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アートにおける自由の権利(改題/大幅加筆3) [アート論]

人は、何かを信じて生きている。
信じるということが、積極的な場合もありますし、
無自覚で、受け身であったり、無意識であったりもします。

無意識で信じている事を、別の言葉で置き換えると、
「先入観」ということになります。

人間は、先入観を持って生きているのです。

例えば、天気の良い空を見ると、「青空」だと思います。
しかし、確かに青く見えるわけですが、
青く見えますが、本当に青いわけではありません。
つまり「仮象」なのです。
見かけだけで、本当には青くないのです。

つまりバーチャルリアリティなのです

白い飛行機が空を飛んでも、青い絵の具が着くように、
青くならないのです。

健康な常識感覚では、どう見ても晴天の空は青く見えるのですが、
その実は青い絵の具とは、似ても似つかないのが、現実の青空です。

空(そら)は、昼間は晴れていれば青く、雲があれば白く、
あるいは黒く見え、夜間は真っ黒に見えます。

空が青く見えるのは空気太陽光線の関係から生じるものであって、
青い絵の具のように、青い顔料や染料で青いわけではないのです。

つまり見えることは、仮象であるということが、
現実にはあるのです。

1975年以降、さらには1991年以降になると、
この仮象性こそが、人間の生活の基本であって、
その仮象性に依拠しえるという考えが、社会現象として
台頭して行きます。

社会全体が《想像界》化して、
バーチャルリアリティを肯定的に考えるようになるのです。

2002年以降、2007年10月までは、
世界中が、このバーチャルな仮象性の可能性に、
根拠なき熱狂の渦に巻き込まれて行きます。

仮象こそが現実だというのです。
そしてバブルははじけ、世界は崩壊し、収縮し、
マイナスのスパイラルに飲み込まれたのです。

仮象の熱狂の冷却化は、
実体経済の崩壊的な縮小を始めました。

つまりバーチャルな世界と、実体的な世界は連動していたのです。
バーチャルだから、どうでも良いと言う自由は無かったのです。

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すごくハンサムで、アルマーニの服を着て、
200万円もする高級腕時計をして、帝国ホテルに長期滞在している
紳士が、ある女性に恋をして、愛をささやき、結婚を申し込んでくる。
その女性は、舞い上がって、結婚を信じて、
気がつくと銀行預金のお金はすべて抜き取られて、
男は消えているのです。
単に結婚詐欺師にだまされただけという、
よくあるお話にすぎないのですが、
この結婚詐欺師は、見せかけが巧いのであって、
被害者の女性は、仮象を見てしまう事で、だまされて、
お金と、幸福な未来への夢を失うわけです。

つまり信じるという事を、迷信と言っても良いのです。

根拠の無い迷信を信じて、人間は熱狂するのです。

つまり、すべての人は、何かの迷信を信じて生きている可能性が、
あります。人生は仮象性に取り囲まれていて、確実なものは、
実は少ないのです。

仮象性を信じて、ハイリスク/ハイリターンで大金をかけて、
馬鹿なような簡単な作品や、下品な作品や、若い人の作品を買う。
そしてあっという間に、10分の1になる。

先日のアートフェアには、1点の李 禹煥の作品も
ありませんでしたが、
その原因の一つは、作品が暴落し、定価では売り得なくなったからです。
しかし、1点の李 禹煥もないアートフェアをいうのは、
時代の変化を象徴する大事件であると言えます。

彦坂尚嘉的に言えば、李 禹煥の作品や思想を、すぐれていると言う
考え自体が、迷信に過ぎません。
作品も思想も《第6次元》の《6流》品に過ぎません。
人はこうした李 禹煥神話という迷信を信じて、
美術界を40年あまり作って来ているのです。
まだ、その残余はつづくでしょうが、
2020年、つまり登場から約50年が過ぎれば、
李 禹煥という迷信の80%は消えているでしょう。
それでも20%は残ります。
人間は迷信無しには生き得ないのです。


アインシュタインのような20世紀最大の理論物理学者と言われる
人もまた、迷信を信じる事にこだわったのです。
アインシュタインは、1915-16年に一般相対性理論を発表して、
自らの数式が解かれ、そして実際の観測からも、
一般相対性理論が正しいことが証明されます。
それは同時に宇宙が膨張しており、さらにはビックバンがあったことに
なったのですが、アインシュタインは、この事実を2年間認めなかった
のです。なぜならば、アインシュタインは、宇宙が定常である、
つまり変化しないでいつも同じ状態であると信じていたので、
膨張し続けているという現実の宇宙の姿を受け入れるのを拒んだのです。

この事実から、アインシュタインほどの科学者ですらが、迷信を信じ、
迷信に固執すると言う事が、理解できます。

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もちろん、迷信と言われて怒らない人はいないですが、
すべての信じるべき内容は、実は真実や事実とは言えないものである
事は、ソクラテスがその対話の中で明らかにしたことでした。

私自身が体験して来た事からも、ソクラテスの対話が開示したことは
正しいのであって、すべての人は、各自独特に迷信を信じて
生きています。
そのことを私が、具体的に指摘すると、激怒します。

私が体験して来た激しい喧嘩のすべては、こうした迷信との
いざこざでした。
美術界にも、迷信は多いのです。
多くの人が仮象を信じています。

いや、逆に、芸術というのは、仮象を信じる事だと、
思っているのです。
つまり迷信をどれだけ信じられるかと言う、
迷信教の大会が、芸術界であると信じているのです。

迷信と言う意味は、他人から見ると、
明らかに事実としても間違って見えるものを、
信じる人からは、確実な真実として信じて生きているということです。

信仰の自由というのは、そういう意味であって、
特定の宗教を信じていない人や、
宗教そのものを否定している人もまた、
何かの迷信を信じる事で生きているのです。
その意味で、あらゆる人は信仰の人であって、
だからこそ、信仰の自由は大切なのです。

個人が、各自自由に、好むところの迷信を信じ生きることを、
お互いに、認め合う必要があります。
なぜなら、迷信であると指摘すると、指摘された人は激怒して、
激しい憎しみをもって、暴力的なまでの争いになるからです。

人間には、自分の信じる迷信を信じて生きる権利があるのです。
そしてまた、その迷信を広める活動を行うという、
布教活動もまた、憲法で認められています。

その迷信を信じる団体を結社する権利があるのです。

ある迷信を信じるか信じないか、
迷信を信じるとして、どの迷信を信じると選択するか、
それを各自が自由に決める権利があるのです。

そしてまた特定の迷信を信じる事を強制されたり、
自分が持っている迷信を、それが迷信であるからといって
弾圧されない権利というのもあるのです。

迷信を信じたり、あるいはその迷信を信じていなかったりする
ことによって、いわれのない差別を受けることのない権利というも
のあるのです。

以上が《信仰の自由》という事の基本です。

こういう《信仰の自由》が大切なのは、
あらゆる人間は、何らかの迷信を信じて生きる以外に生き得ない
と言う、そういう存在だからです。

【続きは下記をクリックして下さい】


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信仰と、学問というのは、違うものなのです。

学問というのは、人間のこうした先入観をうたがって、
多くの人が持っている感覚的な錯覚を見破って、
真理を認識しようと言う、活動です。

フランシス・ベーコンという哲学者がいます。
ルネッサンスの時期(16世紀)のイギリスの経験論の創始者です。
シュイクスピアと同時代の人です。
「知は力なり」という言葉で有名な人です。

現実の観察や実験を重んじる「帰納法」を主張した人で、
私の思考の立場は、このベーコンの流れです。

ですから私は、実際の絵画や美術家や、美術制度を観察して、
美術や芸術について考えます。
ルネッサンス期の絵画も、
「一点透視図法」という言葉から絵画を考えるのではなくて、
実際の絵画を見て、観察して絵画を考えると、
実はこのルネッサンス絵画は、実際には多数の視点で描かれたものが、
モナリザをはじめ、たくさんある事が分かります。

ともあれ、現実を知る事で物事を考え、
「帰納法」という形での理論形成を考えて、主張した人です。

かれは、人間の先入観を4つの幻像(イドラ)に分類しました。

1.人類の共通のイドラ(幻像)
 全人類が、一致して信じた迷信。たとえば、太陽や天体が、
 地球の周りを、回っていると信じた天動説。

2.洞窟のイドラ(幻像)
 一人の人が、各人の性格や生い立ち、境遇からくる偏見で、
 「井の中の蛙」が、その狭い世界が、全世界であると思い込む
 ような偏見。

3.市場のイドラ(幻像)
 人が多く集まる市場では、デマや噂が飛び交った。
 この市場のデマや噂で信じられる偏見の世界。
 美術市場は、その典型で、値段が高騰しても、
 それはイドラ(幻像)であって、あっという間に1/10に
 値段は落ちる。

4.劇場のイドラ(幻像)
 劇場の大道具装置、たとえば背景に描かれた海と富士山が、本物
 に見えても、作り物の幻像であるように、思想や学問として、
 大掛かりな装置を使って作られるイドラ(幻像)。空虚で間違った
 理論でも、人々には真理と見えて、その難解な理論で、多くの
 人を惑わせる。この実例として彦坂尚嘉は、柄谷行人を、
 拙著で批判しています。 

《真性の学問》というのは、これらの4つのイドラ(幻像)を見破って、
 つまり迷信を迷信と見破って、この仮象性を超えて、真理を見いだし、
確認する作業なのです。

たとえば、椹木野衣は『日本・現代・美術』の中で、
日本の1945年8月15日の敗戦の日には、
日本列島には、雲一つなかったと、
書きました。

しかし私が気象庁に行って、残されている2枚の天気図を元に、
気象予報官の解説を求めると、気象庁の人は、
この8月15日には、北海道は雨が降っていて、
日本列島には雲があったと言うのです。

つまり日本人の多くは、8月15日が晴天であった記憶していますが、
それは北海道以外の地域が晴天であったのであって、
日本列島に雲一つなかった事ではないのです。
しかし多くの人は、椹木野衣の書いた事を信じて、
この仮象性を元に、日本の敗戦は、リセットであったと信じたのです。

つまり先入観や、思い込みでは、
日本の敗戦は、リセットなのです。
それは多くの人の体験の感覚でもあります。
しかし学問的に見ると、日本の敗戦は、
イラクの敗戦のような国家解体ではありませんでした。

戦争を遂行した大蔵省の官僚は、誰一人として首にならず、
責任も追及されずに、敗戦後も給料をもらって、働き続けたのです。
同様な事は、文部省の官僚にも言えて、
日本政府で解体されたのは、特高警察と国家神道の役所であった
内務省だけが解体されたのです。
ですから日本の政府は80%以上が無傷であったのです。
つまり日本は敗戦によってはリセットされずに、
大政翼賛会的な戦時体制が、戦後も継続していたというのが、
学問から見た時の日本社会の現実であったのです。
以上のことは、野口悠紀雄著『1940年体制』という本に
書かれている事です。

つまり椹木野衣の主張は、学問的な事実で書かれた事ではなくて、
先入観や、感覚的な錯覚を元に書かれていて、
迷信を元にした主張なのです。
そしてこの迷信を多くの人が信じたのです。

同様な事は、椹木野衣の奥さんのやっている山本現代という
ギャラリーの活動にも言えます。
これらの作家たちの作品が、すぐれた現代アートであるというのは、
感覚的な錯覚を元にした迷信なのです。

このブログでも、
山本現代の作家である西尾康之をめぐって、糸崎公朗さんと論争を
不十分ながらもやりましたが、
糸崎公朗さんは、大変にすぐれている方ですが、
その依拠している場所は、信仰の自由、つまり自分の先入観や、
感覚的な錯覚であって、学問としての絵画論や芸術論ではないのです。

つまり《信仰の自由としての芸術》と、
《学問としての芸術》は、違うのです。

《信仰の自由としての芸術》という立場に立てば、
なんでもあり、なのです。
「芸術といえば、芸術なのです」。
すべてが、信仰の問題に還元されますから、
その作家が、勝手に信じて続ければ良いのです。
どれほどの迷信であっても、良いのです。
いや、迷信であればあるだけ、特殊ですぐれていると
信じられているのです。
そのことは、そのことで、私も《信仰の自由》を尊重する意味で、
認めます。
各自、勝手に自分の迷信を元に作品を作れば良いのです。
つまり芸術というのは、どのような迷信でも良いと言うだけの
事になります。

つまり芸術というのは、《信仰の自由》だけで良いということになると、
イドラ(幻像)に依拠したものになり、
単なる感覚の錯誤ということを基盤にしたものになります。
時間がたつと、この感覚的な錯誤は崩れるのです。

今日の様な世界大恐慌が起きると、
人間の感覚や、信じる価値観が大きく変動して行きます。
迷信だけで成立していた作品のすべてが消えるわけではありませんが、
80%の作品は、衰弱し、淘汰されて行く事になります。
イドラ(幻像)に立脚した迷信だけでは、
芸術作品を維持することはできません。

学問としての芸術、
学問としての美術、
学問としての批評の追求が必要なのです。
しかも情報化社会の情報文明としての芸術論が、
学問的に必要なのであります。

ささやかながらですが、
立教大学大学院の中で、
学問としての情報文明の中の芸術論の構築を、
目指したいと思います。

立教大学には、2つの授業サポートシステムがあります。
一つがコーラスというシステムです。
授業は、参加する学生の個人情報の収集をしながら進みます。
なぜなら、芸術の趣味判断は、各個人の洞窟のイドラ(幻像)
深く関わっているので、
学生各個人のこの蛸壺の様子を把握して行かないと、
ならないし、そうした個人のイドラと、そしてそれを超えた真理の
交差する所が、芸術の形成の基盤だからです。
しかしこれら学生の個人情報は一般には開示できません。
コーラスは、ですから、閉じられてシステムです。

しかしもう一つ、サイバーラーニングという、
公開情報の掲示板があります。
ここに彦坂尚嘉の授業のレジメを公開して行くつもりです。

初めてなので、準備不足や人での問題などで、
充分には出来ないでしょうが、出来る所から、
具体的に立ち上げて行きます。
そしてこのブログとも連動させて、
日本の美術の中に、学問として芸術を論じる場を構築して行きたいと
思います。



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コメント 8

NY GAL

いよいよ授業の始まりですね。
がんばってください。

by NY GAL (2009-04-11 11:31) 

ヒコ

GAL様
激励ありがとうございます。
by ヒコ (2009-04-11 11:47) 

丈

刺激的で有意義な講義が展開される事を確信しております。どんな学生が集まるか楽しみですね。
by (2009-04-11 23:52) 

ghd

空が青く見えるのは、大気が光のうち人の眼に「青」と感じられる波長の成分だけを散乱(不特定多数の方向に反射)させ他の波長を吸収するためです。

一方、青い顔料や染料といった「色素」が青く見えるのも人の眼が「青」と感じる波長の光のみを反射させその他の波長の光を吸収するために、光のうちで「青」と感じられる波長の成分だけが人の眼に届くからです。

すなわち顔料や染料という青色色素が青いわけは、入射する光線の波長成分のうち、どの部分を反射しどの部分を吸収するかという太陽光線との関係にあり、これは空の青さと一緒であります。

現に、青い塗料で塗った色面でも白熱灯・蛍光灯・白昼の日光・夕日など照らす光の質が変われば色合いは異なって見えます。

「色素」という用語もあってか、“純粋に色彩のみを持った物質”“物質である色彩”を想像する人がいます。この記事の喩え話を見るに、ヒコさんも「物質である色彩」という迷信に囚われているように見えます(「青く見えますが、本当に青いわけではありません。」とありますが、「本当に青い」とはどういうことでしょうか)。

‥‥記事の本旨とは関わりませんが、いろいろと胡乱な記述が散見されるのでご注進まで。
by ghd (2009-04-13 23:41) 

MIZUTI

ジャコメッティが、空が青いというのは迷信で、本当は褐色をしていると言ってましたが・・・梶井基次郎は、青空の中に闇が見える(感じられる)と言います。
野原に寝転んで、青空だけで視界を満たすと、空の青が突然灰色に変わる、等質視野現象というのもあります。
空の青と顔料の青の違いは、知覚心理学などでいう、面色と表面色の違いでしょうか。
by MIZUTI (2009-04-14 11:47) 

ヒコ

ghd様
たいへんに鋭いご指摘ありがとうございます。
ご指摘通りであると思います。
記述が杜撰な面があるのは認めますが、私自身は色彩が物質であるとは思っていません。
その証拠を挙げるのは、言い訳になるので止めておきますが、実際にマンセル色票を使いこなし、またコンピューター画像を使い、そして建築の色彩専門家とも話して来ていることの積み重ねはあります。

しかし、それでも、絵の具の青と、空の青が違うと書いた事実からも、ご指摘の面は、私の中にあったと言えます。

そしてまた「本当の青」という私の記述への懐疑も、正当だと思います。

ことほど左様に、見かけの迷信の深さは、あるのだと思います。

画家としての立場で言えば、「本当の青」と言っているのは、昼光で、マンセル色票で計測した色相を考えています。この時の画家として感覚では、色光は除外しています。そういう絵描きという体験の部分も、迷信を含むのです。

私の見解は、迷信を持たない人間は、いないというものです。何かを信じる事から、人間は逃れられないと思います。ですから信仰の自由は、すべての人に保証されるべきと思います。


by ヒコ (2009-04-14 22:24) 

ヒコ

MIZUTI様
コメントありがとうございます。
by ヒコ (2009-04-14 22:25) 

ヒコ

丈さん
コメントありがとうございます。
今から、行ってくるところです。
by ヒコ (2009-04-15 10:25) 

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