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紺泉と中川晋介、ステラ/李 禹煥(上) [アート論]


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紺泉の作品です。

紺泉は、1977 年東京生まれ。東京藝術大学在学中から作品を発表し、
日本画風の表現で注目を集めたそうです

雑誌から、物・デザイン・風景・装飾・・・の表層を切り取りとって、
丁寧に描く、
そういう写し絵の手法の作品です。
手法的にはイラストレーターのやり口です。

靴、化粧品、ジュエリー、椅子、
お寿司、スウィーツや野菜・・・
などのモチーフを、
描いた”絵画”を、制作してきました。

絵画の形式はあるにしても、
これを伝統的な意味では、絵画とは言わないものです。

これを絵画と言うのか、言わないのか、
両方ともに可能ではあります。
この2つの選択の領域に、現在の本質があります。

つまり、むずかしく言うとソシュールの言う《連辞関係》で見れば、
絵画と言えるのです。
つまり絵画と言う言葉を言った時に、絵画と絵画でないものの区別を、
なしている社会的なコンテクストがあるわけです。
これは絵画で、これは野菜で、これは靴で、これは犬。
つまり、こうした常識的な反応として言えば、
キャンバスに描いてあって、東京芸術大学出身で、
本人も絵画であると言っている以上、
普通の日本語と日本社会のコンテクストでは、
絵画と言えるものなのです。

しかしソシュールの言う《連合関係》で見れば、
絵画とは言い得ないものなのです。
《連合関係》というのは、人間の記憶の中で、
その言葉が喚起する他のいろいろなものとのイメージの帯なのです。
つまり絵画と言うと、私の記憶の中では
レオナルド・ダ・ヴィンチやヴァンアイクの絵画や、
セザンヌ、宗達などの絵画の記憶が立って来ます。
現代美術の絵画にしても、ポロックや、アグネスマーテイン、
等々のイメージが、呼び起こされます。
そういうものと比較すると、紺泉の仕事は、
むしろイラストとか、アップリケというものに見えるのです。

紺leonardo.jpg
こう比較する事自体が面白いですが、レオナルドの場合には、矩形の
絵画の全体性があって、全体が氷の中に閉じ込められているような、
そういう冷たさがあります。

彦坂尚嘉が、固体美術と言っているもので,この固体というのはH2O、
つまり水の比喩でいっているので、氷状態の絵画なのです。

それに比較して、紺泉の作品を見ると、画面の矩形に眼が
いかなくて、描かれたイチゴだけに眼が吸い付けられます。
それに温度の感覚が、ダ・ヴィンチの冷たい氷の感覚に比して、
ずっと温度が高くて、彦坂の言い方ですと、水が水蒸気になっている
様な温度の高さがあります。

ピカソleonardo.jpg
話が、せっかく固体美術の解説になったので続けます。

この氷の氷河のようにゆっくり流れる美術史が、
産業革命が成立して汽車が走る鉄道網ができる様になると、
社会全体の温度があがって、氷は溶けて水になって川が流れはじめる。

ピカソのこのアヴィニヨンの娘という絵画は、後ろの青い氷が溶けて、
水が流れ始めた様な絵画です。
温度もモナリザに比べて、ずっと高い事がお分かりになるでしょうか。

紺picasso.jpg
ピカソと比較すると、紺泉の方が、温度が高くて、
もう氷の部分は無くて、後ろの白いバックは、スチーム室のような、
水蒸気状態の白と考えられます。
その割には、イチゴがくっきりと描かれ過ぎて、気にはなります。
この気になるクリアさは、実は、絵画のもう一つの問題を孕んでいるのです。
しかし、その前に、絵画史の解説を、もう一つ先に進めます。

H2Oの水の比喩で言うと、氷河の様な氷の絵画が、溶けて水の絵画になって、
さらに温度が上がると水は沸騰して、水蒸気の部屋のような絵画になります。
それがポロックの絵画です。

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氷の絵画、水の絵画が、そして水蒸気の絵画という、絵画の歴史です。

ポロックピカソleonardo.jpg

西洋絵画史というのは、こうして一つの大きな物語を完了するのです。
その先をどうするのか?

ポロック紺.jpg
紺泉の作品が、ポロック以降の絵画の答えと言えるのかどうかは、
これから検討してみたいのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

01.jpg
紺泉の”絵画”は、パネルの厚みがモノとしての厚みを
表現として持っていて、
見る人の感覚を二次元と三次元のはざまに誘うと言われます。

”独特”な「間」と色彩、緻密なディテイルと繊細な肌合いをもっていて、
東京都現代美術館や、原美術館で発表していて、
作品も良く売れていたアーティストでありました。

この人の作品は、
デザインとアートの交差するという現在の表現の構造を、
別の角度から、露にしています。

200001500068.jpg

実用品に描いた「装飾性」的作品では、特にそれが際立ちます。

昔の現代美術や、昔のポップアートからも、
ずれているからです。

ウォーホル紺泉.jpg

昔であれば、単にデザインワークとして判断されるものです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私は、デザインというものを、私的な質、しかも個人の歴史性を持った
私的な質を排除した表現として考えてきました。

つまり、社会的に生きると言う事が、公私混同をしないで、
公の領域だけで生きる事を意味している、そういう表現として、
デザインを、私は考えて来ました。

たとえば、塗装職人に、コンプレッサーを吹いてもらう場合、
きれいには吹いてくれるのですが、
ムラムラに吹いてくれる様に頼むと、拒絶されます。
つまり誰が見てもきれいに塗装されているという、
そういう万人が評価する社会的な基準でしか、
塗装が出来ないのです。

ところが、ムラムラに吹いた基準作品を見せて、
それを模倣する様に頼めば、吹ける様になります。
そうすると、いくつもの同じ様なムラムラの塗装が量産される様に
なります。
つまりムラムラがデザイン化したわけです。

どんな表現でも、模倣を繰り返すと、デザインになります。

しかし紺泉の表現が突きつけているのは、
そういうデザイン性とは、どうも違う視点なのです。

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《想像界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》《ハイアート》
シニフィエ(記号内容)の作品
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

紺泉の作品は、《真性の芸術》、つまりフロイトの言う私的《退化性》
を持っていますから、そういう意味ではデザインではないのです。

どう見ても実用品に加えられたアップリケのような姿なのですが、
同時に《シリアス・アート》であり、
《ハイアート》になっているのです。
こういうことは、常識にとらわれたデザイン意識では、
区別がつかない事です。

それはキャンバスに描かれようと、バックやお皿に描かれ様が、
同じ共通する次元性を持っています。

それは、紺泉の作品が、シニフィエ(記号内容)化しているからです。

しかし,実際には物質化されて作品になっているのですから、
シニフィアン(記号表現)であるはずなのに、
それが、あたかもシニフィエのままのような表現になっている。

つまりシニフィエ化というのは、脳内リアリティが、裸で出現した
表現のことです。正確さを欠いておおざっぱに言えば
昔は無かったものです。

たとえばアンディ・ウォーホルの作品は、
ポップアートでありますが、
シニフィアン(記号表現)の表現であったのです。
それに対して奈良美智や、紺泉たち若い作家のものは、
シニフィエ的な作品になっている。

奈良ウーホール.jpg
こう比較すると、アンディ・ウォーホルに比較して、
奈良美智の作品が、圧倒的に分かりやすいというのが、際立ちます。
つまり同じ《ローアート》なのですが、
奈良美智はシニフィエ(記号内容)ですが、
アンディ・ウォーホルはシニフィアン(記号表現)の表現なのです。

マリリン/ウォーホル.jpg
シニフィアン(記号表現)的作品   シニフィエ(記号内容)的画像

アンディ・ウォーホルの作品は、
モンローの単なるイメージではなくて、シルク印刷の技法の中で物質化さ
れて、その不透明化があって、単なるモンローのイメージを超えた意味を
形成しているのです。
ですから、少なくともアンディ・ウォーホルの作品には、芸術作品の意味
が構成されていたのです。それが1991年以降には、消えて来ます。
ダイレクトに、脳内リアリティが表出されたような、
シニフィエ(記号内容)的な作品が増大するのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こう書いて、思い出したのが李 禹煥の作品です。
正直言うと、私には李の作品が、何故に良いのか?
が分からなかったのです。
何度も実物を見ていますが、奇妙な薄さがあって、
「こんなもので良いのだろうか?」という謎を持って
来たのでした。

紺泉について、ここまで書いて来て、李 禹煥の薄さをを
思い出したのです。

20050703_1.jpg
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品、固体(前近代)美術。
《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィエの美術
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【下記をクリックして下さい】

李 禹煥の作品が《第6次元》であるのは、以前から私には分かっていま
したが、この紺泉論を書いていて理解した事は、李禹煥の作品は、
シニフィエ(記号内容)の作品であったのです。だから薄い表現であっ
たのです。
もの派の作家が、シニフィエであるというところが、言っている事と、
作っている作品が違うという、代表例になっていたのです。

つまり李 禹煥は、早い、情報化社会のシニフィエ化した現代アートを
作っていたのです。

コンピューターやインタネットが登場し、デジタル時代になってから、
若いアーティストの奇妙な薄さと無意味性をもったものとなったのです
が、それが表現のシニフィエ化です。その早い例が李であったのです。

昨日、あるディーラー行為をしている人と会いましたが、
李 禹煥の作品が大暴落しているという話を聞きました。
これから開催されるクリスティーズのオークションのエスティメイト
でも、かつては日本円で億を超える作品だったものが800〜900万円
にまで落ちているというのです。(110万ドル〜130万ドル)
1億で買った作品が、あっという間に1000万円を割ってしまうと、
9000万円以上のお金が煙のように消えた事になります。
水彩画でも、かつては350万円したものが、20万円になっているとい
うのです。事実確認をしていない風評ですので、問題ではありますが、
韓国経済の悪化の中で、李 禹煥作品を買い支える人々が消えたと
言えます。今回の金融恐慌は、少なくとも李 禹煥の絵画作品が、
本当に芸術的にすぐれているのか?を、検証する試金石になります。

直島に李 禹煥の美術館が建設されるとのことですが、
単独で、李 禹煥の作品を見る限りは感動する人も多いと思います。
私見を申しあげれば、先ほどの芸術分析でも書いた様に、
李 禹煥の絵画は、実は固体美術です。つまり現代の美術のフリを
していますが、本質は前近代の固体美術であって、
それゆえに、骨董的な吸引力があります。

同時に奈良美智と同じシニフィエの作品なのです。
この奇妙な組み合わせの中に、その受けた秘密があります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
シニフィエ/シニフィアンという言語学用語を動員して、
こういう議論をはじめているのは、彦坂尚嘉理論の独創というか、
勝手にやっているだけなので、他の人が似た指摘を、
現在の1991年以降の現代アートにしているかどうかは、知りません。

それと普通のシニフィアン・シニフィエの議論の範囲を超えている
ので、混乱される方がいるかもしれません。

私の議論は、具体的な現代アートと、その前の現代美術やモダンアート
との差について言っているので、
具体的にアート作品を見て、感得してくれていないと、
何を問題にしているか、分からないことになります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

もともとシニフィエ(記号内容)、シニフィアン(記号表現)という
言葉は言語学者のフェルディナン・ド・ソシュールによって定義された
もので、ソシュールが使った時には、シニフィエとシニフィアンは、
表現の銅貨の裏表のようにくっついていたものです。不可分離であ
って、くっついた、表裏一体になった状態をシーニュ(記号)と
言います。いや、逆で、シーニュ(記号)の双面なのです。

それを水面に風が吹いて、立つ波という比喩で語っていました。
つまり波というのは、水でもなければ、風でもないのです。
水と風の2面性の接点に波が立ってくる。
この波のように、シーニュはシニフィアンとシニフィエの
2面性として成立している。
つまりシーニュは、2面を持った銅貨だったのです。

ですからシニフィエとシニフィアンの別々のものが、
独立してあるわけではないのが、
ソシュールの本来の概念です。

このソシュールの言語論的な考え方を援用して、
私は、芸術や、作品,美術を考えようとしているのです。

このソシュールの用語を、
ラカンが使用する様になると、
シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の
関係を逆転させます。

ソシュールは、シニフィエとシニフィアンの関係を

\frac{SE}{SA}

と表記したのですが、ラカンはそれを上下逆にし、SA→S、SE→sと記号を変えて

\frac{S}{s}

と書いたのです。

こういうラカン理論を読むのは、私は好きですが、

しかしそれは現実を測定することで語って行く私の立場とは、

微妙に立ち位置が違うのです。


上下を逆にしたのはラカンの「シニフィアンの優位」という考え方に

関係があるのですが、彦坂の私見では、このラカンの思考は、

近代という物質文明の内側にいた人物故の特性であって、

現在の様な情報化社会では、むしろ「シニフィエの優位」の状況が

出現していると見た方が良いというのが、

このブログの論点です。

 

私見では、ラカンは、シニフィエ(記号内容)とシニフィアン(記号表現)の

関係のゆるみも増加させています。

たとえば、麻薬のマリファナのことを、コロッケと暗号で言う事を
決めます。そうすると「コロッケを買ってくる」という風に言うと、
その意味は、「マリファナを買ってくる」という意味に了解する人と
「本物のコロッケを買ってくる」と受け取る人と、あるいは、
そのどちらとも判断を決定できない人とに分かれます。
こういう意味の混乱と言うか、ゆるみが、言語にはあるのです。

彦坂尚嘉の芸術分析の方法で、独創的なのは、《言語判定法》です
ので、この場合、すでに「シニフィエ」「シニフィアン」という
言葉があって、これを使って現実の美術作品にこの言葉を投げかける
事で、その木霊のような反射で、分析をしています。
この場合、言語というものが、認識の道具であると言う性格を使用
しているので、ソシュールの本来の概念定義を知っていても、
それとはずれた形の《言語判定法》での結果が出るのです。

そのズレは、《言語判定法》での現実測定が、それなりの認識結果を
出している以上、正当性があると、私は考えます。

しかし《言語判定法》的使用による芸術分析と、ソシュール本来の
概念規定とのズレが、読者の混乱を生むことも事実なのです。

それは知っていて、語っているという、確信犯の行為であると、
ご了解ください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【シニフィアンの連鎖】
さて、伝統的な芸術は、物質性を介したシニフィアン(記号表現)として、
成立した時に、はじめて意味構成をすると考えられて来ました。
ジャック・ラカンも、このシニフィアン(記号表現)とその連鎖を重視
しています。

フランス語のビールであるBièreという言葉は、シニフィアンの類似から、
Bière(棺)、pierre(石)、tieres(第3者)と展開して行くというのです。

日本語だと、「橋」という言葉を例にすると、ご飯を食べる「箸」、
物事のはしっこという意味の「端」、
梯子という意味の言葉の「梯(はし)」で「かけはし」と使う。
鳥の嘴(くちばし)という意味の「嘴(はし)」
庭から屋内にあがる階段という意味の「階(はし)」
いとしい、かわいいと言う意味の「愛(は)し」、等々、
広辞苑で見ると、たくさんまだ同音や類似音の言葉の連鎖が出てきます。

【シニフィエの連合】
ビールであるBièreのシニフィエの類似性からは、Vin(ワイン)、
Whisky (ウイスキー)、Cognac(コニャック)などを連合するのです。

日本の「橋」からは、鉄橋、石橋、木の橋、瀬戸大橋、橋梁、八つ橋、
仲介、媒介、なかだち、渡りをつける、等々なのでしょうか。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

1991年以降、あるいはその前から、シニフィエ(記号内容)の
連合としての芸術が、立ち現れて来ているのです。


紺泉の作品は、【シニフィエの連合】であって、
イチゴは、イチゴにしか見えないのです。
きわめて、クリアーで分かりやすい。
それは正しいのか?と言う問題です。


ともあれ、インターネットが世界をつなぎ、
そしてデジタル映像が氾濫し、
高度市場社会が展開してくると、
文化の表層構造が優位に立って、
文化の深層構造が忘却されてくる様になります。

デュシャンの泉と言う作品が、
便器を使用した反芸術であった事すらが忘れられ、
20世紀のもっとも有名で影響の大きな芸術作品の名品として
扱われる状態の中で、それは【シニフィエの連合】としての思考の流れ
だけが、美術界を覆う様になります。

深層構造に依拠した【シニフィアンの連鎖】の忘却として
紺泉の作品はあるように思います。

本来は、シニフィエ/シニフィアンは不可分離であったものが、
あたかも分離できるかの様な状態で、
しかも文化は表層構造の【シニフィエの連合】としてのみ考えられる様
になった大きな原因は、1971年のニクソンショックにあります。

文化の構造と、こうした貨幣の経済構造は、
実は大きな関係があるのです。
いわゆる下部構造が、上部構造を決定するという問題です。

ここで基軸通貨のドルは金との兌換を停止したのです。
基軸通貨のドルが、金との兌換を停止した事で、
つまりドルというペーパーマネーは、金という深層を喪失したのです。
表層の自立化と変動相場制による相対化というのは、
実は深層を欠いた【シニフィエの連合】という領域だけで、
文明が作動しえるかの様な価値幻想を可能にしたのです。

しかし今回の金融危機というのは、
実は表層の虚のカジノ経済が、
実体経済に実に大きな影響を与える事が、
分かったのです。

表層文化の下には、深層文化が存在しているのです。
【シニフィエの連合】の下には、
【シニフィアンの連鎖】が作動していて、
初めて芸術は生まれ得るのです。

今回の金融危機が、具体的にどのようにして、収拾されるかは予断を
許しませんが、
それでも実体経済の収縮が生む混乱は、
何か大きな下部構造の変動を生み出すはずです。

そしてこの下部構造の変動が、上部の表層構造をも
変えるのです。

紺泉の作品ですが、
先日開催されたマンスリーのザ・オークションに4点出品されていました。
2点は不落でありましたが、
次の2つは落札されました。

lot080.jpg
lot081.jpg
落札価格は各1万円です。
私は前の価格を知りませんので、
どれほど暴落したのかは分かりませんが、
買い得ではあると思います。

知らなくて、他人から教えられましたが、
私の昔の版画も出ていました。
これも1万5000円で落札されたそうです。

価格的には、極めて安くて、
プライマリー価格は破壊されて行きますが、
しかしコレクターの視点から言えば、
作品が暴落しているからこそ、
買いの季節であると言えます。

1万円程度で、好きなものが買えれば、
この暴風の季節もまた、楽しむ事が出来ます。
今こそが、チャンスとも言えます(笑)。

こういう底値のひどい状態のもみ合いは、
しばらく続くでしょう。
それが最長5年なのかもしれません。
そこで生き延びて値段を回復して行く作家と、
回復しないで消えて行く作家に分かれるのです。
今が、厳しい淘汰の季節なのです。

同時に、コレクションをつくるチャンスです。
価格が下がれば買いですし、
上がれば売りであるというのは、
商業の基本であります。

高品質で、低価格の時代です。
それは作家にも、画商にも冬の季節ではありますが、
コレクターには、最良の季節なのです。
今、買いに入らないコレクターは、
素人であると言えます。
眼があれば、いまこそ、面白いのです。
眼がなければ、無理ですが(笑)

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

さて、紺泉の作品に関連して、
もう一人の若いアーティストの作品を紹介します。

car_data-1.jpg
想像界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》《ハイアート》
シニフィアン(記号表現)の作品

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
中川晋介の作品も、普通で言えばイラストやデザインにしかみえません。
しかも紺泉と同様に、この中川晋介の作品は封筒に印刷されたものなので、
なおさら、イラストでしかありません。

しかし彦坂尚嘉の眼で見ると、これが《真性の芸術》に見えるのです。
(次のブログに、つづく)

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Tattaka

興味深く拝読しました。とりわけ「もの派の作家が、シニフィエであるというところが、言っている事と、作っている作品が違うという、代表例になっていた」というところにはっとしました。
自分は最近シミュレーショニズムの持つ反資本主義的な性格と、「もの派」の持っていた反近代社会と反表現性の類似(相違はあるとして)と連続性について考えていたのですが、彦坂さんの言われる「シニフィエの芸術」という観点は、そうした思考と繋がる気がしました。もちろん、僕は「言語判定法」の法則はよくわかっていませんし、ラカン派精神分析に懐疑的なところもあるのですが、こうした基準を設けて分析するという一貫した態度には批評的営為として重要なものがあると感じております。

その上で質問なのですが、「言語分析」はあくまで表象の表層からの分析と思ってたのですが、社会的文脈も問われるのでしょうか?個人的にはそうだろうと思いますが、その場合、写真では見えないマチエールと素材についてはどのようにお考えですか?また彫刻の分析は難しいと思うのですがどのようにお考えでしょうか。不躾な質問でしたら申し訳ありません、もし問題なければ何らかの回答いただければ幸いです。本を読むべきかもしれませんが・・
by Tattaka (2009-01-26 11:58) 

ヒコ

Tattaka様
興味深いご質問ありがとうございます。
「社会的文脈」そのものの構造については、私の芸術分析は、果敢に切り込んでいっているし、出来ると思っています。ただ、その場合、従来の「社会的文脈」というものとは、違うものです。《言語判定法》も、それをつかった芸術分析も、基本的にはフロイト/ラカン系の分析ですから、それは精神分析的なものです。
 たとえば李 禹煥氏の著作を巡る「社会的文脈」というのは、あくまでも【シニフィエの連合】の中で捉えられると考えています。つまり真面目な理論的な議論ではなくて、《想像界》の夢想的な言辞なのです。李 禹煥氏の数冊の著作を読んで行った時に、時代による思考の進化や展開は、見られないのです。一番特徴的なのは、執筆の初出が明記されていないということです。『出会いを求めて』『余白の芸術 』では確認していますが、初出は明記されていません。こうした態度は《1流》の知識人のやる事ではないのです。こういう事を不問にする日本の美術界もまた、《1流》の世界ではありません。
 つまり、こうしたことは李禹煥氏特有の事ではなくて、日本の現代美術界の学問的知的水準が低いのです。つまりきちんと抑圧がかけられないのです。そのことは回顧展の水準でも言えます。回顧展が学問としてされていない。たとえば辰野登恵子の回顧展では初期作品が展示されていませんでした。これでは駄目なのです。それを駄目とは思わない空気を持っている日本社会と現代美術界を問うと言うのが、私の美共闘以来の基本的な態度です。ただ、最近は、日本の美術界の内部改革は不可能であると言う結論を、私は出しています。ですから皇居美術館と言う作品での、芸術憲法の制定というコンセプトは、外部での変革を目指すものなのです。
 
 写真では見えないマチエールとか素材という問題はあります。たとえば丹下健三の香川県庁舎の場合、写真では《第1次元》の建築と判断しましたが、実物では《超次元》の名品でありました。その場合、そのように記述すると言う事です。あらゆる判断は、間違いやミスを持っている可能性はありますし、訂正や変更の可能性は否定できません。その場合、そういう履歴を明示していく必要があると思います。
by ヒコ (2009-01-27 16:25) 

クボユン

 はじめまして。大変興味深く拝読いたしました。
 私、最近になって若手現代アートの作品のコレクションを始めたのですが、自分の気に入って買った作家さんや、購入を検討している作家さんの作品が暴落するのをみるたびに、自分が作品を買うことに自信がなくなってきました。そのような折、先生のブログがとても深いところで参考になっております。
 後学の為、参考までに以下のような若手作家についての先生のご意見をお聞かせいただけませんでしょうか。先生の気になるお方だけでもぜひお願いいたします。
ロッカクアヤコ、鈴木雅樹、松浦浩之、桜井りえこ、松山賢、増井淑乃、福永大介、長谷川冬香、天明屋尚、山本太郎、カンノサカン、塩保 朋子、加藤遼子 、谷口ナツコ、池田学、名和晃平、大畑伸太郎、大庭大介、大谷有花
by クボユン (2009-01-28 07:38) 

ヒコ

クボユン様
ご質問ありがとうございます。
画像が出てくるものについては、私見を述べる事はいといません。コメントではなくて、1本のブログで、画像を付けて、芸術分析をしますので、数日おまちください。
by ヒコ (2009-01-28 08:01) 

Tattaka

お返事遅れてすみません。拙い質問に真摯なお答えいただきありがとうございます。まったくの脱線ですが、お答えを何度か読んでいる中で、ふといつか彦坂さんによる映像分析みたいなものも伺いたいなと思いました。建築と映像の類縁について考えさせられたからかもしれません。
by Tattaka (2009-01-29 00:12) 

ヒコ

Tattaka 様
映像はできます。あまりこのブログで映画を取り上げていませんが、映画も、もっと見て頑張ります(笑)。
基本的には、何でも出来る様に、開発して来ました。むずかしかったのは実は、文学でした。出来る様になったきっかけは、中上健次の晩年の小説『軽蔑』を読んで、それがひどいもので、《6流》と判明。そして、『枯木灘』もまた《6流》であることを解明して、小説が出来る様になりました。さらに難しかったのが詩でありまして、それが出来る様になって、私は、かなり満足したのです。
できればこのブログで、詩の格付けを展開したのですが、美術で追われていて、まだ手もつきませんね。
by ヒコ (2009-01-29 00:45) 

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