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解説ということ(改題、加筆2 校正) [アート論]

作品の解説が必要で、それをきちんとする必要があるというのが、村上隆や会田誠の主張であったと思います。

当たり前と思われるかもしれませんが、実はモダニズムはそうした解説を否定していたのです。純粋に見れば分かると言う主張が、あったのです。

近代というのは、批評と批評家が機能として確立して行った時代であったこともあります。

作家は、自作解説というのは避けて来たところがありますが、そういう事が必要であると言う事を、私も遅まきながようやく認めて来ているのです。何よりも批評が壊滅し、美術評論家が無力化し、自閉している傾向が強くて、書いてくれないからです。歴史認識は、特に弱い。いや、私は、そういうことを認めるのは、もっと早かったのですが、自作解説というのは出来てこなかったのです。

下記は、タマダプロジェクトでの展示に付けたその試みですが、まだまだ不十分です。

再読して気がついたのは、欠けているのは美術史的記述です。ポロック、白髪一雄、元永定正、そして彦坂尚嘉という流れを書く必要があります。私のフロアイベントから、ドローイングから、最新作のグジャグジャ君シリーズまで、そうした展開であると言えるからです。

 

■通俗的解説■彦坂尚嘉のフロア・イベント

 1970年にはじまり、現在まで40年近く続くフロア・イベントは、彦坂尚嘉の代表作である。

最近ではこの作品は2000年、2003年、2006年と3回の越後妻有トリエンナーレでも、展開されている。

2006年には床全体が赤いビニールに覆われ、戊辰戦争で祖父を除いて全員戦死した彦坂家の位牌が並べられるなどした、歴史的背景を示した作品になっている。

 

今回展示されているモノクロ写真は、1970年の最初のフロア・イベントである。

ラテックスという生ゴムを8畳の畳の上に、大量に流したもので、この1970年の現代美術の作品として、美術史的評価の高い作品である。

 

■この作品は、椹木野衣の『日本・現代・美術』の口絵にも掲載されている。

■建畠哲の戦後前衛美術史の中でも、最後の前衛作品として、評価されている作品である。

2001年にニューヨークのクイーンズ美術館で開催された『グローバル・コンセルチュアリズム』展ではカタログの表紙に採用されている作品である。

■ロスアンジェルスにあるゲッティ・インスティチュートでも、このイベントの案内状が購入されている。(実はこの案内状は、情報アートの作品であった。)

2001年のテートモダーンで開催された『センチュリーシティ展』では、このフロア・イベントのアニメ化された映画が上映されている(日本では未公開)。

 

このイベント作品の特徴は、当時の現代美術の芸術の文脈を引き受けて作られた芸術論的な作品であることにある。

その特徴を述べれば、1960年代の反芸術運動を論じた宮川淳の「芸術の日常性への下降」というテーゼを、直裁な形で作品にしたところにある。

世田谷三宿の自宅で開催されたこのイベントは、現在でこそ、普通の民家での展示は一般化しているが、それが1970年に日本家屋の自宅で行われたことは、日本現代美術史上一番早いものであった。

畳を現代美術の作品として使用することも、多分一番早く行われた作品である。現在では会田誠ら若い作家には畳の使用は多く見られるが、その先駆的な作品なのである。

彦坂は、1969年に床に透明ビニールを敷いた作品があって、これがラテックスというゴムの素材に置き換えられている。ラテックスは、最初は白いのだが、次第に乾いて、透明な皮膜に変貌していく。

自分の生活している生活世界を見つめ、それを見つめること自体を芸術の問題として作品にしたのである。人間は自分の立つ足元を、きちんとは見つめないで生活している。この自分の生活をカッコに入れて見つめなおそうとした作品で、思想的にはフッサールの現象学的還元という手法を美術化したものである。

彦坂は、現在ニューヨークで活動している現代音楽家の刀根康尚とともに現象学研究会を当時主催していて、フッサールの哲学的な視点を、現代美術の中に導入してきたのである。それは普通の生活の中にいる自然的な態度を、視覚的に反省するというもので、日常生活をラテックスという皮膜で阻害することで、新たな目で見つめなおすというものであった。

ラテックスというものが、コンドームに使われている素材であり、そしてまた彦坂が全裸でゴムを散布していることから、2ちゃんねるでスレッドがたって、その白いラテックスと精液の連想から、そうした性的な作品という解釈も語られている。時代背景的には、屋外で全裸になって走るというストリーカーが出現していた時代で、ポルノの解禁も進み、芸術の日常性への下降と言う宮川淳のテーゼは、文化そのものの下降運動となって、性的タブーの解除へ向けて、進んでいた時代であった。彦坂自身も、低俗映画研究会、異端文学研究会、実演研究会を主催しており、当時の性的解禁に対して、積極的な探求をしていたのである。

 彦坂尚嘉フロアイベント***.jpg

カラー写真で展示されている作品は、京都のギャラリー16までに引越しをして繰り返されたフロア・イベントで、彦坂が引越しをした作品なので、「引越し坂」と呼ばれた。この写真作品では、真っ白であったラッテックスが、次第に半透明になり、最後には引き剥がされて、元の白い画廊に戻されるという作品経過をとる。

ここにあるのは、実に静かな時間の経過なのである。しかし現実はこの始まりと終わりは日本赤軍の浅間山荘事件に対応していたのである。

彦坂が結成に参加した美共闘の結成は、実は1969年の日本赤軍の結成と同時期であった。

そしてまた彦坂は、1968年に多摩美術大学の講堂で、若松孝二と足立正生の『胎児が密漁する時』と言う芸術的サドマゾ映画を上映し、その上映会に、その後で日本赤軍に合流する足立正生を、呼んでシンポジウムをしているのである。

彦坂自身は、日本赤軍登場の時点から、赤軍には反対の政治性を明確にしていたが、しかし人脈的にはその後、松田政雄の『映画批評』で映画批評を執筆するなど、赤軍系の人脈に接して、そうした映画批評も書いているのである。

こうして彦坂の立つ床は、実はこの時代の激動の中にあったといえる。静謐に見える、ラテックスに包まれた床の視覚の向こう側では、実は浅間山荘での銃撃戦が展開されていた。

そして今、若松孝二監督の『実録・連合赤軍/あさま山荘への道程(みち)』という日本赤軍映画が上映されている時期に、このフロア・イベントの回顧的展示がなされたのである。さらに朝日新聞社から出版された『若松孝二 実録・連合赤軍/あさま山荘への道程』という単行本を出版した編集者が、実は彦坂の『皇居美術館空想』の出版を企画し、来年1月7日発売の編集を進めているのである。

そういう時代の匂いを強くもった作家が彦坂尚嘉であり、そしてその「日常への下降」の過激な現代アート作品が、このフロア・イベントであるといえるのである。


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