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芸術とデザインの間で日課を区切った規則正しい生活方法(メソッド)を推奨した。メソジストという名称は「メソッド」を重んじることから「几帳面屋」(メソジスト)とあだ名されたことに始まった。規則正しい生活が実践できているかどうか、互いに報告し合う少人数の組会、また、信仰のレベル別のバンド・ミーティングを重視した。このため軍隊や学校と相性がよく、ミッションスクールや病院の建設、貧民救済などの社会福祉にも熱心である。日課を区切った規則正しい生活方法(メソッド)を推奨した。メソジストという名称は「メソッド」を重んじる [哲学]

若いアーティストと話をしていて、
基本にあるのは、何をして良いのか、分からない。
そして、芸術とデザインの間で、デザインをする事を、
考えると言うことを感じました。

「何をしてよいのか、分からない」という感覚は、
実は、誰にでもある普遍的な感覚なのですね。
これに対してどうするか?
で、ある意味で、人生が決まるのです。

アルコール中毒になる人の多くが、
何をして良いのか分からなくて、酒を飲むのですね。
こういう飲み方が一番危ないのです。

これにたいして、ヒラリー・クリントンの所属する
キリスト教教団メソジストは、ト
であ特徴としては、日課を区切った規則正しい生活方法(メソッド)を推奨した。メソジストという名称は「メソッド」を重んじることから「几帳面屋」(メソジスト)とあだ名されたことに始まった。規則正しい生活が実践できているかどうか、互いに報告し合う少人数の組会、また、信仰のレベル別のバンド・ミーティングを重視した。このため軍隊学校と相性がよく、ミッションスクール病院の建設、貧民救済などの社会福祉にも熱心である。当時は教育の機会に恵まれない子どもに一般教育を与える日曜学校(教会学校としてキリスト教教育を施すように時代とともに変化した)や、当時の流行歌に歌詞をつけ、口語による平易な讃美歌を普及させたのもメソジスト教徒が中心であった。概して上流階級よりも中下

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反覆(加筆1) [哲学]

私の最初の著作は、『反覆・新興芸術の位相』という。
1974年に田畑書店という所から出した。

私が、映画批評家の松田政男氏との関係から、田畑書店が出版してくれると言う話を作って来た。
美術家共闘会議(BKYOTO)の記録を残そうと思ったのである。

そして、最初は堀浩哉氏と一緒に共著という形で、1年間の準備が進められたのだが、1年経つと、堀氏は、降りてしまった。堀氏は、自分で言った約束事を守らなかった。そういう矜持の無い人である。堀浩哉は、美術家共闘会議の議長であったが、その思想的な総括もしないし、議長としての責任も取らない男だったのである。止むなく、後1年を費やして,独りで出版する形を取った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1995年、清水誠一とモダニズム研究会を立ち上げ、同じ世代の作家たちと読書会をする一方、『再生構造展』という、大規模な美術展を企画した。会場としてはSOKO東京画廊の全室と、湯河原の上田ギャラリーのアネックスと言う良い建築の会場だった。
1970年代の美術家による、回顧と新展開の美術展であった。
すべてを私が準備した。間際で、清水誠一以下の作家たちが、一斉に降りてしまった。
これは、画廊に対する私の信用も失墜し、大きなダメージであった。
さすがに私は、同じ世代の作家の矜持の無さを、良く理解した。
彼らは、自分たちの作品の総括も、美術史的責任も取らない人間たちであったのである。彼らは、この裏切りで、1970年世代表現としての美術史的陣地の構築をしそこなったのである。

堀浩哉氏にしても、1970年代作家たちにしても、歴史の基本が、まったく理解していないのである。逃げないで総括する事と、責任を取って行くことが重要なのにである。

歴史的に自滅する様な、無責任な行動を選択する。ラカン的な精神分析の眼で見れば、《想像界》だけで主体を作っている普通の人は、歴史に流される事は出来ても、この自分の参加した歴史を引き受けて、《象徴界》的に屹立して行くことが出来ないのである。簡単に言えば、責任逃れに走ってしまうのである。そういう弱さでしか、生きられない。

ただ、私自身は、友人が裏切る事は、常に織り込み済みであった。ブルータスお前もか!というのも、明智光秀の乱も、歴史上においては必然でしかない。だから、いつも二の矢を用意している。私はしたたかなのである。

この時は、『AIR』展という名前で「美術家共闘会議結成30周年記念展」を別に用意していた。宮本隆司、石内都、堀浩哉、彦坂尚嘉の4人展を、3会場で、逐次展開したのである。3会場というのは、ギャラリー山口、東京画廊、そして横浜ポートサイドギャラリーである。
宮本隆司と石内都の2人は、良く付き合ってくれたのである。感謝している。
この企画には、「写真の会賞」を受賞した。

これを見て清水誠一が、反省して、再度展覧会を一緒にやろうと、電話して来た。
「来るものは拒まず、去る者は追わず」であるから、以後、清水誠一だけは、付き合いが続いていて、良い友人となっている。清水誠一だけが、私の世代で、唯一果敢に自己展開をしているアーティストであって、その矜持の高さは、敬服に値する。根性があるのである。

最近、別の男が、やはり約束をたがえて降りるということをして、まあ、改めて、そういう変節ということを考えた。これは海外旅行の企画であったが、まあ、経緯から考えると、この変節も矜持がないものである。企画をしてくれている人への迷惑も考えない、無知無能の腑抜けである。

そういうひどい事を、自分がしなかったかと言えば、若い時に自分にも心当たりはあるので、まあ、人の事は言えないと言う反省をする。

人間は、無知無能である。

全知全能を神というのだから、
概念的類推をすれば、無知無能というのは、
全知全能の反対である。
つまり無知無能というのは、悪魔ということになる。

無知無能な人は、悪魔である。
人間は、愚劣な悪魔である。
そういうことが、良く理解で来る無差別殺人の時代なのである。

そういう意味では、変節する人というのも、
無知無能なのだろうし、他人に迷惑をかけて喜んでいる事に於いても、悪魔である。
悪魔とは、できれば付き合いたくない。

泥棒の常習者とか、性的乱交者といった人とは、
付き合わない方が安全なのである。

嘘を、病的に多くつくアーティストもいたが、こういう人とも付き合わない方が良い。

しかし無知無能ということを考えると、
自分自身が、ひどい無知無能で、
だらしのない腑抜け人間である。

今回は、意を決して、自分が人生でなし得なかったことを書き出してみた。

少なくとも7つ揚げようとしたのだが、軽く7つを越してしまった。
私自身も、相当な悪魔である。
できれば、自分自身とは、付き合いたくないのである。

さすがにここでそのリストを公開する度胸はない。
ひどいものだからである。

そのリストを見て思う事は、
まったく無知無能で、自分が何をなし得るのかも、分からなくなった。
ただただ、無能の中に沈んで、無為の生きて来た様に思える。
自分自身が悪魔なのである。
矜持が無い。

反覆という言葉は、もともとはキルケゴールの小説の『反復』から来ている。
「反復」というのは、繰り返すという意味である。
それを、くつがえすという意味を持つ、「反覆」という言葉に拡張したのが、
拙著の題名にした「反覆」と言う、私の方法であった。

私自身は、人生の中で、何回か、大きな展開をしてきている。
脱皮して来ているのである。
蛇が、皮を脱ぎ捨てる様に、脱皮する。
そうすることで、かろうじて、転がり続けて来たのである。

今、再度決意するのは、
もう一度、自分自身の構えを、くつがえす事である。
つまり反覆である。
悪魔の自分を反覆するのである。

■作品制作が、ある次元を超えた事。そのことで、制作の水準が、全然変わってしまった。

■本を出版した事。それでの区切りは大きい。執筆者としての自覚を得る事で、次の課題が見えて来ている。

■そしてウエーブギャラリーを立ち上げようとしている事。
これは30年前に洋画商史の調査から出発して、村松画廊や、ギャラリー手、東京画廊での展覧会企画を、無償どころか持ち出しで追求して来た事の、最終決算である。
なにか出来るとは思わないが、自分が良いと思う作家を擁して、売ってみたいのである。もっとも先に作品を買い取るのだが・・・。買い取り制のギャラリーをやりたいのである。

そういう訳で、新たな、活動のスケジュールを作らなければならない。
ところが、人間は保守的だから、新しい次元に移りたくないのである。
怠惰に、保守的に、同じ事をしていたい。

とにかく、歳をとると意欲がなくなる。
無理矢理でも、活性化しないと、何もできない。
自分の動かすエネルギー源を確保しなければならない。

原子力発電の原理ではないが、
エネルギーは、自分自身を壊す事で得られる。

活性化で一番良いのは、若い時にやらなかった事をやる事である。
そうすると、無知無能リストであげた項目は、ぴったりである。

というわけで、自分の無知無能と、逃げずに向き合い、挑む事にした。

手法としては、一つは嘘をつく。嘘としてやるのだ。
二つには、少しだけやる。
三つには、ゆっくりやる。
四つには、時間をかけてやる。
五つには、無意味であると、自分に言い聞かせる事である。

無意味については、また別の日に書きたいと思うが、
意欲をかき立てる為には、この無意味感の確認が重要である。

さて、人にも言えない様な無知無能ぶりが、
はたして、向き合って格闘できるのか、お楽しみである。

ゴムボールを切って、
裏表をひっくり返すというのが、
反覆のイメージである。
自分自身を裏返すのである。

自分の内側が外に出て、
外が内側に取り込まれるのである。

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ラカンの映像 [哲学]

太田丈夫さんが、
ジャック・ラカンの記録ビデオの一部を送ってくれました。

一つは本になった「テレヴィジオン」の映像で、一般のテレビ放送で流されたものだそうです。

歳をとったフランス人のヒットラーという感じで、
演説調で話しているのは、驚きました。

http://video.google.com/videoplay?docid=8392448371148754450

http://video.google.com/videoplay?docid=-2348900310620954660&q=&hl=ja


タグ:ラカン
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吉本隆明の顔 [哲学]

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吉本ばななが、
固体の人と言うのはちょっと意外でした。吉本隆明さんもそうなのでしょうか。
by コア (2008-04-04 13:37)

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コアさんは、上記のようなコメントくださった。
これに答えて、
吉本隆明の事を書く。

まず、吉本隆明は、液体の人、
つまり近代人である。

それに対して、娘のばななは、固体の人。
つまり前近代人である。

ばななは、退化したのである。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

さて吉本隆明の顔である。

《イメージ判定法》で《31流》。
《言語判定法》で《8流》。
《現実判定法》で《8流》。

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《想像界》の人である。
《象徴界》と《現実界》は無い。

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他の哲学者の顔を比較してみよう。

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吉本と、ニーチェである。
目つきの水準が、格段に違う。

ニーチェの顔である。
《イメージ判定法》で《超1流》。
《言語判定法》で《超1流》から《41流》の多層的重層的人格。
《現実判定法》で《超1流》。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《象徴界》の人である。
《想像界》と《現実界》は無い。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ニーチェと比較した時に、
一番大きいのは、格の差の大きな差もさることながら、
ニーチェが《象徴界》だけの人であるのに対して、
吉本隆明は、《想像界》の人である事であるのです。


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吉本隆明と、西田幾多郎である。

吉本が《31流》《8流》《8流》であるに対して、

西田幾多郎は、
《イメージ判定法》で《1流》
《言語判定法》で《超1流》
《現実判定法》で《1流》

吉本が《想像界》しかない人格なのに対して、
西田は、《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもっていて、
格段にすぐれている。

吉本が液体人間であるのに対して、
西田は、絶対零度/固体/液体/気体の4様態を持っている。

人格的精神的な、総合力が違うのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

思想家として見ると、
吉本隆明は、《想像界》の《31流》《8流》《8流》の人で、
ずいぶんと落ちるのです。

繰り返しになりますが、
《想像界》の人であるというのは、
思想家としては、どうしようもない事で、
基本的な才能が欠けているのです。

分かりやすく言えば、
子供が、思想家ごっこをして、
そういう振りをしているという、遊びの世界なのです。


なぜなら、思想と言う言語領域は、《象徴界》の世界だからです。

いや、吉本隆明は、歳をとったからであって、
若い時には、違うと言う意見もあるかもしれません。
もう少し吉本隆明の顔を見てみましょう。

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若き吉本隆明である。
《イメージ判定法》で《8流》。
《言語判定法》で《8流》。
《現実判定法》で《8流》。

若い顔には《31流》性はないから、
《31流》というのは老人性ということを意味していたと思う。

しかし典型的な《8流》の人である。

《8流》というのは信仰の世界です。
創価学会の信者のようなものです。

自分の信じることにこだわる新興宗教の信者の様な思想家であったのです。
その世界認識は、信心を超えた説得力を持つものではなかったのです。

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私自身は、1960年代の後半から、
吉本隆明の本を、かなりの分量読んで来ています。
しかし、何も覚えていない。

優れた思想というものは、
言語が、ピラミッドの様にガンとして存在しているのですが、
この人の言語は、《想像界》の言語であって、
ファンタジーに過ぎず、
まぼろしのように消えてしまったのです。

目だと言うことを思い知らされたのは、
だいたいで、いいじゃない。 (文春文庫) を
読んだ時です。

「だいたいで、いいじゃない」という題名が示している様に、
これは日常の自然的な態度での言語世界です。

それは思想ではないです。
何よりも《象徴界》の言語領域ではない。

哲学というのも、一種類とは言えないところがあるのですが、
《象徴界》の言語というのは、説明をしないものなのです。

たとえば《象徴界》の言語というのは、
「なんじ、人を殺すなかれ」という戒律が典型的です。

これは「なんじ、人を殺すなかれ」という言語の戒律として存在するだけで、
それ以上の細かいさまざまな現実の多様性を言わないのでs。

戦争でも人を殺してはいけないのか?
正当防衛はどうなるのか?

といった現実の世界の外に、戒律言語は「物差し」ととして、屹立するのです。
いっさいの説明も、議論も、証明もないのです。

思想というのも、様々な次元がありますが、
《象徴界》の言語というのは、こういう「物差し」の言語なのであって、
日常に於ける多様な、自然な世界ではない。

「物差し」というのは、1メートルは、1メートルとして厳密にメートル法を
組み立てなければならないのであって、
だいたいでは駄目なのです。

だからといって実は「物差し」は多様であります。
メートルだけでなくて、尺貫法でもいいし、
ポンドヤード法でも良いのである。

どうにでもなるのです。
しかし基準として確立したら、動かしては駄目なのです。
北極星のように、相対的に出はあるが動かない事で、機能するものであるのです。
それがだいたいでは、駄目なのです。

根本の問題は吉本隆明の精神構造が、
《想像界》しかないことで、これでは思想ではなくて、
戯言なのです。

彼の昔の著作は、今からは読むに耐えないのではないでしょうか?

思想家を、読む前に、まず人相で見ておこうと思ったのは、
こうして吉本隆明の戯言を読んで来てしまった私の体験によります。
たとえば、次の様な思想家の顔を見て欲しい。
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顔を見て、検討をつけてから読むという方法になったのは、吉本隆明への失望からなのです。基本的に《想像界》だけしかない思想家は、戯言にすぎません。だからといってつまらないと言っているのではないのです。戯言なのです。たとえば、ボーロリヤールの顔を見てみましょう。
ボードリヤール.jpg
《イメージ判定法》で《8流》。《言語判定法》で《8流》。《現実判定法》で《8流》。
《想像界》しかない人格。気体人間。つまり現代人である。
ボードリヤールは、《8流》で《想像界》しかない思想家として、吉本隆明ソックリの人であるのです。
違いは吉本が、液体人間(近代人)であるのに対して、ボードリヤールは、気体人間(現代人)で、新しかったのです。
言い換えると、吉本隆明は、本質的に、古いのです。

ボードリヤールも、ずいぶん買ったし、買ったものの半分くらいは読んだのですが、しかし基本的に戯れ言であったのです。






タグ:吉本隆明
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中島義道氏とカント研究会 [哲学]

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市ヶ谷の法政大学大学院用の建物92年館(大学院棟)2階202教室で開催された
カント研究会第221回例会に、行って来た。
13時30分からだが、少し遅れた。

●研究発表(13時30分〜16時00分)

浜野 喬士さん:「『判断力批判』と「人間学講義」の間」

これを聞く事は出来た。
カントの趣味判断の変遷も出て来ていて、面白かったが、
発表が終わってからの、質問批判が凄くて、
これは、やはり面白い。
哲学の専門家の集まりらしい、真摯さで、評価出来るものであった。

続いて、
●研究発表(16時30分〜19時00分)

  中島 義道さん著『後悔と自責の哲学』(河出書房新社、2006年)合評会
     特定質問者:小松 光彦さん
      檜垣 良成さん

中島義道先生もご出席の討論で、
これは面白かった。
中島先生と言うのは、全く過激で、
中島先生自身がカント学者なのだが、カント批判を辛辣に展開する。
すばらしい会であった。




 

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