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批評について(2/校正3/最後に2文を加筆・画像追加)苦痛と快楽 [アート論]

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《想像界》の眼で《13流》
《象徴界》の眼で《13流》
《現実界》の眼で《13流》
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界で、デザイン的エンターテイメント作品。

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《想像界》の眼で《13流》《象徴界》の眼で《13流》
《現実界》の眼で《13流》
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界で、デザイン的エンターテイメント作品。

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《批評》という言葉そのものの定義が、
多分、私のそれは、他人のそれとは少し違うのです。

それはともかく、
《批評》で近しい人を語ると、かなりの苦痛であるのは、驚きであります。

白濱雅也さんと向き追う事が、
こうした《批評》の精神を介して向き合うと、
何かが壊されるのであって、苦痛を生じる。
その壊されるものは、自分自身の中にあるものでもあるです。

ならば、苦痛なことを止めれば良いのですが、
それは止まらなくて、自動批評機械として、作動し続けるのです。

おそらく私も、白濱雅也さんも、芸術を間違えているのです。
たとえば川久保玲は、自分のファッションを決して芸術であるとは言わないのです。
それは押井守もそうであって、彼は芸術を作っているのではないのです。

白濱雅也さんが、自身の作品を、川久保玲や押井守のように考えるとすると、
どうなるのでしょうか。

たとえば、アンパンマンの街角に立つ人形のようなものを、
白濱さんがつくっていって、決して自分のものを芸術であるとか、
彫刻であるとか言わなければ、どうでしょうか?
そのくせ、他人がそれを見て、川久保玲や押井守の作品のように、
芸術であると、賞賛したとしたらどうでしょうか?

童話や絵本の絵を、白濱さんが描いていて、
決して自分のものを芸術であるとか、絵画であるとか言わなければ、どうでありましょうか?
そのくせ、他人がそれを見て、川久保玲や押井守の作品のように、
芸術であると、賞賛したとしたらどうでしょうか?

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《想像界》の眼で《13流》
《象徴界》の眼で《13流》
《現実界》の眼で《13流》
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界で、デザイン的エンターテイメント作品。


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《想像界》の眼で《6流》
《象徴界》の眼で《6流》
《現実界》の眼で《6流》
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界で、デザイン的エンターテイメント作品。

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同じ事は、彦坂尚嘉の作品にも言えて、
タマダプロジェクトに並べた写真は、まず何よりも写真であり、記録であるのです。
たぶん、ここでは逆転が起きていて、
多くの人は、これを芸術であるとは言わないのかもしれませんが、
それを彦坂尚嘉は芸術であると言うのです。

つまり、芸術ではないとされるものを芸術であるという彦坂尚嘉は、
実は川久保玲や押井守とは、逆の形で制作をしているのです。

この逆転の構造の中で、
何かが錯誤されていて、
白濱雅也さんは、奇妙な自己欺瞞を追い続けることになる。

またまた、こういう事を書くと、
なにを書いているのか分からないと言われるでしょうが、
芸術を巡る言説というのは、奇妙な迷宮になるのです。

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白濱さんの作っているのは人形であって、
彫刻でも、芸術作品でもないのです。

人形は人形を追いかける事でしか、決着はつかないのです。

そして同時に白濱さんは、芸術それ自身を探求していないのです。
芸術を探求していないくせに、芸術という文脈で評価されたがっているのです。

たぶん、白濱さんは、アーティストという身分に、幻想を抱いているのです。

村上隆さんや、奈良美智さんが作ってるものは《売り絵》であって、
彼らは川久保玲や押井守と同様に、自分の作っている物が芸術であるとは思っていないのではないでしょうか?

しかし白濱さんは、《売り絵》/《売り作品》を作っていないのです。

私は、たとえばタマダプロジェクトに並べたフロアイベントの写真作品にしても、
あれを売ろうとしているのであって、そういう意味では《売り作品》なのです。

白濱さんは、そういう意味では、《売り作品》の完全性を追求したものを作らないのです。

川久保玲は《売り物》をつくり、押井守も《売り物》をつくり、
村上隆も《売り物》をつくり、奈良美智も《売り物》をつくり、
彦坂尚嘉も《売り物》をつくっているのですが、

白濱雅也は《売り物》を、完全な形で追求し、作ろうとしていないのです。
《売り物》に対して、どこか腰くだけになっている。

つまり問題なのは、白濱雅也さんが、《売り物》を作らない事にあるのです。

今日、テレビで、宮崎駿のドキュメンタリーを見ていました。
NHKの『プロフェッショナル』という番組です。

そこで、宮崎駿は「他人を喜ばせたいと言う欲望」をストレートに語っていました。
「他人を喜ばせられなければ、自分の価値が無い」と言うのです。
もちろん、宮崎駿の作っているものは《売り物》です。

《売り物》を作るというのは、そういうことであって、
他人を魅了し、他人を喜ばせる事を目的にしているのです。

この他人を魅了し、他人を喜ばそうとする欲望こそが、
問題の基本にあるのです。

他人に快楽を与える事、それが重要なのではないでしょうか。

そのことが、芸術とエンターテイメントに共通する基盤なのです。

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何故に、白濱雅也さんは、《売り物》を腰を据えて作らないのか?

何故に、本田真理子さんは、《売り物》を腰を据えて作らないのか?

何故に、加藤力さんは、《売り物》を腰を据えて作らないのか?

各自の理由があると思いますが、
ひとつは、《売り物》をつくることが、苦しくて、難しいからです。
みんな、苦しくて、難しいことは、やりたくないのです。

それと多分、
宮崎駿のようには「他人を喜ばせたいと言う欲望」を持っていないのです。
「他人を喜ばせられなければ、自分の価値が無い」と言う脅迫的な価値観を持っていないのです。

もしかすると、「他人を喜ばせるよりは、自分が喜びたい」と、思っているのかもしれません。つまりフロイトの言う快楽原則です。自分の快楽を追求しているのです。しかし、社会的に生きるというのは、多かれ少なかれ、快楽の追求を抑圧しなければなりません。セックスがしたくなったからといって、女性を押し倒して電車の中で強姦をすれば、罰せられるのです。ですから、欲情しても我慢しなければなりません。快楽の追求は禁止されるのです。

同様に、美術家になるのは、自分が楽しむ事は抑制しなければなりません。実は、私の作品制作そのものは、楽しくないのです。苦しいのです。たぶん、村上隆さんや、奈良美智さんも、楽しくないのかもしれません。宮崎駿さんは苦しんでいました。
プロフェッショナルな仕事というのは、他人を楽しませる事であって、自分は楽しくないのです。

自分が作品制作で楽しみたいと思うのは、それはアマチュアであって、いくら夢中になって制作していても、他人が夢中になるものを作れなければ、それは美術を消費している事なのです。つまり制作と言う姿はしていますが、自分で楽しんでいて、他人が楽しんで買わなければ、それは消費物なのです。

消費をしてはいけないのではないのであって、道楽というのは、誰にでも必要なのです。パスカルの言葉で言えば、《きばらし》です。《きばらし》としての美術制作です。それを楽しむ事は、それはそれで重要な事なのです。ですから、制作が楽しければ、他人の賞賛が得られなくても、それはそれで満足するべきなのではないでしょうか。

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《自己満足の制作》と、《他者満足の制作》を明確に2分する事が、良いのかどうかは分かりませんが、分割してみる値打ちはあります。一度、完全に切り分けてしまう。

《他者満足の制作》というのは、仕事としての制作という事ですが、それを明確にして、枝葉を切り落としてしまう。そういうことが必要な時期に来ているのだと思います。



タグ:制作
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コメント 1

満腹

やはり、難しい。
飛んでいる矢と追っている矢が違うようなものであるというのは、なんとなく分かるが。
決意と覚悟を持って読んでみても、やはり、理解に苦しむ。
脳レベルが《40級》なのだろう。

by 満腹 (2008-08-06 12:40) 

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