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建築家・南 泰裕さんの顔(加筆1) [建築]

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いま、マキイマサルファインアーツで、私との2回目の2人展を付き合っていただいている、
南 泰裕さんの顔である。

お付き合いいただいている方の顔を格付けするなどということは、
関係をまずくするから、するものではない。

だが、
先日のINAXのシンポジウムで、山田幸司さんからの質問もあって、
その時は答えずに逃げたのだが、帰って来て写真を見て、
格付けをしてみて、改めて、
自分が何故に、南 泰裕さんと
おつきあい、いただいているのかが、わかった。

《言語判定法》で、《超1流》から《7流》の多層的重層的人格。

《8流》から《41流》という裏の暗い人格は持っておられない、
正統な方である。

《現実判定法》で、《1流》。

《イメージ判定法》で、《1流》。

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界を持っておられる人格。

絶対零度/固体/液体/気体の4様態をもっている建築家である。

まあ、秘密がとけた思いがある。
やさしそうな顔をしていて、《超1流》の人なのである。

《超1流》というと、何か良い様に思うが、
彦坂の格付けで言えば、それは社会常識を超えているということしか、
意味しない。
つまり、「とんでもない人」ということである。

もともと私と南 泰裕さんとの共通性は、キルケゴールの愛読者で、
私は中学生の時に「死に至る病」を読み、
彼は高校生の時に「死に至る病」を読んでいると言う関係であった。

「死に至る病」というのは、絶望について書いている哲学書であって、
二人とも、若くして人生に絶望していたのである。

この南 泰裕さんという人も、だから、「とんでもない人」で、
前回の第1回の2人展の最初の打ち合わせは、
実はアートマネージメントの女性を入れて
3人で話し合ったのだが、延々6時間、疲れ果てたのだが、結論が出ない。
その女性は逃げてしまった(笑)。

この時の、南 泰裕さんのとりとめの無い知的彷徨につきあって、
私は、これは「とんでもない人」であると、
思い知るに、至ったのである。

私自身も、実は、地獄の様な「とんでもない人」であって、
そのしつこさに、へきへきとして嫌悪を隠さない美術関係者は多い。
美術家には、
会田誠さんのように、
いい加減に世界を見ることを方法として自覚化している人が多くて、
知的探求のしつこさが無いのである。
レオナルド・ダ・ヴィンチ的精神が欠けている人が多いのである。
岡崎乾二郎は、私のBゼミでの教え子だが、
彼にしたってダヴィンチの伝統はない。
岡崎は《想像界》の人で、
彼が好きなのは、熊谷守一のペインティングである。
《3流》であって、《超1流》ではない。

そんなダヴィンチ系の私が疲れ果てたという、
南 泰裕さんは、
そのいう人物なのである。

その異様さは、実は知的教養の豊かさを生んでいる。
先日のシンポジウムでも、
多様な実例と画像を駆使してくださって、大変に勉強になった。

アートスタディーズと言う、20世紀の建築史と美術史の洗い直しをする
勉強会をするメンバーとして、
南 泰裕さんを連れて来てくださったのは五十嵐太郎さんで、
南 泰裕さんは、20世紀の哲学を洗い直す勉強会をされていたから、
適切だと紹介されたのである。

本も書かれている。


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以上3冊は、単著である。
共著も多い。


私が、最近本をだしたのも、
実は、この南 泰裕さんを真似したからである。

南 泰裕さんのの『トラヴァース』という本の冒頭と、お尻には小説が収録されている。
私の『彦坂尚嘉のエクリチュール/日本現代美術家の思考』という本も、
冒頭に小説が入っているが、それは南 泰裕さんの本を真似したからである。

さて、私との2回の展覧会で見せられた図面やデッサン、そして模型も、
気の狂う様な数で、
南 泰裕さんはなんで、こんなに作るのかが分からないのだが、
とにかく、知力の限りを尽くす人である。

なぜに、これほど知力をつくすのか?

どうもいろいろ話を聞くと、建築家というのは、
こういう、しつこい人が多いらしい。
妹島和世さんも、とんでもない量のスケッチや模型を作ると聞いた。

《超1流》の人格を持っている人と分かって、はじめて納得したのだが、
とにかく、社会的理性をこえた、異様さである。
真面目すぎる人なのである。
しかも、その真面目さのなかに、
やさしさと、親切がある。
建築が善良さに満ちているのである。

そう言うと、真面目人間で、楽しくないようだが、
そんなことはなくて、
遊び友達で、楽しい思い出も、たくさんある。
夜の新宿をカラオケで遊んだり、飲み屋をはしごして飲んだり、
リスボンの古い街を、ファドを聞く為に、二人で探索したりもした。

ファドは、ポルトガルに生まれた民俗歌謡。
ファドとは運命とか宿命とかという意味であり、
このような意味の言葉で自分たちの民族歌謡を表す民族は珍しいと言われる。
イタリアカンツォーネフランスシャンソンアルゼンチンタンゴブラジルサンバがあるように、
ポルトガルにはファドがある。
そして、このファドを求めて、私は南 泰裕さんと夜のリスボンの街を彷徨したが、
しかしファドの店には、至りつけなかった。
ファドの意味するところの《宿命》に到達しなかったのである。


建築ツアーで、良い建築を見て、
一緒に賛嘆したりしたことも、楽しい思い出である。
一緒に丹下健三の香川県県庁舎も見たし、
白井晟一の芹沢銈介美術館 (1981年/静岡県静岡市駿河区)も、
見ている。

南 泰裕さんは、良い建築が好きで、率直に賛嘆する。
そういう《まともさ》がある。
しかし現代のような異様な時代のなかでは、
こうした《まともさ》は、貴重な事である。

南 泰裕さんは、私にいろいろ建築の見方の、
基本を教えてくれる。
リスボン建築トリエンナーレでは、
アルヴァロ・シザの建築をいろいろと、一緒に見ている。
リスボンからポルトまでいったし、
さらに奥にある
シザのマルコ・デ・カナヴェーゼスの教会も見に行っている。

南 泰裕さんのこの粘着性の理由が、
3界と4様態をもった、極めて多層的重層的な人格構造に、
あるのだということが、
今回、格付けをして理解することが出来た。
そして、この重層的人格が、
心くばりの行き届いた住宅をつくりだす。

少なくとも3界というのは、相互ブレーキとアクセルの関係なので、
南 泰裕さんのとりとめの無い知的彷徨というのは、
この3つのブレーキの存在ゆえである。

《象徴界》というのは、《想像界》にたいしてブレーキになる。
《想像界》というのは、《現実界》にたいしてブレーキになり、
《現実界》というのは、《象徴界》にあいしてブレーキになる。

お断りしておくと、
こういう見方は、彦坂独自の《言語判定法》での観察によってつくられた理論なので、
ラカンのセミナールに書かれている事柄ではない。

どれか、2つのブレーキを、外してしまって、暴走させれば、
早くに決着すると思うのだが、その決断を選ばない。
3つのブレーキが作動している人格者は、
下手をすれば三すくみになる。
三すくみを辞さない人なのである。

私には、こういう真似は出来ない。

ブレーキを踏んだまま車を走らせるのは無理なので、
何か行動を起こす時には、
とにかく、2つのブレーキを外してしまう必要がある。
そういう決心をする必要があるのだ。
南 泰裕さんの《まともさ》は、暴走を選択しない。

いや、この南さんの《まともさ》というのは、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもっている、
その複合的多重性の人格的成熟が生み出しているのだが、
成熟しているからこそ、《まとも》なのである。

私自身も、非常に《まとも》な人で、
美学の谷川渥さんからも「彦坂さんはオーソドックスですね」と
言われて来て、事実そうだったので、
こういうブレーキの存在は、良く知っているのである。
私の場合には《象徴界》が、異様に強いのである。

それがこうしたブログの言語を生む。
南さんの著作もまた、同じ様な理由かもしれない。

最近は、私はその頂点に至ってしまって、
その先をどうしようと、考えることになっている。

そうすると、ブレーキを二つはずして、
暴走させることの喜びが、見えて来たのである。
その辺の事情は、建築家の山田幸司さんや、
石上純也さんを見ているうちに、これもありだな、と
納得がいって来たからである。

とりあえず、まず、《象徴界》を外してしまう。
《象徴界》を否定するのは、《現実界》である。
《現実界》に、すべてを還元してしまう。

何故に、そういう作業が必要かと言えば、
現代という気体分子時代は、
人間の人格までをも、ばらばらに解体してて来ているのであって、
統合された人格というのは、素晴らしい存在であるが、
古典的すぎて、時代にそぐわないのである。

その場合、統合の反時代精神も重要だが、
しかし南 泰裕さんのように、精神の3界を持ち、4様態すべてを持っているという、
優れた人格の総合性は、
今の時代には、生きにくくなる。

その《まとも》すぎる建築は、
親切で、良すぎるのである。

人格を解体して、
《象徴界》を外してしまうことも、
ブレーキをはずさなければ、車は走らないのだから、
重要なのである。

ついでに《想像界》も外してしまう。

《現実界》だけになると、
とりあえず、すっきりと、自動車は走るのである。

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この屋上に芝生を敷いた家を、
私は最初にスケッチで見せられた。

素晴らしい家で、私もこういう家に住みたいと思った。

それから、南さんとのおつきあいが深まった。

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所在地      :東京都
用途       :二世帯住宅(親世帯+子世帯)
敷地面積/地域   :30.81(m2) / 第一種住居地域
建築面積/延床面積 :180.22(m2) / 195.46(m2)
主構造      :鉄骨造
階数       :地上2階 + ロフト
設計    :南泰裕(アトリエ・アンプレックス)
設計協力  :日高郁子

敷地の特性を十分に活かしつつ、
「光と風と緑の感じられる、明るくオープンな空間が欲しい」という住まい手のリクエストを最大限に実現した2世帯住宅です。

基本構成は、建築の大半を平屋とした上で、その上部を全面緑化し、
緑化斜面によって上下階をつなげる形としています。

これにより、1階と2階は地上庭・緑化斜面・屋上庭園によってつなげられ、
両世帯のそれぞれに十分な庭を確保しています。
また、半戸外的な空間が地上庭に繋がり、
屋上庭園を経て2階のギャラリーへとつながることで、
途切れることのない内部と外部のつながりを生み出しています。

内部空間については、両世帯ともできるだけオープンで開放的なプランとした上で、
必要に応じて仕切れるようにしました。
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南 泰裕さんの、最大の欠点は、
こうした、《まとも》な、
住むのに良い家を、
親切に設計してしまう事である。


南泰裕/アトリエ・アンプレックス《spin-off》

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この家は、オープンハウスで見に行っている。
3階建てで、三階が、各階で回転しているという家である。
だから、《spin-off》である。

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知的で、刺激的で、そしてシックな家であった。

この家のデッサンや模型は、最初の2人展であった
ギャラリー手で見ていたので、
なおさら、感慨深くて、心に残る家であった。

所在地      :東京都葛飾区
用途       :二世帯住宅(親世帯+子世帯)
敷地面積/地域   :65.90(m2)
建築面積/延床面積 :35.36(m2) / 86.01(m2)
主構造      :鉄骨造
階数       :地上3階 + ロフト
設計    :南泰裕 / アトリエ・アンプレックス
担当    :南泰裕 佐竹俊彦

東京都内に建つ2世帯住宅。周辺環境の特性を注意深く分析し、採光や通風、プライバシーの確保といった、
居住環境条件を総合的に考慮した計画とした。

その結果として、ブランクーシの「空間の鳥」を初期イメージとしながら、
建物が上部へと行くに従って、時計回りに少しずつねじれる形態を導いた。

それにより、太陽の軌道に呼応するように空間を配置させ、
自然光を最大限に採り入れるようにした。
このアイデアによって、外部の気配を感じ取れると同時に、プライバシーを保護し得る適切な形態が導き出されている。

内部空間については、1階部分を親世帯夫婦のスペース、
3階部分を子世帯夫婦のスペースとし、
それらをつなぐ領域として2階部分を共有の広間スペースとしている。

限られた敷地の中で、2世帯住宅として駐車スペース2台分、
水周り2世帯分、
テラス、中庭、ロフト、和室、オープンキッチン、屋外階段および屋外スペースと、
求められた設計条件を最大限に満たしている。
その上で、空間のつながりと分離、開放性と閉鎖性の両立を目指した。

構造的には、鉄骨ラーメン構造により、
これらの複雑な空間の組み立てが可能になっている。
なお、屋上スペースは、将来的に屋上緑化をほどこすことができるよう考慮されている。
外壁は、断熱材を挟み込んだガルバリウム鋼板とし、
さらにその内側に断熱材を補強することで、断熱性の高い住宅としている。

3層の家ということで、私は金閣寺を思った。私は外壁に金箔を貼りたかった。
下記は動画です。

すべてが馬鹿げて無意味になって行く時代に、良い家なんか、何の意味も無いのである。良い家なんか、いらない時代なのである。ひどい建築が喝采を浴びる時代である。そういう時代に、しかし、南さんは、膨大な作業量を経て、知的な、複雑な、良い家をつくってきた建築家であった。

南 泰裕さんのブレーキの下に眠る才能は、すごいものがある。どこかで、壊れれば、ブレーキは外れる。そうすると、悪魔の様に、ひどい家を設計する様になるのではないか? 絶望的にひどい、無知無能のかたまりのような家をつくる南 泰裕さんを、私は夢に見たいと思う。

すべてが解体して行く時代に、私たち自身の人格ももまた、壊れて行くのである。
建築も壊れて行く。芸術も壊れて行く。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし、社会というものは、必ず是正するのである。社会的理性と言う《1流》領域を信じる必要がある。
社会的理性は、かならず立ち上がる。悪貨は、良貨を駆逐するという原理は、確かに不変である。
悪は強いのである。しかし悪は、永遠には栄えない。悪人は、かならず、滅びる。

むかし、日本酒が劣化して、甘い砂糖水になってしまったが、地方で良いお酒を造り続けた人たちは、
再び反撃する時代を迎えた。純米酒のおいしさは、奇跡であった。奇跡は、必ず起きる。

良い建築をつくりつづけることを、あきらめてはならない。
良い芸術を作り続ける事を、あきらめてはならない。
奇跡は、必ず、起きる。

悪い建築と、悪い作品は、無くなりはしないが、しかし必ず、衰弱する。



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巨乳女教師

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by 巨乳女教師 (2011-10-16 18:07) 

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