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芸術とビジネスの基本/ビル・ゲイツと小松安弘の顔(加筆2校正1) [アート論]

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お金を儲ける精神というのは、
どういう ものだろうか?

私自身は、金儲けに関して、
全く駄目というか、
能力が病的に、欠如している。
精神障害者と言えるだろう。

前にも書いたが、
村松画廊や、東京画廊での企画展をやっていても、
全くのボランティアであり、交通費も、
電話代も、自分持ちで動いていた。
なぜに、そんなことをするのか?
美術を探究したかったからです。

しかし社会というのは、私が金をもらって動いていると
思っていたのだろう。
さんざんに悪口を言われた。

たしかに多くの若い作家の展覧会を作ったけれども、
もっとも、展覧会を作る過程で、
その若い作家の弱点を見つけて、
私は去って行っているのだから、
問題はある。
若い作家を消費して来た面があるからです。

その意味では、私は親切な教師ではない。
あくまでも芸術の求道者であって、
多くの才能が涸れて行くのを、
冷たく見て来ている。

冷たく見る以外に、
何が出来ると言うのだろうか?

もう一つ、
誤解を招いた原因は、有限会社として
彦坂尚嘉アトリエを作ったせいもある。


会社を作ったのは、岡崎乾二郎が、
「今の時代には、法人だけが主体だ」というようなことを言っていて、
良く考えもせずに、それもそうだと、思ったからです。

しかし、かたちだけ会社で、
実際にはひどい経理状態で、
最近、税理士から愛想をつかされて追い出されてしまったのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

社会は金儲けで動いている。
だから、
私利私欲を超えた動きは、
社会は、理解できないです。

そのことを私は知っているはずなのですが、
それを無視しようとする。

もっとも、こうしたことも、
私だけではなくて、あるタイプの人には、
同様の傾向があるようです。
例えば、アップルのスティーブ・ジョブズです。

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《想像界》の眼で《超次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《超次元》の《真性の人格》
《現実界》の眼で《超次元》の《真性の人格》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人格
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な人格

《シリアス・アート人格》《ハイアート的人格》

シニフィエ(記号内容)の人格
『真実の人』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さすが、パーソナル・コンピューターを作り出した人物の顔は、
典型的に《超1流》のものです。
このスティーブ・ジョブズは、お金にこだわらない人のようです。
アップルコンピュータ社の暫定CEOに就任して以来、給与は毎年1ドル
しか受け取っていないことが有名なのだそうです。

金になるか、ならないかだけで、仕事を判断するのは、
たしかに間違いです。
リスボン建築トリエンナーレに参加する時、五十嵐太郎さんが
人選をして、私と、後2人の建築家が選ばれたのですが、
予算が無いと聞いて、この2人の建築家は降りたのです。

嫌になった五十嵐太郎さんを励まして、予算無しでもやろうと
言ったのは、私です。
予算無しでも、金儲けにならなくても、やりたい事は、やるのです。

こんぴらアートも、こういうお金の話になると、悲惨です。
とてもこのブログでは書けません。
それでも、やって、成果が上がるのです。

ナスとトマトを天井に付けた、シーリング・イベントは、
彦坂尚嘉という作家にとっては、重要な展開です。
これは「こんぴらアート」をプロデュースした梅谷幾代さんとの
コラボレーションから生まれた作品で、彼女抜きには、
ありえませんでした。

聖書に「狭き門より入れ」とありますが、
「狭き門」というのは、貧乏神の居る門のことなのです。

ギャラリーARTEの梅谷幾代さんも貧乏神です。
しかし眼は良いです。
《超1流》の《真性の芸術》家を良く集めて来ます。
打率4割バッターで、たいしたものです。

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たぶん、このブログの執筆も、金儲けと思っている人も、
いるのだろうと思います。
しかし当然ながら、この原稿はただ原稿であって、
売文ではないのです。

売文で、商売で文章を書くということと、
純粋に認識や、探求として文章を書いて行く事は、
違うのです。

事実を事実として知り、真実を見ようとする欲求というのが、
ある人間と、無い人間がいるのです。

本日は、アートスタディーズがINAXで開催されますが、
これももちろん、ボランティアだし、
建築系ラジオも、全くのボランティアでやっています。

こういう無償の知的な交換の場というのが、
知性を持つ美術の探求のためには、必要なのです。

でなければ、美術は、単なる無知無能の、
馬鹿の生産物に成り下がるのです。
アウトサイダーアートは、芸術ではないのです。

人類の歴史の中で、芸術を代表するものは、
レオナルド・ダ・ヴィンチのような知性者であって、
ヘンリー・ダーガーではないのです。
ダーガーの作品は、実物を見ると良く分かりますが、
芸術ではありません。
実物を見てから、判断してください。
ここには芸術も無いし、
ダーガー自身の私性もないのです。

私性が無いというと、信じられないでしょうが、
子供の絵には、私性は、無いのです。

子供は自然です。自然にあるのは私性ではなくて、
デザイン性なのです。

神が世界をデザインしたと言う言葉のように、
デザインというのは、自然性であって、
子供の絵にあるのは、デザイン性です。

そしてダーガーの絵にあるものも自然性であって、
ですからデザイン性なのです。

ダーガーは、大人になっていないから、
私性という、神から自立して個人の主体が成立していないのです。

つまり人間になるというのは、自然を作りし神から、自立する事です。
芸術というのは、神を超えたものを作り出す事です。

ダーガーの絵には、そうした神との戦いのドラマが無いのです。

ダーガーは子供=自然のままです。

henry.jpg
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品、固体美術。

《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィアン(記号表現)の美術。
《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
基本的に、認識や思考というのは、
ビジネスの領域の外にあります。

知的な情熱と言うのは、無償の行為によってしか、
生み出し得ないのです。

しかし、今、考えたいのは、
これとは反対の、ビジネスのことです。
いかにして、金を儲けるのか?
という、ビジネス入門書のようなことを考えてみたいのです。

ビジネスとは何か?
意外な言い方で、信じてはくれないでしょうが、
ビジネス、さらには金銭は、人工的なものではなくて、
じつは自然性に由来するものです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ビジネスの起源は、沈黙交易です。
沈黙交易はビジネスの原初的なものです。

沈黙交易は、取引をする双方が,言葉も用いることなく行うビジネスのことです。


沈黙交易は、異なる共同体の交易方法としてあります。

つまり、共同体の内部での取引ではなくて、共同体の外部での交換が、

商業の発生の起源なのです。

ですから、ビジネスは、最初から外国貿易なのです。

共同体の内部というのは秩序がありますが、

共同体の外部には、秩序が無くて、カオスです。

このカオスの中での物物交換が、ビジネスです。


ある決められた場所に品物を置き、合図をして姿を隠すと、

取引相手が現われて等価と思われる品物を、相手の品物の傍に置いて去る。

取引の両者が相手の品物に満足すれば、相手の品物を持ち帰り、

交易が成立する。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

無言の物物交換にこそ、ビジネスの起源があります。


そして貨幣の起源は、この物物交換性にあります。

江戸時代にも貨幣はありますが、しかし物物交換性は残っていて、

米で給料をもらっていたのです。それが禄です。

藩主から給料として米をもらい、余った分は、

お金と交換して、いろいろなものを買っています。


貨幣は、モノではありません。

貨幣は、《信用》なのですが、

しかし、その根底に物物交換と、それを可能にしたカオスが

存在しているのです。


つまり物物交換という、モノの世界が基本としてあって、

それを抑圧否定して、モノではない《交換価値》に転化しているのです。


同時に、貨幣の基本には、出自の空間であるカオスが潜在しています。

このカオスを抑圧して、《信用》に転化しているのです。


つまり貨幣というのは、モノの、「まがいもの」なのです。

そして、カオスの「まがいもの」なのです。

ですから貨幣を《交換価値》という抽象的なものと信じ、

《信用》という秩序と見る事は、深層を見誤ることになります。


経済の実体は、モノのカオス世界です。

物欲と無秩序が経済世界なのです。


この「まがいもの」というのを、今の言葉で言えば、

ボードリアールが提唱した概念である《シミュラークル》ということに

なります。

つまり貨幣というのは、モノのシミュラークル》であり、

カオスのシミュラークル》なのです。


つまりビジネスという経済世界を生きるというのは、

シミュラークル》にではありますが、

モノとカオスの世界を生きる事なのです。

つまり無秩序な物欲の世界を生きる事がビジネスです。


無秩序な物欲の世界を生きるというと、

思い当たる事がたくさんあります。

ディラーが見せる、餌を前にした犬のような目や、

作品をブツとしてしか扱わない感覚。

芸術への不感症性や、社会的風評からの自立性の欠如。


 


ビジネスで成功するための基本は、

コスモス=村の外の無秩序に出る勇気です。


物欲の動物的欲動を正視する、主体的強靭さです。

弱者にビジネスは、できないのです。


ビジネスの世界は、弱肉強食の世界です。


私にビジネスが分からなかったのは、弱者であったからでしょう。

幼い時から体が弱く、生死をさまよいながら生きて来たゆえに、

物欲の無秩序世界に、裸で入って行く勇気が無かった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、あいかわらずの悪口を言いながら、

世界は、こうした無秩序な物欲の世界に変貌してしまっています。

シミュラークル》といいながらも、

モノのカオスの世界が、今日の私たちの生活世界なのです。

そこでは、根源的な秩序=コスモスの感覚が、抑圧されているのです。


こうしたビジネスの世界に、芸術家も生きなければならないという、

そういう主張が、村上隆の芸術起業論であり、

そしてその根元には、ジェフクーンズの存在がありました。


さて、遅ればせながら、ビジネスについて考えなければと

思うようになりました。


それと、年齢が高くなって来たときに、
自分を活性化させるのには、若い時にやらなかったことを、
やると言うのがあるのです。

だから晩年は、金の亡者になって、
悪辣に稼ぎたいものだと、思うのですが、
しかし、方法は分からない。

知人がFXをやっているので、何回か見学をさせてもらったが、
これは完全に博打であって、
原理的に私はやらない。

さて、そういうわけで、金を儲けている人々の
研究をしようと思います。

さて、そこで登場願うのが、
食品トレーのシェアトップ企業エフピコの社長である
小松安弘氏です。

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【続きは下記をクリックして下さい】

小松安弘氏の顔です。
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的人格
《象徴界》の眼で《超次元》の《真性の芸術的人格》
《現実界》の眼で《超次元》の《真性の芸術的人格》

《象徴界》の人格
液体人間
《シリアス・アート的経営者》《ハイアート的経営者》

シニフィアン(記号表現)的人間。
『真実の人』
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


小松安弘氏の《想像界》が《第6次元》で、
《象徴界》が《超次元》、そして
《現実界》が《超次元》、
というのは、
実は、事業に成功して富豪になる、
精神の型なのです。

つまりお金がもうかって富豪になる精神の型があるのです。

『週刊エコノミスト』が、「世界の金持ち」という特集号を
出しています(9/16、2008)。


その中にある何人もの顔写真は、どれも同じ型をしているのです。
つまり《想像界》が《第6次元》なのです。

大成功している人々が《超次元》であるのは、当然とは考えられる
のですが、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界のすべてが《超次元》ではな
くて、《想像界》は《第6次元》なのです。

つまり私見によればですが、
普通に外部世界を見ている見方は、自然の眼差しで見ていると
言う事です。

そういうと、自分の事が分かるのですが、私は外部を《第6次元》では、
見ようとしていないのです。

おかしな目で見ているのだと、思います。

たとえば、地面をジーと凝視しつづけると、地面が盛り上がって来ます。
普通の光景の中に、凝視によって、異界を見る事ができるのです。

アトリエを建てる時に、神主さんが来て、お祓いをしたのですが、
そうすると地霊が、私の目には見えるのです。

広島の原爆資料館に行って出てくると、
広島の街には熱い大地と、まだ成仏していない多くの亡霊が
歩いているのが見えたのです。

まあ、思い込みの強い、
少しおかしい、病んだ人と言う事なのでしょうが、
本人には、真面目に見えるのです。

こういう、神がかった、おかしな目をしていると、
自然には外界を見ていなくて、
それでお金が儲からなかったのですね(笑)。

お金を儲けるためには、自然な常識的な視線で世界を見て、
しかし《象徴界》と《現実界》では《超次元》性を持つ必要があるのです。

しかし、本当に、そうなのでしょうか?
世界の富豪のひとりビル・ゲイツの顔を見てみましょう。

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ビル・ゲイツの顔です。
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的人格
《象徴界》の眼で《超次元》の《真性の芸術的人格》
《現実界》の眼で《超次元》の《真性の芸術的人格》

《象徴界》の人格
液体人間
《シリアス・アート的経営者》《ハイアート的経営者》

シニフィアン(記号表現)的人間。
『真実の人』

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ビル・ゲイツの目にある、かすみ(霞)のようなものがありますが、
あれが、フロイトの言う「文化断念」です。
自分の自然な動物的な欲望を断念して、スクリーンの向こう側に
直接的欲望を追いやって、我慢している人格を形成するのが、
大人になる事なのです。
大人になると言うのは、「がまんすること」であり、
「耐え忍ぶ」ことなのです。


たとえば若い男には、強い性衝動がありますが、
これを一度断念していないと、やたらにレイプに走ることになります。
文明というのは強姦を厳しく禁止しているのは、
自然としての性衝動を、強い文化的圧力で禁止して、断念させることで、
社会秩序を形成しているからです。

こういう禁止はレイプや、麻薬の使用、泥棒、嘘、殺人衝動等々
さまざまな原始的欲動に禁止があって、
こういう文化の持つ断念を全面的に受け入れないと、
社会的に、成功する事はできません。

こういう文化断念を持っている人格であることが、
ビル・ゲイツの目には、あります。

それにたいして、文化断念にないのが、
ホリエモンのような文明の中の野蛮人たちです。

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堀江貴文.jpg
お金儲けと言えば、昔は、ホリエモンでした。
ホリエモンの顔には、文化断念がありません。
つまり天然=未開人なのです。

ビル・ゲイツと比べて見て下さい。

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若きビル・ゲイツの目にも、かずみ(霞)がかかっています。

二人の目を並べて見ます。

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二人とも、《想像界》では《第6次元》なのですが、
ビル・ゲイツの目には、文化断念のあるのですが、
ホリエモンには、文化断念がなくて、
子供の目をしているのです。

そして、こうしたホリエモンの子供の目では、
世界的な大富豪にはなり得ないのです。
なぜなら、社会を成立させている文明の法の原理と、
ぶつかってしまうからです。

金持ちになるには、文化断念が必要なのです。

【以下の記事の出典】
profile.jpg
「忍」の経営を50年貫く
食品トレーのシェアトップ企業エフピコ

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
家族で夜なべしてトレーを作り、
さまざまな困難を耐え、
トレーを単なる「容器」から、
「食品を演出する道具」に変え、
売上高1300億円の企業を作った男である小松安弘氏の物語です。

食品トレー製造最大手、エフピコ社長の小松安弘(71歳)。

毎日、出社するとすぐに、全国の営業所幹部約20人に対して、
次々と電話をかける。

電話口でまくしたてる小松の手元には、
前日の夕方に集計された受注データが届いている。
小松はデータのわずかな変化を見逃さず、「価格はどうなっているか」
「ライバル企業の動きはどうか」など、気になる点を営業所の状況に
合わせて丁寧に聞き出し、指示を出す。相手の話す内容や声色で、
日々の状況が分かるという。

経営と言うのは、こういう毎日の社員管理と、コミュニケーションが
重要なのでしょうね。
私なんかは、アシスタントを雇っても、こういう管理が出来ない。

アーティストというものが、
《自己愛》性人格障害者であるとすると、
自分の欲望だけの実現を追求してしまって、
他人と一緒に仕事ができないのです。

村上隆の芸術起業論をつまらないと批判する事はできますが、
情報化社会の芸術は、根本のところで、近代以前の美術家が
持っていた工房性を回復するところにあるのです。

そして狩野派のように、集団で画派を形成する以外に、
生き残りが出来ないと思います。

美術評論家も、学芸員も、コレクターも、ギャラリストも、
だれも美術家を守ってくれないのです。
美術家は美術家で、集団的に自営して行かなければ、
金銭的にも、淘汰されてしまいます。

話す時間は、毎日一人あたり1分から2分くらい。長くても5分程度にすぎない。
短い時間だが、「毎日やりとりするからこそ、変化が分かる。だから毎日続けることが
重要だ」と小松氏は言う。


短い会話が重要なのですね。

私なんかはおしゃべりで、ほっておけば8時間でもしゃべっている。
しかしそれは自己満足であって、経営的会話ではないと言う事です。

自分の欲望は、抑制し、我慢する事が重要なのです。
自分のしゃべりたいと言う欲望を抑制する。
できれば断念する。

人間は、自分の話をしゃべりたく、他人に聞いてもらいたいという、
基本的な欲望があります。
この欲望を抑圧する。さらには断念することが重要なのです。
自分がしゃべるのではなくて、
他人の話を聞く。

他人にしゃべらせる。
他人の表現を聴くということが、
実は社会生活の基本なのでしょう。

シラールも、ラカンも、人間の欲望は、
他者の欲望のコピーであると言います。

それならば、自分がしゃべりたいという欲望もまた、
他者の欲望のコピーに過ぎません。

実際に、自分の中は空虚であって、
しゃべるべき内容など無いのです。
おしゃべりそのものが、実は内容の無い空虚にすぎません。

では、何故に人は、空虚な内容をしゃべり続けるのか?
それは、パスカルの言う《気晴らし》だからです。
自己自身と向き合う事を避けるために、
《気晴らし》にしゃべっているのです。

しゃべると言うことにしても、
自分の欲望を満たすためにしゃべるのと、
他人の欲望を満たすためにしゃべるのでは違うのです。

そしてまた、他人の欲望を満たしつつ、自分の欲望を実現するという、
《欲望のコラボレーション》では、
しゃべることという自身が、違う事になるのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

日本の売れもしない《自己愛》性人格障害の美術作品は、つまらない。
知的にも低い。
何よりも教養が無い。
美術を美術だけで閉じて考えられるはずが無い。
同時代の音楽も、文学も、政治も、兵器も見て行かなければ、
現代アートを、面白くする事は出来ない。
それなのに、多くの美術家は閉じて、迷信の中に自足している。

かといって、他者の欲望を満たすだけの売り絵『ペンキ絵』は、
同様につまらない。
それは悪質で、低級な職人仕事に過ぎない。
ここでも、精神は自閉している。

希望があるとすれば、
他人の欲望を満たしつつ、自分の欲望を実現するという、
《欲望のコラボレーション》です。
営業ばかりではなく、小松は製品開発にも細心のこだわりを見せる。

季節などに合わせて新製品を出す。
小松はそれを1点ずつ手にとって、さまざまな角度から出来具合を
チェックする。
「アイテム数は多いが、1点1点が勝負です。サイズはどうか、色はどうか、
厚みや強度はどうかなど、どれも考えに考え抜いて作っている」。


トレーは一枚あたり数円から数十円と、決して単価の高い商品ではない。

不況が日増しに深刻さを増していく中、
小松が率いるエフピコの2009年3月期の業績見通し(連結)は、
売上高1303億円、経常利益82億円に達し、
いずれも過去最高を更新する見込みである。 

お金を儲ける精神というのは、こうして一つの単品の社会的有用性を
発見して、それに磨きをかけ、絶え間なく、発展させる事なのです。

こうした原理は、思想家や、美術家にも言えます。

では、彦坂尚嘉という美術家は、いかなる原理を発見し、
何を明らかに、してきているのか?

いくつかの事柄がありますが、
根本にある一つのことは、芸術とは、自然ではないと言う事です。
人工なのです。
それは構造として人工性をもっていて、
絵画で言えば、原始平面ではなくて、《透視画面》こそが、
芸術絵画の構造であるという事です。
(彫刻論や建築論である透視立体については、ここでは省略しておきます。)

では《透視画面》を形成し、
オプティカル・イリュージョンを生み出すためには、
いかなる方法があるのか?

それは、面を自覚的に形成する必要があると言う事です。
自覚的と言う意味は、複数の《透視画面》を組み合わせる必要がある
と言う事です。

面と言うのは、実は、超ひも理論でも説明に使われているように、
異次元への超出性を形成するのです。

芸術絵画とは、複合画面を自覚形成することで、超ひも理論が語る異次元へと
超出する精神的達成の高みなのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
この辺の、具体的な芸術論、画論、技法論を、
少しづつ書いて行こうと思います。

そのことと、ビジネスとは、どうかかわるのか?

最初に書いたように、ビジネスとは、
共同体の外のカオスに生まれました。

カオスの向こう側に、実は、第5次元の世界があるのです。
第5次元もまた自然ではありますが、しかしその自然は、
次元を超えた向こう側なのです。
かつての絵画は、自然を描いたのですが、
今日の絵画は、自然の向こう側の第5次元の仮想を描き出すのです。

つまり社会的カオスが、ビジネス領域であるとすれば、
ビジネス=カオスの向こう側にこそ、第5次元領域が広がっているのです。

つまり、もはや芸術のコスモスへの回帰は断たれたのであって、
この文化断念を経なければ、今日に情報化社会における、
芸術は成立し得ないのです。

この世界金融危機で、この社会がつまらないという感覚が広がっています
が、それは、実は私たちが、伝統的なコスモス世界=村を、失っている
からです。

伝統的な村社会の閉鎖性は、失われたのです。
それは、政治社会学的には、平成の大合併と連動しているし、
自民党政治の崩壊と連動しています。

市町村大合併は、明治期、敗戦期、そして平成のこれで3回目ですが、
合併を繰り返すことで、私たちの生活世界は、根本的な喪失を被って
いるのです。それは、村というコスモス=秩序の喪失です。
この喪失によって、私たちの人生の意味が消えてしまったのです。
なぜなら、生活の意味と言うのは、共同体のコスモスに支えられていた
からです。

今日の日常生活には、無意味感がつきまとい、
なぜに生きなければならないのかが、分からなくなっています。

それを補完するのが、島の形成です。
ネット上に、疑似共同体を形成する事です。
擬似的な大家族性を、ネット上に、開かれた形で作り出して、
シュミラクルに、擬似的な満足を得る事。

おそらく、この疑似性を超えようとした時に、
再度、《真性の芸術》の社会的なニーズが生まれるのです。
《真性の芸術》を見ることによって、自分の生きる、
根源的な意味を回復する事ができる。

《超1流》の《真性の芸術》の中には、
独りの人間が、限られた中で精一杯に生きて蓄積してきた私性が、
かけがえのない固有性としてあるのです。

それは神を超えた私性の存在です。

芸術作品を買うと言う事が、人生にとって、
宗教以上に、意味のあることであるという
そういう時代になって来ているのです。
それほどに、人生は、意味を喪失して来ているのです。

気の狂わないために、ラカンの晩年が指し示す第4の輪である《サントーム》
として、《真性の芸術》は、出現するのです。

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界が、ばらばらになる事が
気が狂う事だと、ラカンは言います。それを、つなぐのが《サントーム》
です。

ラカンの分析したのはジェームス・ジョイスですが、
私は、メガデスのデイヴ・ムステインのスラッシュ・メタル創出の
軌跡の中に、芸術が《サントーム》たりえる事を見ます。

お父さんに虐待されて育った子供が、8種類もの麻薬を同時にすると
いった中から、ギター演奏で、狂気を克服して行く過程を歩むのです。
そして、その音楽を聴く事で、私も死を克服した。

つまり私たちは、狂人の世界に生きているのです。
気の狂わないためには、第4の輪、《サントーム》が必要なのです。
《真性の芸術》は、《サントーム》です。
気の狂わないために、《超1流》の芸術作品があるのです。

私自身は、すぐれた作品を見つけると、
後、1ヶ月は生きられると、思います。

弱い個人が、私的に生きて死ぬ事の意味が、
《真性の芸術》にはあるのです。

人生に絶望しているあなたに、
《真性の芸術》を!

《真性の芸術》は、ビジネス市場を超え、
さらには神をも超えた【超越的私性】なのです。


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