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《自己愛》性人格障害とアーティスト[改稿版] [アート論]

《自己愛》性人格障害とアーティスト[改稿版]


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送検のため土浦警察署を車に乗せられ出る金川真大容疑者


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自己愛性人格障害」という精神鑑定結果が、
金川真大(まさひろ)容疑者/韓国名 金 真(24)に出ました。
茨城県土浦市のJR荒川沖駅周辺で、
8人を殺傷した事件の犯人です。

自己愛性人格障害」の人が、無差別殺人テロをするというのも、
ずいぶんと刺激的な話です。
この殺人者の顔を、彦坂流に人相見をしてみます。

金川真大(まさひろ)容疑者の顔

《想像界》の眼で《16流》
《象徴界》の眼で《16流》
《現実界》の眼で《1流》

《現実界》の人格。
気体人間

金川真大容疑者の顔に、《16流》が存在していることは、驚きです。《16流》というのは崩壊領域です。前に山部泰司さんのところで、彼の作品が《16流》を内包していることを書きましたが、崩壊領域を内包している人というのは、珍しいものです。バンドで言うと、ポップグ・ループ、そしてモーターヘッドです。

モーター・ヘッドは長期の活動を展開している例外的なバンドですから、崩壊領域を抱えて生きて行く事はできるかもしれませんが、《16流》という崩壊領域を《想像界》《象徴界》に持つ、金川真大容疑者は、殺人に至らざるを得ない精神的荒廃領域を2つも抱えていたと言えるでしょう。

しかし《現実界》では《1流》の人で社会的理性領域をもっているし、なかなかハンサムな青年でありますから、この《1流》の社会的理性性の面で踏ん張って生きる事は、出来たかもしれません。せっかくの人生を、殺人犯に転落してしまうのは、もったいない話で、亡くなった被害者の方もたいへんに気の毒ですが、人者になってしまった金川真大に対しても残念に思います。

しかし殺人に走る動機とか原因が、「自己愛性人格障害」であると言うのも、普通に考えれば極めて矛盾する話です。《自己愛》が、殺人者になるという、いわば自己破壊に結果しているのですから。

《自己愛》というものが、自己破滅になるということが、実は重要なのです。《自己愛》というのは、そういうものなのです。《自己愛》は、フロイトの言う《死の欲望》を抱え込んでいるものなのです。《自己愛》とタナトスは、密接に関係があります。

たとえば、明日は試験。
勉強しなければならない。
しかし、嫌でテレビを見ている。
勉強しなければ、自分の不利益になるにもかかわらず、
テレビを見ている。
この欲望が、《自己愛》です。

たとえばタバコを吸っている。
肺癌の危険性もある。
友人のテッちゃんは、少し前だが、肺癌で死んでいる。
しかし禁煙が出来ない。
止める事を考えながらも、
高いお金を払いながら、健康に悪いタバコを吸っている。
タバコを吸っている、そういう欲望が、《自己愛》です。

たとえば先生の葬式がある。
葬式に行かなければと思いながら、
画廊で酒を飲んでいる。
大学葬だし、行かないと教授というてまえ、
まずいのに、行かないで酒を飲んでいる。
社会的な信用を失ってもなお、
酒を飲む欲望が、《自己愛》です。

《自己愛》というのは、自己破滅を内包した、不思議な欲望なのです。本質的には、フロイトの言う死への衝動を内包している欲望と言えるものです。そこでその逆を考えてみたいのです。自己憎です。自己愛が死への衝動を内包し、自己破滅に導くとすると、その反対の自己憎は、実は自己破滅の反対である自己達成へと展開するのです。

自己憎があれば、明日が試験であれば嫌でもテレビは止めて、
勉強をするのです。
つまり自分が嫌な事をするのです。

自己憎があれば、苦しくてもタバコを止めて、
禁煙に成功するのです。

自己憎があれば、
嫌でおっくうでも、
恩師の葬式に出席して、
社会的信用を維持するのです。

自己憎こそが、実は、人間にポジティブな成功をもたらす、
基本なのであります。
ですから、自分を憎む事をお薦めします(笑)。

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こうした犯罪者と、アーティストの人格が、かなり似ているのです。
私自身を考えても、精神の内側に荒廃はあるし、殺意や、破壊衝動は、幼年期よりありました。小学校から帰る道すがら、イメージの中で、刀で気に入らない人物を袈裟切りで斬り殺すことは、繰り返していました。これも成長期化期において、避けられない痛みや恐怖から自己を守るための働きであって、
自分を守る為に他者を攻撃し、排除しようとしていたのでしょう。

芸術家と犯罪者が地下茎でつながっていると考える考え方は、実は昔からあるものなのです。一つは1963年に犯罪者同盟というのが、平岡正明と宮原 安春によって結成されますが、この犯罪者同盟とハイレッドセンターの活動は、つながっていたのです。赤瀬川原平の『オブジェを持った無産者/赤瀬川原平の文章 (1970年)の中に、そうした記述があったという記憶があります。そして事実、赤瀬川原平の千円札事件は、この犯罪者同盟との関係で、摘発されたのです。

もう一つ最近では、村上隆が、ワシントン条約で禁止されている絶滅にひんしている動物の皮をつかったランドセルの作品が有ります。この作品は、何回かの回顧展には出て来ていません。こうした犯罪性を芸術が、何らかの形で共有する事は、一つには芸術が持つ《非合法性》という性格ゆえのものです。このブログにたいしても、何人かの方からご批判があるのは、どこかに潜む《非合法性》ゆえのものです。このブログそのものを、私は作品と考えているからです。いろいろなご批判は分かりますが、
私自身は確信犯です。ですから、極めて注意深くしています。同時に本名で、責任を取る形で、書いているのです。私は実名で書いていて、一切の責任を取ると言う、そういう立場でいるのです。

ナルシズムというか、自己愛の強い人は、
現代アートの作家に多いのです。
私自身も、昔は、ナルシストであると言う批判を友人から何回かもらっています。
しかし、なぜに言われるのか、本人には自覚がありませんでした。
自覚が無いという事は、逆に言えば、ナルシズムが強かった可能性があります。

もっともナルシシズムは幼児の6ヶ月から6歳でしばしばみられ、
子供の成長の中で、お母さんから分離して、自立化していく成長期化期において、
避けられない痛みや恐怖から自己を守るための働きであって、
これを一次性のナルシズムと言って、正常なものです。

つまりナルシズムというのは、痛みや恐怖から自分を守るための働きなのです。
そのことは重要です。しかしナルシズムが行き過ぎると、今度は自分を守ることが反転してしまって、自分自身を破壊して行く様になります。
防御機構が、自己破壊機構に転倒するのです。
自分自身を本当に守る為にも、
自己愛が自己破壊になるというメカニズムを知っておく必要があるのです。

思春期にみられる二次性ナルシシズムになると、
ナルシズムは自己破壊性を持って、病的になる可能性が出て来ます。
思春期から成年にみられる自我の確立と深く連動したもので、自己への陶酔と執着がつよくて、他者の排除に至る思考パターンをつくります。

自分を守る為に他者を排除するのですが、しかし人間は独りでは生きて行けません。社会の中に入って生きるが必要なので、他者を排除しすぎれば、社会に入る事がうまくいかなくなり、自分の不利益に跳ね返って来ます。美術家や芸術家になるタイプの人は、多かれ少なかれ、社会の入って行くというイニシエーションを拒絶する面を持っていて、ナルシズムが強く、社会的不適応性を持っていると言えます。

この他者の排除をする思考パターンを持っているところが問題を起こすのです。強く他者を排除しますから、他人の感情に鈍感で、他人に感情移入することが少ない人になります。他者を排除するくせに、矛盾するようですが、逆に過剰に他人に依存する形になります。この転倒機構も、重要な事であります。

日常生活における自分の役割について過剰に他人に依存することが、問題を病的にして深めて行きます。過剰に他人に依存するというのは、いろいろな例があると思いますが、アーティストのばあいであれば、アートを続ける為に、大学の職に就職といったこともそうだし、親のスネをかじっているというのもそうであります。

美術家の場合、美術作品だけで食べていない場合、基本的に職業構造として、他人に依存していると言えます。つまり大学教授をして、美術作品も作っている場合、他者に依存していると言える例が、すべてではないにしろ、あると考えられます。依存しているくせに、自分の制作や作品になると、他者を排除しますから、他人の感情に鈍感で、観客のに感情移入することが少ないアーティストになります。つまり他人を魅了する形で作品を作れなくなります。独りよがりのつまらない作品を、延々とつくって、自己満足に浸る作家になるのです。

美術で食べて行くというのは、しかし多かれ少なかれ売り絵なり、売り彫刻を作っていると言う面を持っています。高度の美術作品をつくっていても、売っていない人は、他人を魅了するということに全力を賭けてはいませんので、そういう姿勢は作品に出ます。

確かに高度なのですが、サービス精神がないどころか、わざっと、面白さを排除し、他人の注意をひかない様な作品をつくって、自分が高度であると言う自負心に、のけぞるほどにプライドをもつのです。

そういう高度な表現者でありながら、それを売って食べていない人は、当然他の依存によって収入を得ているので、そういう形の場合には、自己愛性人格障害の症状が出ている可能性はあるといえます。

そして高度の芸術性を達して、あるいは文化的勲章をもらうなど社会的地位や目標の達成により、自分の満足と周囲の注目を得ようとすること、さらにその自慢することが挙げられます。
こうした二次性ナルシシズムが、「自己愛性人格障害」を引き起こす例が、すべてではないですが、あり得ます。

村上隆さんが指摘していた事ですが、日本の社会というのは、何か傑出しても、評価をしない社会と言えます。イチローが日本でいくらヒットを打っても、そして野茂がいくら頑張っても、日本では十分な評価を得られず、外に出て行ったという事には深い意味があります。その意味では、周囲の注目を得ようと言う努力そのものが、日本では意味が無い事と言えます。

先日会った女性は、インドに住んでいる人でしたが、インドもそういう社会で、他人の傑出した活動を評価しないと言っていましたが、アジアにはそういう傾向があるのかもしれません。

その理由は、社会そのものが同調性で動いていて、異質なものを排除するシステムだからです。そういう同調性の社会の中に、自己愛性人格障害が多いのか、少ないのか、興味のある事です。




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 精神鑑定の結果、金川容疑者は、極度に自分が重要と思い込む性格の「自己愛性人格障害」であるということです。金川容疑者は「おれは神」という内容のメールを、事件の数日前に自分の携帯電話から自宅に残した別の携帯電話に送っているのです。

こういう「おれは神」と信じるような「自己愛性人格障害」的な面は、アーティスト全般にあるのかもしれません。草間弥生さんとかには、強く感じます。

私自身は、中学性の時に内村鑑三の無教会主義のキリスト教をくぐっていますので、自分を神とは思いませんが、金川容疑者とまったく無関係とも思えない所があります。それは空手をやってもそうですが、立ち会いというか、殴り合いが好きです。命をかけて人と争う時の精神の緊張と、死の匂いが好きなのです。

しかし「自己愛性人格障害」というのは、変な精神障害です。自分を強く愛するのならば、殺人者になることはしないはずの事です。殺人者になって、逮捕されて、死刑になったとすれば、それは自分の人生を愛することではなくて、自分自身を破壊する行為であって、自分を憎んでいるように思えるからです。

新聞で読むと、金川容疑者が特殊な人の様に思えますが、実はこうした「自己愛性人格障害」の人物は社会の中にたくさんいて、そして美術界にはさらに沢山いるのです。作家はもちろんですが、評論家、学芸員、そして貸し画廊の経営者、さらには画商、ディーラーにも、多くいる様に、私には思えます。

もっとも人格障害の病名はたくさんあります。妄想性人格障害、統合失調質人格障害 、非社会性人格障害、情緒不安定性人格障害、演技性人格障害 、強迫性人格障害、回避性(不安性)人格障害 、依存性人格害。

確かに人間はおかしいし、社会的に不適応性を示す人は、普通にそこいらにごろごろいる事も確かであって、人間全体が、さまざまな人格障害を持っていると言えます。障害者に怒りを向けても、始まりません。その意味では、障害者にやさしくするという意味で、あらゆる他人にはやさしくするべきであると、改めて思います。

最近は言わなくなりましたが、人格者という言葉があって、すぐれた人格者になるというのは、人生の努力の大きな目的であったのです。人格という言葉自体が、明治の時期に哲学的な概念として輸入され、井上哲次郎が造語したものです。 人格は英語ではperson、ドイツ語でもPersonですが、もともとはラテン語のpersonaから来たそうで、ギリシャ語のπρόσωπον(顔、仮面)が語源であるといいます。

そういう意味で、顔に人格が表れると、言えるのだろうと思います。私は人の顔を重視して、顔を一つの絵画として鑑賞し、芸術分析をしているのです。そして美術作品というのは、おおむねその作家の人格構造と類似性が高いと考えます。つまりその作家の顔から、その作家の人格構造が読み取れ、さらにその作家の作品構造が推定しえると考えるのです。それは自分が作家である事の反省と、他の作家の観察からの経験的な類推です。

もちろん顔の問題も、そして人格障害も、私自身に跳ね返ってくるものです。そういう意味で、私自身にも自己愛性人格障害も、境界性人格障害もあると思います。

自分を神と思い、
自分を世界の中心に置いて、
自分を中心にしてしか物事を考えない人間は、
美術の世界には、
沢山います。

それが芸術家の道であると信じられています。

アメリカ精神医学会の診断基準「DSM−4」(「精神障害の分類と診断の手引き」の第4版、1994年によると、自己愛性人格障害は「自分が重要で素晴らしい」という大げさな感覚を持つことだというのですが、それは『下流社会』という本が指摘していた様に、下流の人間に色濃く有る《万能感》の問題でもあります。


自分を愛するという行為は、健全な心の発達のためには必要なものです。しかし、それが病的に肥大化してしまう場合があるのですが、その肥大化と芸術家であることは、連動しているのです。他人にはあまり関心がなくて、自分のことにしか関心がない人というのが、そうです。こういう美術家は沢山います。他のアーティストには興味が無いし、過去の偉大な美術家にも興味が無くて、パリに行ってもルーブル美術館にも入らないといった美術家が、何人もいるのです。彼らは自分の作品だけに意識を集中しているのです。しかしそれ自身は、他人にそれほどの害を直接に与えるものではありません。

自分が世界の中心にいて、自分の感覚だけで、すべてを判断します。そうしなければ純粋な芸術は出来ないと信じています。芸術とは、一つの宗教であって、その宗教は、自分自身を絶対者として信仰し、崇める事なのです。ですから、たとえば「セザンヌは良くない作家であり、ドナルド・ジャッドはくだらないし、プッサンは面白くない。下品なものは、良いよね。おもしろいから。」という女性作家が、
現実にいましたが、すべてが自分の感覚で判断して、自分に分からないものが存在するということすら認めないのです。すべて、自分の感覚だけで捉え、自分の頭だけで考え、自分がすべてを決済するのが、芸術家の純粋性をたもつ正しい道であると言うのです。それはそれで、そう考え立てれば、事故中毒であっても、良いのではないでしょうか。多かれ少なかれ、人間は自分のことしか考えていない自己愛性人格障害なのです。

そして裏付けとなるものがなにもないのに、一目置かれる存在であることに非常にこだわります。こういう人は、普通にたくさんいるし、そして美術家にも多くいます。非常にプライドが高いのです。しかしプライドが低いというのも、病的なので、そのバランスだけだと言えます。


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