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伊東直昭の個展にむけて(加筆1) [気体分子ギャラリー]

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◆1◆◆奈良美智と同じ年の生まれ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

伊東直昭は、1959年神奈川県横浜市生れで、藤沢市在住
1985年に多摩美術大学の美術研究科を修了しているアーティスト
です。

実は、奈良美智も1959年に生まれているアーティストなのです。
つまり伊東直昭は、奈良美智と同い年のアーティストなのです。

この二人に違いはたくさんあります。
伊東直昭は、アーティスト・レジデンスの世代で、
インスタレーションの作品も多く作って来ているからです。
しかし共通性もあって、
自分の描きたいものを描いて行こうとする頑固さです。
それは奈良美智がナイフを持った少年を描いたように、
伊東直昭は、内面的に錯綜してひねこびた人物像を描き出します。

伊東直昭の外面は、非常に大人の、真面目で善良な人物なのですが、
しかし描き出す人物像は、異様にひしゃげ、屈折していて、
怖さをもった、危険で、不穏な暗い人物像なのです。
この落差は、観客を戸惑わせ、考えさせるものを持っています。
人間の内面の不可思議さを感じさせるからです。

◆2◆◆ポストヒストリカルの世代◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

奈良美智や伊東直昭の世代は、1975年にアメリカがベトナム戦争に
破れることで、一つの近代が終わった後の世代であると言えます。

つまり近代という時代は、端的に言えば産業革命の作り出した時代で、
この産業革命は、イギリス/アメリカ型の自由主義の近代と、
ソヴィエト/共産圏がたの社会主義の近代の、
2つの近代があったのです。

日本の常識では、近代に2種類あったと明確には自覚しませんが、
ネグリ/ハートの『帝国』では、こういう近代観によって、
書かれています。

そしてこの自由主義型の近代が、もう一方の社会主義型の近代と、
ベトナム戦争というアジアの場で激突する熱戦を戦ったのです。

私たちは「冷戦構造」という言葉になれて、
現実には熱戦が、朝鮮戦争でも、ベトナム戦争でも、
そして10年も費やしたソヴィエトの最後の戦いであった
ソ連・アフガン戦争も、熱戦であったのです。

さて、ベトナムでアメリカが敗れたとき、
同時にモダンアートの歴史も終わったのです。

それはソ連・アフガン戦争で、ソヴィエトが破れた1989年に
もう一つのソヴィエト型近代の終焉であった事と、
重なるのです。

こうして1975/1989年で、
近代は最終的に終わるのです。

ですから1991年のソヴィエトの崩壊で、
アメリカが冷戦において最終的に勝ったと考えたのは、
1975年のベトナム敗戦を忘れた錯誤であったのです。
実は1975/1991年で、アメリカとソヴィエトの両者が破れて、
脱近代の違う多極化の時代に入っていたと考える方が、
合理的であるのです。

1975年のアメリカの敗戦は、
近代の終焉による、新しいスタートを始めさせます。

音楽で言えば、それは現代音楽の前衛の停滞となって現れ、
それを突破するかのようにして、ブライアン・ファーニホウ
[第41次元の音楽]が現れます。
それは「新しい複雑系の音楽」と呼ばれるものです。


もう一つはロックに於けるパンクロックの登場となって、
現れたのです。それはさらには1980年のバットレリジョンの結成に
結実して《第41次元》の音楽の確立となって、以後に大きな影響を
与えます。

では美術ではどうであったのか?
美術は複雑な形態をとりますが、一つはシンディ・シャーマンの登場で、
以後、似た様な扮装もののエピゴーネン・アーティストを大量に
作り出します。
シンディ・シャーマンは、1976年にバッファローで初個展を、
そして1980年にニューヨーク・ソーホーのメトロピクチャーズと
ザ・キッチンでの個展が成功し、
アート界で注目されるようになります。
そしてその作品の展開はグロテスクな汚物や性器をむき出しにした
人形を使う《第41次元》的表現になって行くのです。

この1975年以降の脱近代/ポストモダンの状況を、
美術史の終焉として語る論調が現れます。
ハンス ベルティング著『美術史の終焉?』(1991年勁草書房) などが、
代表ですが、後数冊あったように思います。

これらの評論の内容は、それほどたいしたものではないのですが、
ポストヒストリカルな時代の雰囲気は、指し示す効果があったのです。

伊東直昭らの表現の特徴は、
この美術史の終焉の意識であって、
そこには前衛の終焉以降の、独特の閉塞した停滞感と、
その中で、自己の内面の必然性で美術を判断して作り出そうとする
暗い、淀んだ錯綜性があるのです。

◆3◆◆気体分子ギャラリー第1回個展として◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

彦坂尚嘉という1946年生まれのアーティストが、
作品として展開する気体分子ギャラリーという画商活動の、
その第1回に伊東直昭を取り上げるのは、
このアーティストとの信頼感が形成されている事があります。

伊東直昭は、多摩美術大学の学生の時に、Bゼミという横浜にあった
小さな現代美術の学校の夏期講座を受講して、彦坂尚嘉に出会って、
大きな影響を受けているからです。
彦坂尚嘉から、再び美術を近代以前の古典に回帰する所から
基礎づけ直すという方向性を与えられます。

彦坂尚嘉の芸術論の特徴は、
モダンアートを、近代以前の芸術の脱構築として見るという、
見方です。
それは比喩としては家族論で語られます。
つまり家族と言った時に、全人類の歴史の中で見ると、
家族というのは血縁集団で、大家族こそが、基本の形態であって、
近代の核家族は、その大家族の解体現象であって、
家族の原型ではないと言う見方です。

つまり、同様に芸術は、近代以前に本来の芸術作品があるのであって、
その近代以前の芸術の解体として、現代美術は現れている
という解釈です。

だから、繰り返し、前近代に回帰する事で、
歴史的理性として芸術が把握可能になるのであり、
故に、前近代の芸術を脱構築して行く事が可能にあるという
主張なのです。

伊東直昭は、マチアス・グリューネヴァルトの『十字架刑図』という
《第41次元》の絵画から大きな影響を受けて、
グロテスクな様相を持つ絵画やドローイングを描きだします。

彦坂尚嘉は、この《第41次元》性を持つ伊東直昭の作品の暗さを、
高く評価したのです。それはバットレリジョンの音楽や、
シンディシャーマンのグロテスクな性器をむき出しにした人形の
作品と同次元の《第41次元》性の刻印を持っているからです。

◆4◆◆内面に閉じこもる情報化社会の象徴主義美術◆◆◆◆◆◆◆◆

伊東直昭の作品は、外部性を失った、内面だけの人間の停滞と退廃を
描き出しているかのようです。それは19世紀後半の、
人間の内面や夢、神秘性などを象徴的に表現しようとした
ギュスターヴ・モローやオディロン・ルドン、
ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌといったアーティストに
つながる様な様相を持っています。

では、単純な焼き直しであり、復古なのか?というと、
そうではなくて、奈良美智に代表されるドローイングによる直裁な、
シニフィエ(記号内容)の美術を展開してくるのです。
情報化社会の美術の特徴である脳内リアリティの直接表出を目指す
かのような、その作品は重い様で軽く、
そしてサブカルチャー的であり、そして伊東直昭が好きな、
プログレッシブなロックが聞こえてくるドローイング作品なのです。

タグ:伊東直昭
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コメント 6

じゃむ

< そしてサブカルチャー的であり、そして伊東直昭が好きな、
プログレッシブなロックが聞こえてくるドローイング作品なのです。

彦坂さま
感性とは、まことに不思議なものだなと思いました。
私にはプログレッシブなロックが聞こえてこず、しばらく考えながら拝見して、聞こえてくるとしたら何か不思議な郷土音楽のようなもので、ロックからは、程遠いものでした。
by じゃむ (2009-04-09 07:00) 

ヒコ

じゃむ様
コメントありがとうございます。
「不思議な郷土音楽」というのは、正しいでしょうね。
プログレッシブロックを伊東直昭さんや白濱雅也さんが好きなのは確かですが、
伊東直昭さんの聞いているもののなかに、システム・オブ・ア・ダウンがあります。
これは1995年結成のバンドですが、メンバー全員がロサンゼルスのアルメニア・コミュニティ出身であり、アルメニアの民族色の強い郷土音楽とラウドロックの混合の様な強い音で、社会的・政治的メッセージの強い歌を歌うことで有名なバンドです。
伊東直昭さん自体は、音楽フリークですが、好きな音の幅は、明確にあるのですが、それがそういう変なものであるのです。
by ヒコ (2009-04-09 07:39) 

symplexus

静まり返った本部棟と研究棟の中で,
伊東さんの作品と今日向き合ってみました.
最初の印象とは違って黒い霧のようなものが希薄となり,
僕の中で封印されてきた人間への暗い疑念が共振しあうのを感じました.
幻想絵画の系譜を指摘されて錯綜した糸が解けてきたようです.
僕も一時ルドンに魅せられたことがあります.
ルドンの眼は現実に対して閉じられていました.
もっと正確に言うと,通常では見えないものに対して
幻想の眼を開き見据えていたように思います.
伊東さんの作品は幻想の世界を彷徨うようでいて
どこか醒めた批判の刃を感じるのです.
ヒエロニムス・ボッシュが暴き出した悪意とかに重なる世界です.
弱きものへのシンパシーから一歩すすんで,
弱さが生み出す醜悪さとかに連なる道程,
それゆえ心地よい癒しとはならないことが
僕等を不安に追い込むのかもしれません.
大勢の方に直接作品と対峙して頂きたいと思います.
by symplexus (2009-04-09 23:08) 

じゃむ

彦坂さま

いつもの事ながら、明確な情報ありがとうございます。
毎回学ぶことが多いです! (^^
by じゃむ (2009-04-10 05:29) 

中野輝也

彦坂さま

初めまして。
これまでの人生でまったく芸術と縁がなかった私が、
芸術に興味を持つようになりました。
もちろん、このブログのおかげです。
いつも興味深く読ませてもらっています。

そして、「透視平面」の眼を少しでも養おうとこのブログを読んで勉強中です。

上にある伊東直昭氏の2つの作品について、
「透視平面」が成立しているかどうか考えてみたのですが、
降参しました。わかりません。
直感的には下の絵の方が「深い」ような気はするのですが……。

基準なき直感で判断していては、
芸術を見分ける眼は何年たっても成長しないのでしょうね。
これからもっと勉強して、
自分の眼に基準を作っていきたいと思います。
by 中野輝也 (2009-04-10 17:47) 

中野輝也

「透視平面」ではなくて「透視画面」でしたね。
基本的な用語を間違えるというのは、
話を聞かない人の特徴ですから、
我ながら学習態度に問題があると思いました。

「原始平面」「透視画面」関連の記事を
もう一度、読み直してきます。


by 中野輝也 (2009-04-10 19:06) 

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