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批判と言論封じのメカニズム/ヤクザ再論(校正3加筆1) [アート論]

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まず、一般論として、
日本のジャーナリズムのは、
言論の自由がありません。

例えば日本の新聞の美術批評には、
批判というものがありません。

だから新聞の批評には権威が無いのです。
新聞に書かれたからと言っても、
作品の売れるようになるという様な事が起きません。

海外に出ると、
新聞が批判を書くのを読むことが出来ます。

たとえば、私の読んだ例ですと、
ステラの最盛期の1982年前後ですが、
ニューヨークタイムスは、ステラを美術欄の紙面の全面を使って、
大きく写真を載せるとともに、
その作品を
批判しています。

その作品は、現在川村美術館の入り口にある大きな金属彫刻になった様な作品シリーズの最初の段階のものでした。私はその個展の初日を見て、友人に良く無いという批判を話した所、その友人はすばらしいと、評価して、食い違ったのですが、翌日の新聞にのったステラの個展評は、ステラ批判だったのです。


後年、2001年か2002年ですが、グランド・ゼロを見ながら、チェルシーのむき出しの倉庫でステラの展示を見た時も、多くの新聞や美術雑誌がこの作品を批判していて、驚きました。実はこの作品を私に見せたがったのはニューヨーク在住のアーティストで、私の先生である中里斉氏だったのです。彼はこの作品を評価してて、私の意見を求めたのですが、私はまったく評価しませんでした。典型的な《6流》作品で、仙台の七夕の飾り物のようになっていたからです。作品に関しては、評価はそれぞれでしょうが、各自が各自の名前と責任を明示して、意見を並列化していく必要があると思うのです。アメリカの新聞や、ロンドンの新聞は、署名原稿で批判も書いていて、健康な社会なのです。日本はまるで中国共産党の国に似ていて、自由に批判が出来ないのです。


前々回ですが、ドクメンタを見て、私も批評を新美術新聞に書く必要があって、ニューヨークタイムスの記事を探して読みましたが、ここでも批判記事が載っていました。

億単位のお金をかけたブロードウエーの芝居の初日を見て、新聞が批判を書くと、芝居を閉じるということが、今はどうかしりませんが、新聞批評として行われていたのがニューヨークでした。

こうした事は、前にこのブログでも書いたと思うのですが、日本の言論が、ある段階から変わったのです。
明治段階では、たとえば夏目漱石全集(第16巻、岩波書店1995)に収録されている、夏目漱石の美術批評を見ても、激しい批判の文章があります。たとえば『東京朝日新聞』の明治44年5月21日、22日に書かれた「太平洋画会」です。
こうしたまともなものが、ある時期から消えてしまうのです。


 NO NAMEさんの私のブログに対する批判は、お受けしますが、しかしここに見られるのは、実は社会の《1流》性が持つ、暴力的なメカニズムなのです。

まずいけないのは、「個人への正当な評価だと履き違えているようで・・・」という箇所です。私は、自分の書いている事を、常に私見として表明しているのであって、「正当」というメカニズムを作動させてはいません。

松井冬子さんの知名度の高さ故でしょうが、
私のようなマイナーなブログでの記事ですが、
松井冬子さんについては今日現在1万2,018の人々が、
クリックして下さっています。
私のブログの累計:で、46万9,745 のクリックがあります。
しかしNO NAMEさんのようなご批判は初めてです。
約47万分の1のご意見と言う、
その意味で非常に貴重なご意見だと思い、
ご批判をありがたく、受け止めます。

しかし、繰り返しになりますが、私は自分の書いているものを、
「個人への正当な評価だと」一度も主張はしていませんから、NO NAMEさんこそ、そのように読み取って批判するのは「履き違えている」のです。私の書いているのは、個人の私見であって、それ以上のものではありません。

 
NO NAMEさんが、私のブログを読んで、どのように思おうとも、それはNO NAMEの個人の自由なのです。私はノーギャラで書いて、NO NAMEさんもノーギャラで読んでいて、お互いの自由は尊重する立場に立っているのです。

そもそもが「個人への正当な評価」というものが、いかにして、可能なのでありましょうか?
そのことを提示しないで、この立場から批判するという事が、実は言論の自由を弾圧して行く立場なのです。

正当性ということを言うのならば、私という個人が彦坂尚嘉という実名で書いて、その責任を明示している以上、それを批判する人物もまた、自分の名前を明かして責任をとる形で書かないと、正当な批判とは言えないのです。NO NAMEさん自身に、私の言論作品を批判する正当性がありません。

これ以上は書きませんが、
人類の歴史を見ると、同じ様なスタイルで、言論は弾圧されて来ているのです。
その歴史があるから、言論の自由が重要なのです。2チャンネルに私に対する批判のスレッドが立って、ひどい誹謗中傷がありましたが、それでも私は2チャンネルの存続を支持します。言論の自由は、今までも歴史を見る限り、重要なものなのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

さて、以上のNO NAMEさんへの反論とは関係がないのですが、まえから、もう一つ書きたいのは、美空ひばりへの、弾圧です。
すでに一度触れて書いていますが、
美空ひばりに対しては「子供らしく無い、化けものだ」というひどい誹謗が、それこそ社会的な正当性に立つ人々から弾圧として投げつけられることが続きました。

それに対して、美空ひばりを擁護して守ったのが、山口組3代目でした。

実録美空ひばりと山口組三代目田岡一雄 首領とお嬢編
副書名
シリーズ名バンブーコミックス
多巻物書名
原書名
出版社発行所=竹書房
著  者田丸ようすけ 西木正明
税込価格450円(本体429円+税)
発行年月2008年2月
判型コミック

けっこう気になって、上記の漫画を買って読んでしまいました。

美空ひばりを化け物であるという弾圧は、NHKののど自慢の審査員の中に、先ずあったのです。「上手いが子供らしくない。」「非教育的だ」「真っ赤なドレスもよくない」として、のど自慢を合格させなかったのです。
「子供が大人の恋愛の歌を歌うなんて」という違和感を持つ層がいて、弾圧はつづきます。

 詩人作詞家サトウハチローは当時のひばりに対し「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ」と、批判的な論調の記事を書いているのです

 こういう反応を生み出す社会的理性の領域が、彦坂が《1流》という格付けで呼んでいる領域なのです。社会的理性性という領域の持つ理不尽さと、弾圧の暴力性というのは、かなりひどいものなのです。

NO NAMEさんのご批判に関連して、この山口組3代目のことを思い出したのですが、ヤクザというか、犯罪領域というのは《31流》なのです。《31流》というのは、《1流》の反転領域なのですが、
《1流》が、美空ひばりを弾圧し、《31流》領域に生きる田岡一雄が、擁護して行く構造の中に、この《1流》と《31流》の倒錯構造が見えて、面白いと思ったのです。

社会の正当性に守られて生きている人々と、社会の正当性をたてに弾圧されて行く人々がいて、弾圧される人々が、自分を守るためにいろいろな方法を考えるのですが、その一つが暴力団でありました。
暴力団を良いとは思いませんが、《31流》という領域の成立の構造を、こうした美空ひばりなどの例で、考えさせられるのです。

アメリカ合衆国というのは、ヨーロッパ社会の《1流》領域の凶暴な暴力にいじめられた人々が逃げて作った社会です。この性格は、私は好きです。

以上の考察もまた、彦坂尚嘉の私見でありまして、私の私見を社会的理性の正当性として、私はふりかざしているのではありません。つまりNHKとか、大新聞社とかのバックボーンがあって、書いているのではないのです。独りのアーティスト個人が自分の名前を明らかにして、その責任を明示して、書いているのです。ご批判を書かれる事は自由ですし、それを私は逃げないで読んで、出来る限りはお答えしますが、だからといって《1流》という弾圧領域が作動する危険性は良く知っているのです。NO NAMEさんの後ろには社会的理性の《1流》領域が存在しているのです。

このブログも、必ず、終わりが来ます。
《1流》からの攻撃に負けて中止になるのかどうか、分かりませんが、自滅も含めて、終わりは来るのです。
その終わりに向けて、私は書いているのです。

現在が、ブログの時代であり、日本のブログが世界一大きいのは、日本には個人の意見を表明する自由が阻害されて来たからです。個人の意見を自由に書く批評の自由無き社会は、不健康なのです。2チャンネルも含めて、表現の自由の擁護は、民主主義社会においては重要なことなのです。
社会的な正当性を振りかざすだけでは、社会は、真に生き得ないのです。
不愉快な意見もまた、必要なのです。
この自由の度量を欠いた社会は、息苦しいのです。

タグ:松井冬子
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symplexus

一方の主張が権力的背景を持たない個人から
 論理や哲学的考察の必然として出される見解に対して,
  なぜ匿名性のもとに正当性を僭称した感情が流出してしまうのか.
 議論はあらかじめ結論を決めない緊迫の関係で
真実をさぐりあうべきでしょう.
 閉塞した中に希望が有るとすれば
  ギリシャの哲学者がしてきたような本当の対話こそ
 それに値するのではないかと思います.
 
by symplexus (2008-11-23 11:35) 

Minako_S_B

いつも拝見しています、お恥ずかしい程不勉強でしたが、
御陰さまで勉強させて頂いています。
つくづくありがとうございます。

このエントリー、スッキリしました、笑。

彦坂さんのブログはこれ自体がアートなのですね?
『〜流』破綻が出て来そうでいながら、
読んでいると次から次へと出て来るのがすごいですね、
驚きのトリップ体験です。
ブログの終焉を描いていらっしゃいますが、
最後まで宇宙を創り込んでいくのですか?


by Minako_S_B (2008-11-23 11:42) 

ヒコ

symplexus様
Minako_S_B様

コメントありがとうございます。
 NO NAMEさんのご不快感やお怒りは理解できます。しかし批評というものや、個人が私的な意見を言うという事自体が、社会的理性の《1流》領域では、不愉快なのです。しかしジャーナリズムというもの、これは批評という意味で使っていますが、もともと人の神経を逆なでするところがあって、その源流は、ソクラテスです。
 私の好きな言論人は、ソクラテス、エックハルト、そしてアメリカのスタンド・アップコメディンのレニーブルースなど、直接、間接に死に追いやられています。
 言論の自由というのは、命がけなのです。私の皇居美術館空想と言う作品も、右翼に刺されると、ずいぶんいろいろな人から脅かされますが、刺したければ、刺せば良いのです。私もほんの少しですが空手をやりましたので、少しは抵抗をします。
 このブログ自身は、コンセプチャルな作品です。名誉毀損、著作権、肖像権等々、危険性を孕んで、ぎりぎりの所でやっていますので、いつ、つぶれるかは分かりません。基本的に確信犯ですので、すべて受けて立つと言う、逃げない姿勢でやっています。
 読んだ方の中で、ご不快や、お怒りが起きて、匿名であっても、コメントを書き込んで下さる事は、歓迎します。基本的には正面から受け止めますが、経験的には《想像界》だけの人格の人々の反応は、非常に特殊でありまして、私には正確に理解できない所があるので、すれ違いで終わる事や,齟齬のままということも、起きえます。それを解決する事は、事実上できないのです。その辺は、ご理解ください。
 姿勢としては、印象批評の、バージョンアップを目指して、主観批評の学問的厳密性を追いかけています。だからといって、根底的には私感や、私観の厳密化を追っているのであって、決して公的な意見ではないのです。
 たとえば日本の美術館では石内都の作品を芸術作品であると公的に認めているという事でしょうが、彦坂尚嘉の私見では、まったく芸術性の無いデザイン的エンターテイメント的写真であると言うことになるのです。その齟齬を埋める方法は無いのです。


by ヒコ (2008-11-23 12:15) 

symplexus

彦坂様
 ほんの少々ギリシャの対話について補充することをお許し下さい.
この”対話”はプラトンの対話篇のようなものを前提に考えていたのですが,この中の主人公;ソクラテスの方法論には僕も特に魅かれていました.
テレビに登場する集団討論などと対極にある方法論のように見えます.
先を争って自己の正当性を主張し,相手の非をなじりあうことも言論の
一つのありようだとは思うのですが,ここで展開されているのは
エンターテイメントとして捉えればいいのでしょうか.
 ソクラテスの会話は相手の論理の展開の内側に入り込み,その論拠の
基礎を緻密に検討して相手自身の混迷を引き出していきます.しかも,
ソクラテスはあらかじめ用意された模範解答など見せようとはしない.
この破壊的とも言える対話にこそ現代的意味があるのではないかと
思う時があります.容易に信じないこと,信じる己自身の根拠を検証すること,それでも疑うことの出来ない何かを足場として自分なりの構築を試みる,その試練の過程が個人主義ではないかということです.でも,これも
また一つの僕の個人的見解にすぎない.

 彦坂様のブログにいつも強い魅力を感じているのは,アートや社会の
もろもろの現象について予測される結論がフィードバックして自己の帰結を
恐れるような手加減が無いことです.
この誠実さを誰が否定できるのでしょうか!
もし反論しようとするなら,同等の誠実さで論駁しようとする相手は
その根拠を示さなくては同一のレベルで議論することは出来ないでしょう.

 僕は松井冬子氏の作品については直接対面していないので論評
できる立場に無いのですが,紹介していただいた氏のHPの作品を
見る限り残虐画の系譜にあること,しかもその掘り下げがドストエフスキー
の作品のような人間性の深遠に達してはいないとの彦坂様の指摘は
むしろ松井氏に届いてほしいと思うのです.氏のたぐいまれな美しさ
は,それを取り巻く欲望の壁で氏への異論をさえぎるという視点からは
氏の真性芸術的への脱皮を妨げる盾になっているのかもしれません.

 個人的テロの時代の到来はある意味で彦坂様が指摘する”自己愛と
人格障害の芸術”と,その出生の基盤において深くかかわっているよう
にも思えます.個人テロは右翼の専売特許ではとうになくなりました.
”右翼”の思想スペクトルがどの辺りまで拡張しているのか,正直よく
わかりません.傷ついた自己愛の暴発がいつ個人テロに転換するのか,
この理不尽さを考えるとターゲットがどこに向けられるのか分からない
ような不安を感じます.
 長々また書いてしまいました.失礼重ねてお許し下さい.
                        
by symplexus (2008-11-23 20:59) 

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