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言葉の否定について [アート論]

私のブログは、言葉で書いていますが、
その言葉の基本は、《象徴界》の言葉です。

現在の時代の構造は、
《想像界》と《現実界》が中心になって動いているので、

私の《象徴界》的な言語というのは、
前時代の遺物と言えます。

それは《象徴界》的な読み物であって、
批評作品である事が目指されています。
しかしそれは美術評論家の文章というものではなくて、
美術家によるコンセプチュアルな美術作品なのです。

このブログそのものが、
コンセプチュアル・アートの作品であると思っています。
ライブ・ペインティングという意味での、
ライブ・コンセプチュアルアートなのです。

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誤解をされない為に、
彦坂流に、図式化しますと、

図式的には、次の様な3種類の世界の中を人間は生きています。

1。眼に見えるイメージの世界。
  万華鏡のように、たえまなくきらきらと、
  世界はとりとめもなく、展開して行きます。
  (ここにも、言葉はありますが、イメージ的な言葉で、薄いし、浅いし、少ないのです。)

2。言葉だけの世界。初めに言葉があって、言葉だけですべてを捉えて、すべてを言葉で秩序づけようとします。
  もちろんそんな事は出来ないので、言葉の量が膨大に膨らみます。それでも言葉に出来ない部分は問題の外に出してしまいます。

3。一寸先は闇で、お金と人脈だけがたよりのカオスの世界。
  誰も信じられる人はいなくて、自分だけが頼りで、
  生き馬の眼を抜く様な、ビジネスの世界。
  (ここにも、言葉はありますが、実務的科学的なことばで、意味は無く、読みにくく、
   面白く無い、紋きり的な世界)


私の書いているこのブログは、
2の言葉だけの世界に、画像を付けている絵本の様なものです。

そして、この123というのは、相互否定関係にあります。

1を否定して、2が生じるのです。
2を否定して、3が、生まれます。

つまり、もっと簡略にすると・・・

1、イメージの万華鏡世界。

2、言語だけの批評的意味世界。

3、金と権力と名声だけの現実世界。

極言すると、1と3には、言葉は無いのです。

そして人間は、言葉そのものの世界を否定しないと、
生きて行けないのも確かなのです。
つまり、私の書いている事を否定してくださって、
良いのであります。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

さて、そういう意味で、
例えば、アンディ・ウォーホルについての
私の芸術分析は、あくまでも2の批評作品としてだけあるのです。

ですから、アンディ・ウォーホルを眼で見て、
そしてそれを楽しんできている方々の実感とは、
矛盾するものなのです。

前にも草間弥生のカボチャの作品の評価で、
コメントをくださった方とぶつかりましたが、
それは各自の実感の世界と、
私の芸術分析の世界は、次元が違うからです。

普通にアンディ・ウォーホルや、草間弥生を見ている人は、
アンディ・ウォーホルや、草間を、
他のアーティストと比較しては、
考えていないのです。

考えていても、それだけに意識を集中して、
比較分析だけに集中しているのではないのです。

私のやっているのは、芸術分析ですから、
その次元だけで考えて、切ってしまっているのです。

roy_lichtenstein_hopeless.jpg

ロイ・リキテンスタインの作品です。
《想像界》の眼で《1流》の《真性の芸術》。
《象徴界》の眼で《1流》〜《7流》のデザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《1流》の《真性の芸術》。

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的芸術。
液体美術(=近代美術)

《ハイアート》
《シリアス・アート》

ロイ・リキテンスタインの作品は、芸術としては安定しています。
《1流》作品ですから、特に文句を言うところもありません。

無い物ねだりで言えば、
まず、液体美術である所が、古いのです。
もう一つ、気体美術化して欲しかった。

そして、できれば《超1流》作品を、
数点でも、作って欲しかった。

ウォーホルリキテン.jpg
アンディ・ウォーホルと比較すると、
最良の作品は、アンディ・ウォーホルが、
気体美術で、しかも、《超1流》性があるものは、
アンディ・ウォーホルの方が、面白いです。

しかし比較して分かる様に、
アンディ・ウォーホルの方が下品です。
アンディ・ウォーホルはローアートで、
ロイ・リキテンスタインは、ハイアートなのです。





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コメント 2

もしもし

でも、アンディのモンローには宗教性を感じますが、ロイには感じません。
「物質はアメリカの神だからアンディ・ウオーホルは宗教画だ」といったひとがいます。ポストモダンが中世への先祖がえりだとすれば、ヒコさんは、「宗教絵画」「キリスト教絵画」をどのようにとらえますか?
グリンバーグは神なき時代のロジックだったのですが、ダビンチもキリスト教絵画を数多く描き、基本的には宗教画家ですよね。
by もしもし (2008-10-07 08:13) 

ヒコ

「アンディのモンローには宗教性を感じますが、ロイには感じません」というご指摘は、良いですね。眼から鱗が落ちた思いがあります。たいへん、重要な視点だと思います。これは新しいブログで、書かせてもらいます。

 レオナルド・ダ・ヴィンチを宗教画家というのは、正確な意味では、若干の抵抗があります。ヨーロッパキリスト教の神学の中には、ギリシア哲学が入っていて、キリスト教というのは。アメリカのファンダメンタリストが主張する様にバイブルだけが教典ではありません。つまりアリストテレスや、プラトンの流れがあって、レオナルド・ダ・ヴィンチそのものはプラトニズムの流れに位置していたはずです。
by ヒコ (2008-10-07 10:14) 

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