかった。


■彦坂
これも駄目です。
この映画を作った監督も、そしてそれを見ている多くの観客も、
他人ですから、
他人の脳みその中を推量し、
それに期待するこうした視線そのものが、
駄目なのです。

白濱さんがいう、そういう多くの存在そのものが、
いないのです。
それは白濱さんのもっているファンタジーです。

こういう視線そのものを解体しないと、
世界や、歴史は、見えてこないのです。

社会的同調性の外に出て、
孤独な個人として映画を見なければならない。

そうしなければ、
否応もなく、現在の日本と中国の情報戦争の、
日本側に巻き込まれてしま います。

私の言っているのは、
白濱さん自身の、主体が、
自然すぎて、無理だと言っているのです。


■白濱
> 一方、靖国神社の位置と意味は神社そのものよりも遊就館を見ればその核心が見えます。
> ここは神社の形をした精神的軍事施設です。
> ここの展示での偏向的な主張にもまた(映画とは別の)私は強烈な違和感を憶えました。

これも無理です。
大日本帝国の国家神道というのは、ひとつのカルト宗教です。
靖国は、一つの新興宗教の様な結晶集団ですから、
そういうものは、違和感において成立しているのです。

それは靖国だけではありません。
アメリカのKKKとか、
ネオナチの集団とか、
そういうものなのですから、
その違和感を批判しても、無理と言うものです。

彼らは、違和感において結晶化しているのです。
それはあらゆる新興宗教に見られる結晶構造です。

■白濱
> 映画に何を期待していたのかと反芻すると、
> 神道と天皇と軍が結び、そこに日本人が盲信して過ちを犯して
> いく過程や心理からその愚かさや脆弱さなどが日本人からでは
> 気がつかなかった視点で描かれているのではないかということ
> です。


■彦坂
この白濱さんの認識そのものが、
不勉強で、短絡的で、無理です。

基本的に、神道は、神道で、勉強しないと、見えません。

天皇は、天皇で、勉強をしましょう。

大日本帝国の軍隊については、これはこれで別に勉強をする必要があり
ます。

歴史の動きは、極めて多様です。

何よりも、中国人の映画監督に、
何故に、白濱さんの望む様なことが、考えられるのですか?

そういう欲望の投影そのものが、
間違っています。

もちろん私自身を含めて、
常にこうした間違いの連鎖の中で生きているのですが・・・。

■白濱
> そういう意味では、
> 日本刀=軍刀=侵略ということや
> 合祀にの取り下げを主張していた遺族のコメント、無念や怒り
> を英霊、愛国に美化する事によって責任の対象を抹消している
> という事、靖国についてこうした知らない事が多いということ
> はこの映画によって得られた貴重なことと思います。

■彦坂
加藤力さんと話して、確認したのですが、
多分、白濱さんは、
この映画を、教育的な中立的なドキュメンタリー映画と誤解しているのです。
この映画は、歴史の教科書ではないのです。

正確な事実としては、この映画はプロバガンダ映画だと思います。

あくまでも、中国側からの情報戦なのです。

この面を明確にして、それに対処しようとすると、
福田和也氏のような、態度になります。
福田氏について、コア氏は次のように、このブログに書き込んでくれました。

■コア
週刊「SPA!」4月22日号誌上で、福田和也氏と坪内祐三氏が映画「靖国」に触れていましたね。

・靖国刀とは昭和8年から20年の間に造られた日本刀であり、明治の廃刀令や、日清・日露戦争で刀を使った事で質の高い刀の消耗や作刀技術の低下が起ったために、それを心配した人々が刀文化の維持・向上のために「日本刀鍛錬会」を立ち上げ、靖国神社境内に工房を造った。

・映画は靖国刀を、あたかもご神体であるかのように描いているが、靖国神社のご神体は、鏡と剣(つるぎ)である。日本古来の神道のご神体は「三種の神器」鏡と剣と勾玉であり、例えば熱田神宮のご神体も剣(つるぎ)である。

・映画では「靖国は日本刀を神様にして、それで日本兵が南京の百人切りをした、みたいな文脈」だがその文脈は捏造と言ってよい。

・福田氏の冒頭の感想は、「コンセプトとして、日本刀を映画のキャッチにしたかったんだね。オリエンタリズムの極地。見る必要なし。」というものでした。

これをみると白浜さんの感想は、一般的なものに近いのでしょうね。

この対談もこの映画を作った中国人の「痛み」についてはまったく触れていませんでした。

私も映画を観て、改めて考えた見たいと思います。

■彦坂
この福田和也氏の態度は、一つの態度で、
かれは公然と右翼であると名乗って登場した評論家ですから、
こういう態度は、それなりのものだと思います。

しかし私は、
あくまでも作品であり、芸術作品として鑑賞することによって、
情報戦争の外に立つ立場を、芸術家として貫こうとしているのです。
私は芸術としてだけで、この映画を評価します。

これはNHKのドキュメンタリーでは無いのです。

そのことを白濱さんは間違えています。

この映画は、
私の視線では、あくまでも中国人の映画監督・李纓の私的な芸術作品で
す。
その面だけを、私は高く評価するのであって、
事実としての情報戦の面は、かっこに入れて、見ないことにしているのです。

それは、ある意味で私が、芸術至上主義の継承者であることを明示してしまうことになります。

世界を、芸術の視点だけで、鑑賞するのです。
それが、このブログでの、私の方法です。

それが、現実であると言っているのではありません。

芸術において、現実をカッコに入れて、
別の視線で見る事で、視野を、開こうとしているのです。

だから福田和也氏のように、見ないということをしません。

右翼というのは、どうしても自閉しているのです。
結晶化していると言うべき自閉せいこそが、彼らの文化戦略です。
私は、逆の方法なのです。
狂気のように、自開していくのです。

■白濱
> なお、ご神体については靖国側は誤認としています。
> 刀匠が放映を了解していないという見解もでています。
> (これについては政治家の介入という事でも問題になっている
> ので判断が難しいですが)
> http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080505ddm012040019000c.html

こういう判断や、問題は、別の次元でして、
今、映画を見る直接性では、
一応、カッコに入れて考える必要があります。

撮影許可を取っていないだろうと言う事や、
刀鍛冶が、分かっていない事は、
見ている段階で、私は予想していました。

日本刀が、御神体の神社は、伝統的にはありませんから、
そのことも予想しないではありませんでしたが、
そういうことは、
間違いも芸術のうちなのであって、
私的非合法性の問題であって、
私の芸術という立場では、問題にならないのです。

■白濱
> 加害者は忘れやすく、被害者は忘れない。
> 広島長崎の被害者からひろげている核廃絶運動がアメリカの博
> 物館展示が頓挫してから行き詰まっているという事を以前テレ
> ビで見ました。
> 被害の悲惨さだけでは伝える限界があるというのです。
> 核は廃絶できずにいるし、抑制も危うくなっている。
> 原爆を落としたエノラゲイのパイロットが来日した際、被害に
> 同情しつつもその攻撃の正統性を主張していた時に私もその限
> 界を感じました。
> もちろん日米と日中の関係は同じではありませんが。

ですから、
ローズの、無知のヴェールと言う方法は、
最低限でも知らないと、無理なのです。
自然的な態度の素朴さで、
この世界の多様性を把握する事は出来ません。

それと何よりも、
多くの事は解決は出来ないのです。

解決のつく事しか解決は出来ないのです。
このことは、重要な真理なのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


■白濱
> 彦坂さんが指摘した通り南京での斬首のシーンを何度も盛り込
> むのは、侵略と無念を執拗に糾弾していくという事から当然で
> すが、
> 少なくとも日本人に対して問題提起していくのに
> ニュースコラージュの部分などそこに収斂させないものはなか
> ったのか?と思います。

■彦坂
なぜ、そんな事を考える必要があるのですか?
映画をつくったのは、他人なのですよ。

何故に、他人の意思に、一観客が介入するのですか?

李纓は、そうしたかったから、古いニュース映画コラージュを、
ああいう風にしたのです。

そういう意見を持つならば、
今度は別の靖国映画を、白濱さんが作る義務があることになります。

白濱さん自身が、自分の考える説得力をもつ靖国映画を作るべきなので
す。

しかしそれが日本人にできますか?
靖国神社は撮影許可を絶対に出しませんよ。
非合法に撮影する以外には、ああした映画はつくりえません。
それだけのモチベーションを持ちえる日本人がどこにいるというのですか?

一つの映画を作るお金と困難さを乗り越えて行く情熱と、
欲望は、大変なものなのですよ。
それをこの中国人映画監督・李纓は持っているから、
私はその正当性を高く評価したのです。

あなたにそんな靖国映画を作りえる、そんな欲望も、情熱も、力も、
どこにもないのです。
もちろん私にも無いのです。

日本人に靖国を主題に映画を作り得ないから、
中国人が作るのです。

日本人に、相撲をとることができなくなったから、
モンゴル人が、横綱を占めるのです。

日本人が演歌を歌えなくなったから、
黒人が、演歌を歌うのです。

黒人.jpg


■白濱
> しかしさきに書いたインタビューでの南京虐殺に対する日本人
> の反応では、
> その収斂も無理からぬ事とはわかりました。

■彦坂
この感想も間違っています。
すでに書いた様に、情報戦争の交戦状態なのです。

その、戦争に巻き込まれていて、
私たちは、事態を正確に認識できないと言う、
そのことを知らなければ、なりません。

そのときに、無知のヴェールは、一つの方法として登場するのです。

> 私自身は、ドイツなどと比べて日本の戦後処理は緩く(ドイツ
> は多額の保障をいまでも抱えている)法的には解決済みとされ
> ていますが心情的にはアジア諸国の理解を得るに足りていない
> と思っています。

■彦坂
心情の問題ではありません。
心情を解決する事は出来ないのです。

問題は倫理なのです。
倫理は哲学です。
哲学無き社会になっている日本社会こそが、
問題なのです。

■白濱
> 戦後日本の繁栄がその上に築かれ(例えば分割統治の回避、朝
> 鮮特需など)運のよさなども手伝った危ういものであり、その
> 結果が現在の凋落に繋がっていると考えています。


■彦坂
これも認識が違います。
まあ、これ以上は止めましょう。

とにかく、最低でも、
デカルトの『方法論序説』を、まず、読む事です。
むずかしい、本ではありません。
短いです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆




nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

nice! 1

コメント 2

コア

ロールズの「正義論」そのものは現在入手困難かと思いますが、川本隆史氏の新訳が出るようですね。
今回も貴重な学習ができました。彦坂さん白濱さんありがとうございました。
by コア (2008-05-12 15:37) 

ヒコ

自分の方法が明確に出来たという意味で、私にも、良い経験でした。同じ歳の清水誠一さんも、大学で最初にデカルトを読まされたようですが、もはや読まない時代になっているようですね。
by ヒコ (2008-05-12 23:08) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。