直木賞受賞『利休にたずねよ』 [文学]
今回の第140回直木賞受賞をした吉田兼一の、
『利休にたずねよ』を、買って読み始めている。
吉田兼一は、同志社大学の、
美学芸術学を専攻卒した文学者である。
本屋で立ち読みして、
私がつい買ってしまったのも、
利休の把握の仕方が、
美学芸術学を学んだゆえの、
極めてすぐれた描き方で、感銘を受けたからだ。
利休が好きな私としては、読まざるをえない。
しかし直木賞を受賞していることからも分かるように、
純文学ではなくて、大衆小説なのである。
では、芥川賞の純文学と、この『利休にたずねよ』は、
どこが違うのだろうか。
まず、読みやすい。すらすら読める。
エンターテイメントとして、面白い。
利休の美学の底に、死せる女性を置くのは、
大衆小説家として巧いのである。
問答無用に、よみやすい大衆性を持っているので、
利休に興味のある方には、読み得の本です。
この読みやすさの原因を、私の視点で言うと、
《想像界》の文学である、と言う事になる。
《想像界》の文学は読みやすいのである。
もっとも芥川賞を受賞した川上弘美の『蛇を踏む』は 、
実は《想像界》の文学であった。
だから現実の《想像界》の文学作品が、
すべて直木賞の対象に限定されているわけではない。
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『利休にたずねよ』は、
《想像界》の文学として《1流》のものです。
純文学の《21流》ものを読むよりは、楽しみとしては、
ずっと《気晴らしアート》の良さを持っている。
しかし1/3の真実しか無いのです。
《象徴界》の眼と、《現実界》への視点が欠けている。
だから読みやすい。
これ以上を求めない人々が、大衆と言えます。
さて、話題が飛んで恐縮だが、
大衆音楽の安室奈美恵のアルバムも、良くできていて、
良く出来た万華鏡の美しさで、しかも《1流》の音楽なのです。
《1流》ということで、『利休にたずねよ』と
安室奈美恵の音楽は、同位なのです。
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彦坂理論では、
この情報化社会は、新《想像界》が上部構造を形成している時代です。
かつての自然採取の《想像界》の時代がシニフィアン(記号表現)
性が強かったのに対して、
コンピューター社会である現在の《想像界》は、
シニフィエ(記号内容)性が強いのです。
このシニフィエ的《想像界》性が、新しさなのです。
その意味で、情報化社会においては、
《想像界》のシニフィエ芸術が、跋扈する。
村上隆の美術作品も、《想像界》の芸術です。
《想像界》の芸術という意味では、
村上隆も、安室奈美恵も、『利休にたずねよ』も同位なのです。
村上隆が《13流》、
安室奈美恵が《1流》、
『利休にたずねよ』が《1流》です。
本来はポップミュージックで《第3次元》であるはずの安室が、
《1流》の《第1次元》で展開していると言うところに、
今日の大衆文化が、村上隆などのファインアートよりも
上位に展開している事の理由なのです。
安室奈美恵は、デザイン的エンターテイメント音楽として、
《1流》は、たいしたものなのです。
そしてまた、大衆文学が、《第1次元》に展開して、
利休の芸術論を絵解きして行くと言う事もまた、
たいしたものなのです。
かつての大衆文学は《第6次元》であったからです。
こうしたことから導かれるのは、
情報化社会では、上部構造には、大衆文化が来て、
純粋美術であるはずの村上隆は《第13次元》に、
そして純文学の津村記久子が、《第21次元》にと、
下部構造になっているのは、
かなり本質的な構造であるのです。
大衆芸術が、社会の上部構造で、
純粋芸術が、社会の下部構造になっているのです。
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山本兼一氏の顔です。
《想像界》の眼で《第1次元》の《真性の文学者》
《象徴界》の眼で《第1次元》の人格
《現実界》の眼で《第1次元》の人格
《想像界》の人格
気体人間
《気晴らしアート的文学者》《ローアート的文学者》
シニフィエ(記号内容)的人間。
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