SSブログ

絵金/深川資料館通り商店街を考えるために(加筆2校正1) [アート論]

Ekina001.jpg

「深川いっぷく」のシートペインティングのプランが、
フォーマリズムを追いかけて失敗したので、
再度考えるために、出典である絵金の祭り絵を考察します。

Ekina002.jpg

深川の清澄白川の深川資料館通り商店街で、
これから引用する絵金のような《第41次元》の絵画を並べる事が、
向いているわけではありません。
「深川いっぷく」は、ゆるい系で、いやし系の美術に向っている
所だからです。

20080718111354.jpg

それでもシート型ペインティングを私が、当初提案したのは、
第9回花みずき街角誰でもアーティスト〜アート観光まつり〜に、
土佐の絵金の絵金祭りを結びつけることを連想したからです。

eki.jpg
39321ba2210121317001.jpgDispPhotoImage.jpeg
200807051202.jpg
ekinfesta02.jpg
ekinfesta07.jpg

土佐の高知の絵金まつりは、
この絵金という異端の画家ひとりの執念で生まれているのです。

深川資料館通り商店街をどうするのか?
ということは、正確な意味では、私が考える責任の立場にはいないのです。

絵金のこれらの絵画は、お金のために描かれたという目的は、
大きくあったと考えられます。

商業性をもった売り絵での面があったのです。
これらの地域の住民が買って行って、
このお祭りが成立したのです。
つまり地域の人が絵金という画家のパトロンになったのです。

深川資料館通り商店街には、こうしたパトロン性はありません。

つまり絵金まつりの成立の根底には、
商業目的で自分の絵画を描く事を追求した美術家と、
それを各自が買って支える事で、絵金まつりを成立させた
土佐の高知の住民がいたのです。

深川資料館通り商店街に必要なのも、
こうした商業主義性をもった美術家と、
それのパトロンとなる地域の人々なのです。
そしてまた商業主義性をもったアートマネージャーの存在です。
その意味で白濱雅也さんと白濱万亀さんの存在と、
深川資料館通り商店街の人々の結びつきの自覚が、
重要なのです。

白濱雅也さんは、実は《第41次元》の美術を日本で始めた
早い作家だったのです。
そしてまた白濱万亀さんも、髑髏や死の美術を見つめる目をもった、
実はすぐれた鑑識眼のマネージャーであります。
このことが、何らかの形で表に出てこないと、
深川資料館通り商店街の美術の可能性は、
開花しないでしょう。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

アートフェア東京2009を見た五十嵐太郎さんは、
「こうして見ると美術は商品だということを改めて感じました」と、
発言していましたが、
美術は、この土佐の絵金祭りの根底でも、
商品であったのです。

アトフェア東京に、1991年前の勝利者であった辰野登恵子も、
中村一美も、堀浩哉も、岡崎乾二郎も、戸谷成雄もいないのは、
1991年以降の情報文明での美術の根底に、
商業主義化があるからです。
こうした商業主義性を、彼らは持ち得ない事において、
コンテンポラリーアーティストである資格を、失ったのです。

辰野登恵子は、絵画で成功したからこそに、
多くの中小品を描いて、日本の美術市場を豊かに活性化しなければ
いけなかったのではないでしょうか。
しかし彼女は大作主義で、ピカソのようには中小品を描き、
生涯の制作が10万点超えるような道を歩まなかったのです。

中村一美も、堀浩哉も、岡崎乾二郎も、
根本においては、アメリカ抽象表現主義/アンフォルメルの
模倣亜流作品であって、それを超える視点や契機を欠いているのです。
だから、アメリカ抽象表現主義を支えた自動車産業の没落とともに、
没落するのではないでしょうか?
なぜなら、多かれ少なかれアメリカ抽象表現主義/アンフォルメルの
模倣亜流作品の範囲に収斂した絵画であり、
岡崎の彫刻も同様なものに流れ込んでいるからです。

彼らの生涯作品展開を詳細に見れば、
他の展開もあり得たはずの契機を、
彼らは見逃して行ってしまっています。

ポロックのドリッピングとフォードのオートメーションは
深い関係があったのであり、その使用した絵の具も自動車塗料で
あったのです。
何よりも、この時代の美術作品そのもののありようが、
シニフィアン(記号表現)であって、物質に還元される美術作品で
あったのです。

そしてまた、あの李 禹煥が、アートフェア東京2009において、
1点もなかったということは、非常に大きな出来事であったのです。
李 禹煥が持っていた商業主義が、今回の金融危機の破綻で、
大きく傷ついたからです。

何故に大きく傷ついたのか?
李 禹煥の絵画が、点一つを描く事に向う様な、
単純系のモダニズムであったことは、無縁ではないでしょう。
それは古い産業社会の価値観であったからです。

李 禹煥の立体と絵画は、実はずいぶんと違うものなのですが、
しかし点一つの画面にするという、
遅れて来たミニマリズムに収斂させる事においてしか、
作品史を納め得なかった故に、
時代の敷居は、ここで限界に来たのではないでしょうか?

李 禹煥の市場での強さを見て来た人間からすると、
いろいろな事情があったにしろ、
アートフェア東京2009には、草間弥生はあっても李 禹煥が1点もなかった
ことの事実は、極めてシンボリックなものでありました。

そうした古い近代が、この世界金融危機において、
本格的に終わるのです。
だからこそ、古い近代の代表であった自動車産業が落ち込んで
行っているのです。
アメリカのビックスリーの自動車産業は、本格的に崩壊するのです。
断絶が起きるのです。
それはまた美術史の断絶でもあります。

今日のコンテンポラリーアートは、
根本的な変動に見舞われているのであって、
そのことを、旧現代美術界は、
把握する事が出来ない構造に転落しているのです。

その意味を込めても、
私自身は、作品としての気体分子ギャラリーに向わざるを得ないと言う、
所があります。
そこで追求されるのは、
物質としての美術というよりも、情報としての美術であり、
知価としての美術です。
知価としての美術は、一方で無償制を持ち、同時に貨幣性を
持っているのです。
芸術性が、値段として金銭に還元されて表示される。

美術を考える根底で、金銭を考えないでは、
絵金は成立しないように、
今日のコンテンポラリーアートもまた金銭を抜きには成立しない半面が
あるのです。
絵金が《第41次元》であるということと、
こうした金銭問題は、深く関わっているのです。

気体分子ギャラリーは、
《第41次元》《超次元》のものを扱いますから、
商業主義としてメジャーは形成はできません。

今日の商業主義の中心は《第1次元》です。
《第1次元》のロックや黒人音楽は、産業音楽として、
巨大マーケットを作るとともに、その表現の凡庸性と抑圧性を
生み出しています。

気体分子ギャラリーが目指すのは、
あくまでも少数の観客を結びつけるインディーズ・ギャラリーの
成立の追求です。

しかし、そこでは、芸術の適正価格の追求が、
あくまでも金銭として追求されるのです。

いいかえれば自己満足的な《自己愛》性人格障害的表現は、
排除されます。

ジラールや、ラカンによれば、
人間は、他者の欲望を生きる存在です。
芸術作品は、自己満足で完了するのではなくて、
他者の欲望を介して成立する社会的な関係なのです。

絵金を再度検証するのは、こうした他者の欲望を介して描かれた、
商業主義性を持った絵画だからです。

深川資料館通り商店街に必要なものも、
こうした血みどろの惨劇なのです。
東京都現代美術館の城下町として、
東京都現代美術館の美術品よりも、より今日的な芸術性を持った、
作品をストリートに展開する可能性を、
商業的に追求する時に、
深川資料館通り商店街を歩く事は、違う意味を人々に
与えるでしょう。

つまり過去のグラフィティ・アートの成果を、
深川資料館通り商店街のストリートのテント・ペインティングとして、
収奪する時に、
深川資料館通り商店街は、商業主義的に活性化するでしょう。
人間とは地獄であり、人々は惨劇を求めているのです。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

以下の画像および情報の出典は、
無為庵乃書窓です。
日本ではめずらしい本格的な美術サイトで感動しました。
《第41次元》の画家が、いくつもあります。
絵金は、下記です。

Ekin001-1.jpg

絵金は、典型的な《第41次元》のアーティストです。
そしてこの絵画は、金銭を得る目的で描かれたのです。

Ekin004.jpg

このグロテスクさが、
人間を活性化するのです。

Ekin026.jpg

この血みどろの絵を知ったとのは、1968年で、
百科事典の平凡社の雑誌『太陽』の特集号でした。
この1960年代末は、ベトナム戦争を背景として、
スプラッタ映画が台頭する時代でもありました。
その代表は、サム・ペキンパーでありました。
こういう血なまぐささの中で、絵金は再発見されるのです。

thewildbunch.jpg



Ekin028.jpg

この上の絵の一部を使って、私は美術家共闘会議=BIKYOTOのポスターを
作っています。
制作は、独りでやっています。シルクの製版も刷も独りでやっています。
その意味で、絵金は、私と学生時代からの深い結びつきがあります。

【続きは下記をクリックして下さい】

続きを読む


nice!(1)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

アートにおける自由の権利(改題/大幅加筆3) [アート論]

人は、何かを信じて生きている。
信じるということが、積極的な場合もありますし、
無自覚で、受け身であったり、無意識であったりもします。

無意識で信じている事を、別の言葉で置き換えると、
「先入観」ということになります。

人間は、先入観を持って生きているのです。

例えば、天気の良い空を見ると、「青空」だと思います。
しかし、確かに青く見えるわけですが、
青く見えますが、本当に青いわけではありません。
つまり「仮象」なのです。
見かけだけで、本当には青くないのです。

つまりバーチャルリアリティなのです

白い飛行機が空を飛んでも、青い絵の具が着くように、
青くならないのです。

健康な常識感覚では、どう見ても晴天の空は青く見えるのですが、
その実は青い絵の具とは、似ても似つかないのが、現実の青空です。

空(そら)は、昼間は晴れていれば青く、雲があれば白く、
あるいは黒く見え、夜間は真っ黒に見えます。

空が青く見えるのは空気太陽光線の関係から生じるものであって、
青い絵の具のように、青い顔料や染料で青いわけではないのです。

つまり見えることは、仮象であるということが、
現実にはあるのです。

1975年以降、さらには1991年以降になると、
この仮象性こそが、人間の生活の基本であって、
その仮象性に依拠しえるという考えが、社会現象として
台頭して行きます。

社会全体が《想像界》化して、
バーチャルリアリティを肯定的に考えるようになるのです。

2002年以降、2007年10月までは、
世界中が、このバーチャルな仮象性の可能性に、
根拠なき熱狂の渦に巻き込まれて行きます。

仮象こそが現実だというのです。
そしてバブルははじけ、世界は崩壊し、収縮し、
マイナスのスパイラルに飲み込まれたのです。

仮象の熱狂の冷却化は、
実体経済の崩壊的な縮小を始めました。

つまりバーチャルな世界と、実体的な世界は連動していたのです。
バーチャルだから、どうでも良いと言う自由は無かったのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

すごくハンサムで、アルマーニの服を着て、
200万円もする高級腕時計をして、帝国ホテルに長期滞在している
紳士が、ある女性に恋をして、愛をささやき、結婚を申し込んでくる。
その女性は、舞い上がって、結婚を信じて、
気がつくと銀行預金のお金はすべて抜き取られて、
男は消えているのです。
単に結婚詐欺師にだまされただけという、
よくあるお話にすぎないのですが、
この結婚詐欺師は、見せかけが巧いのであって、
被害者の女性は、仮象を見てしまう事で、だまされて、
お金と、幸福な未来への夢を失うわけです。

つまり信じるという事を、迷信と言っても良いのです。

根拠の無い迷信を信じて、人間は熱狂するのです。

つまり、すべての人は、何かの迷信を信じて生きている可能性が、
あります。人生は仮象性に取り囲まれていて、確実なものは、
実は少ないのです。

仮象性を信じて、ハイリスク/ハイリターンで大金をかけて、
馬鹿なような簡単な作品や、下品な作品や、若い人の作品を買う。
そしてあっという間に、10分の1になる。

先日のアートフェアには、1点の李 禹煥の作品も
ありませんでしたが、
その原因の一つは、作品が暴落し、定価では売り得なくなったからです。
しかし、1点の李 禹煥もないアートフェアをいうのは、
時代の変化を象徴する大事件であると言えます。

彦坂尚嘉的に言えば、李 禹煥の作品や思想を、すぐれていると言う
考え自体が、迷信に過ぎません。
作品も思想も《第6次元》の《6流》品に過ぎません。
人はこうした李 禹煥神話という迷信を信じて、
美術界を40年あまり作って来ているのです。
まだ、その残余はつづくでしょうが、
2020年、つまり登場から約50年が過ぎれば、
李 禹煥という迷信の80%は消えているでしょう。
それでも20%は残ります。
人間は迷信無しには生き得ないのです。


アインシュタインのような20世紀最大の理論物理学者と言われる
人もまた、迷信を信じる事にこだわったのです。
アインシュタインは、1915-16年に一般相対性理論を発表して、
自らの数式が解かれ、そして実際の観測からも、
一般相対性理論が正しいことが証明されます。
それは同時に宇宙が膨張しており、さらにはビックバンがあったことに
なったのですが、アインシュタインは、この事実を2年間認めなかった
のです。なぜならば、アインシュタインは、宇宙が定常である、
つまり変化しないでいつも同じ状態であると信じていたので、
膨張し続けているという現実の宇宙の姿を受け入れるのを拒んだのです。

この事実から、アインシュタインほどの科学者ですらが、迷信を信じ、
迷信に固執すると言う事が、理解できます。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

もちろん、迷信と言われて怒らない人はいないですが、
すべての信じるべき内容は、実は真実や事実とは言えないものである
事は、ソクラテスがその対話の中で明らかにしたことでした。

私自身が体験して来た事からも、ソクラテスの対話が開示したことは
正しいのであって、すべての人は、各自独特に迷信を信じて
生きています。
そのことを私が、具体的に指摘すると、激怒します。

私が体験して来た激しい喧嘩のすべては、こうした迷信との
いざこざでした。
美術界にも、迷信は多いのです。
多くの人が仮象を信じています。

いや、逆に、芸術というのは、仮象を信じる事だと、
思っているのです。
つまり迷信をどれだけ信じられるかと言う、
迷信教の大会が、芸術界であると信じているのです。

迷信と言う意味は、他人から見ると、
明らかに事実としても間違って見えるものを、
信じる人からは、確実な真実として信じて生きているということです。

信仰の自由というのは、そういう意味であって、
特定の宗教を信じていない人や、
宗教そのものを否定している人もまた、
何かの迷信を信じる事で生きているのです。
その意味で、あらゆる人は信仰の人であって、
だからこそ、信仰の自由は大切なのです。

個人が、各自自由に、好むところの迷信を信じ生きることを、
お互いに、認め合う必要があります。
なぜなら、迷信であると指摘すると、指摘された人は激怒して、
激しい憎しみをもって、暴力的なまでの争いになるからです。

人間には、自分の信じる迷信を信じて生きる権利があるのです。
そしてまた、その迷信を広める活動を行うという、
布教活動もまた、憲法で認められています。

その迷信を信じる団体を結社する権利があるのです。

ある迷信を信じるか信じないか、
迷信を信じるとして、どの迷信を信じると選択するか、
それを各自が自由に決める権利があるのです。

そしてまた特定の迷信を信じる事を強制されたり、
自分が持っている迷信を、それが迷信であるからといって
弾圧されない権利というのもあるのです。

迷信を信じたり、あるいはその迷信を信じていなかったりする
ことによって、いわれのない差別を受けることのない権利というも
のあるのです。

以上が《信仰の自由》という事の基本です。

こういう《信仰の自由》が大切なのは、
あらゆる人間は、何らかの迷信を信じて生きる以外に生き得ない
と言う、そういう存在だからです。

【続きは下記をクリックして下さい】


続きを読む


nice!(2)  コメント(8)  トラックバック(1) 
共通テーマ:アート

無事展示終わりました [アート論]

さすがにくたびれましたが、
無事展示終わって、オープンになりました。
トマトと茄子の作品、さっそく売れたそうです。

nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

AMB - Red Rum Where I'm From [アート論]

AMB - Red Rum Where I'm From


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

Anton Webern Fünf Sätze 1 [アート論]

Anton Webern Fünf Sätze 1


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

Anton v. Webern: 4 Stücke op. 7 für Geige und Klavier [アート論]

Anton v. Webern: 4 Stücke op. 7 für Geige und Klavier


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

へうげもの/古田織部は《第41次元》 [アート論]

A4D8A4A6A4B2A4E2A4CE.jpg
へうげもの』(ひょうげもの) というのは、
山田 芳裕(やまだ よしひろ)の漫画で、
古田織部を主人公としたもの。

25e5773d.jpg
7432b35d.jpg
《想像界》の眼で《第21次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第21次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第21次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品、気体美術。

《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィエ(記号内容)の美術。

《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


古田 織部(ふるた おりべ)は、戦国時代の武将で、
千利休の茶道を受け継いで、独自の、
茶器製作・建築・造園などを行った人。

それは「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代に作り出した
と言われます。

1-1.jpg
《想像界》の眼で《第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元》の《真性の芸術》

《現実界》の陶芸
固体表現

《気晴らしアート》《ローアート》

シニフィアン(記号表現)の美術
《原始立体》、彫刻ではない/置物、 【B級美術】

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
紹介した図版の陶器は、
桃山時代の伊賀焼きで直接古田織部と関わって残っているものの
代表作「破れ袋」です。

これが《第41次元》というのは、重要な事です。

なぜなら、普通に流通している織部焼きの多くは《第6次元》で、
凡庸なものだからです。

織部は、《第41次元》という美の基準を提示した武将の茶人でした。
千利休が腹を切ったように、
彼もまた、言い訳せずに切腹して果てました。

《第41次元》の美意識は、この黙って責任を取る態度によって
のみ、成立するのです。

以下、ネット検索で、本物の織部を集めました。

6.jpg

3a32ec6c.JPG

《想像界》の眼で《第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元》の《真性の芸術》

《現実界》の陶芸
固体表現

《気晴らしアート》《ローアート》

シニフィアン(記号表現)の美術
《原始立体》、彫刻ではない/置物、 【B級美術】
1-kuro.jpg
2130shino2.jpg
織部1.jpg
4d4865ca.jpg
a7fc2c9277b1b307bcd7606e5f4bc1ff.jpg


2130oribe1.jpg
2130oribe2.jpg

2130oribe6.jpg
2130oribe4.jpg
織部2.jpg


10108166120.jpg
この掛け軸が、織部が作ったと言われるもので、
《第41次元》です。

oribe8.jpg
dsc05428.jpg
oribe1.jpg
織部型の灯籠です。
これらも《第41次元》です。
私自身は、灯籠は好きで、3つほど持っていますが、
これらは《2流》《1流》で、
《第41次元》の織部のものが欲しい!

img55826973.jpg
《想像界》の眼で《第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元》の《真性の芸術》

《現実界》の陶芸
固体表現

《気晴らしアート》《ローアート》

シニフィアン(記号表現)の美術
《原始平面》、『ペンキ絵』、 【B級美術】

風呂敷 梅鉢緞子
利休門下の古田織部愛用の柄といわれ 不老長寿め象徴・梅と
不断長久の象徴・波を 合わせた吉祥文様です。
波は 鉄納戸(てつなんど・暗い灰青)の地にウルトラマリン
(紫みの青)の波頭が浮び、上がり梅はパールグレー(銀色のような光沢を
含んだ淡い灰色)で、綿とは思えないしなやかさあるとのこと。
1万円で、ネットで買えます。
もちろん《第41次元》です。


88629493.jpg
oribeshouzouga.jpg
古田織部の顔
《想像界》の眼で《第41次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《超次元》の《真性の人格》
《現実界》の眼で《第41次元》の《真性の人格》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人格
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な人格

《シリアス・アート》的人格、《ハイアート》人格

シニフィアン(記号表現)人格
『真実の人』


nice!(3)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

若い友人からの質問に答えて(加筆3画像追加校正1) [アート論]


以下は、若い美術大学の学生の友人からのメールに答えたものです。
あまり、面白く書けなかったので、
この緑の文字で、加筆して行きます。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
◎◎◎◎様

お返事遅れてすみません。


渋谷のギャラリエ・アンドウで、山本晶という作家の個展を観ました。国立新美術館のDOMANI・明日展2008にも出品されていた作家です。



ネットで画像見ました。

a7602.jpg
a7604.jpg
yamamoto.jpg
aki.jpg
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品、液体美術(=古い近代美術)。

《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィアン(記号表現)の美術(=古い産業社会の美術)。
《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】


その作品は一見すると、形体と色が複層していて、深い空間の描かれている抽象画に見えるのですが、あとから、本当はどうなのかとよく考えてみました。
会場には最終日だったからか、作家本人がいて、コレクターらしき人と話していた内容が狭い室内で聞こえました。
それでわかったのが、窓から見た風景と窓の内側にある物をモチーフにして構成して形を描いてるということと、建築家から羨ましがられるような空間を創り出したいという考えをもっていることでした。
その事をよくよく思い出してみて僕は、それではあれは抽象画ではないのではないかという疑念を抱きました。

私の《言語判定法》で判断しても、
抽象画では、ありません。
しかし抽象画のように見える絵画ではあります。
抽象画であるかどうか?
ということが重要かどうかは、今日、あまり意味があるとは
思えません。
抽象絵画の先駆者の中で、私が高く評価するのは、クプカです。


なぜなら現実の事物を対象、あるいは主題にして描いているからです。ピカソの絵画に描かれる形がどんなに対象を簡略化したものでも、それを抽象画とは言わないように山本のも抽象画ではないのではないかと。建築の3次元の空間に対抗意識をもってることも怪しいと思います。絵画の2次元の空間での実践に不満があるということではないのか。

同感です。
フランティセック・クプカの画像をご紹介しておきます。

抽象画としては1911年から12頃という、最初期の
抽象画を描いた人です。

抽象画というのは、1910年代からの美術なのであって、
そのことは、重要な意味があるのです。
別の言い方をすれば、抽象美術とうのは、
20世紀の前期の美術なのです。

3I01861.jpg


2555945785_e1387586a4.jpg


2555949133_591bc2101a.jpg


2556028525_ea42173cac.jpg


2556781368_9c8cb4dca5.jpg


2556790228_9ab639cb1f.jpg


2556792930_d7c3946b14.jpg


artwork_images_425114561_387350_frantisek-kupka.jpg


2556024205_91cedfd4de-1.jpg
《想像界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》《ハイアート》

シニフィアン(記号表現)の美術
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

カンディンスキーとクプカを比較してみます。

2555949133_591bc2101aのコピー.jpg

《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン     《想像界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン     《象徴界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン     《現実界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》

《想像界》の作品、        《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
液体美術              気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《気晴らしアート》《ローアート》           《シリアス・アート》《ハイアート》     
シニフィアン(記号表現)の美術。            シニフィアン(記号表現)の美術
《原始平面》『ペンキ絵』          《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』
【B級美術】                                 【A級美術】


こうして見ても、クプカが、《透視画面》であることが、
良く分かります。
抽象美術の基準作品というのは、クプカと、モンドリアンなのです。

mondrian.jpg

71.1936.R96_ph_web.jpg




モンドリアンも、実物をたくさん見て歩きましたし、
回顧展も2つ見ています。
その一つはパリでみましたが、
コレクションは、フィラデルフィア美術館が良いです。
MOMAには、もちろんニューヨークブギウギの最晩年の作品があります。

Mondrianbroadwaybooogiewoogie.jog.jpg

モンドリアンは、凄い才能の画家で、私は嫉妬します。

このモンドリアンと、クプカが、
抽象美術の中心であり、最高の作品を残しています。



kupka-1のコピー.jpg

これは、ANDOギャラリーの、あなたが問題にした画家と、
クプカの似た様な作品ですが、
色彩を動かしていません。
日本人作家は、比較しなければきれいに見えますが、
比較すれば《原始平面》の持つ、鈍さが露(あらわ)になります。
クプカの絵画は《透視画面》で、光が向こうから来るように描かれていて、
絵画として美しいのです。

学で1、2年の時分に自動筆記による抽象を美大生らしく試みる生徒が多くいましたが、ほとんどはうまくいっていませんでした。おそらく自分でやったものを具象画の場合のように判断することができなかったからではないかと、今考えると思います。際限もなく、デッサンの原理とは違う技法を持て余していたのだという気がします。

そうだと、思います。
まず、基本は《原始平面》と《透視画面》の区別を理解することです。

■■■教授は、形体は抽象的に扱ったとしても、現実のモチーフからつかんだものでないと説得力がなく弱くなるという内容の事をおっしゃっていました。  果たしてそうでしょうか?■■■教授が抽象画を理解されているかどうかは別にして、今思うと、物を観ないで描くという抽象の系譜というのは歴史的に確かにあるのだから、単純に学生の側に絵画のメディウムとしての構造の理解が欠けていたのではないかと思います。

その通りです。
だいたい、今、大学教授になっているような美術家は、
ほとんどが、教えるべき芸術の基本を知りません。

美術教育の基本を破壊し、失っていった人々なのです。

無知無能を、才能の有る芸術家であることと信じる迷信の
人が、多くいるのです。

また、ロバート・アトキンス著の現代美術のキーワードという本で、抽象化の過程を示す例として、人の顔を12枚のドローイングで徐々に特徴を削ぎ落として描いていくと12枚目は1枚目の「再現」とは対極の完全な抽象になると言っています。しかし、このような還元的な考え方を用いないもっと直接的な手法による抽象があるのではないですか?どう思われますか?対象に依存しているという時点で抽象とは言えないと思いますが。

あります。
今の時代に、それを抽象画という言い方をするかどうかは、
別ですが、考えておられる事は、
正しいですよ。

実を言うと、山本晶の作品を最初図版で観て、彦坂さんの作品にも近いんじゃないかと思っていました。でも実物を観た印象をあとから振り返ると色彩が明快で、ハードエッジな処理が多く、マチエールに手がこんでいて、工芸的な手つきのデザインにすぎないのではないかと考えます。しかも対象に依拠した形を描いているのだから抽象でもないと思います。彦坂さんの作品とは明らかに違います。

その通りです。
山本晶はデザインです。


確かに透明色と不透明色の使い分けや筆の塗り方などのマチエールはとても綺麗でうまくて、技巧者だと思いました。

技巧しかないのですね。

要するに、いいたいことは、形体がある対象から導き出されているにも係わらず、観る人がその形が何なのか判別できなくて“抽象的だという印象”を与える絵は果たして抽象画と言えるのかということです。

絵画の歴史を、彦坂尚嘉は次のように、整理します。

まず、自然採取の原始時代の野蛮な絵画です。
代表的なものは、アルタミラの絵画や、ナスカの地上絵です。
これらの特徴は、《原始画面》に描かれています。
《原始平面》の絵画は、以下の地上絵のように、
やたらに、平らなのです。
nazca-lines.gif
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の作品、絶対零度の美術(=原始美術)

《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィアン/シニフィエの有るシーニュの美術では無い美術。
《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

絵画を見る時に、重要なのは、
上のような《原始平面》の美術は、シーニュの美術では
無いということです。

これは絶対零度の美術で、原始美術特有の平らさと、固さがあります。

しかし、
この原始美術と同じ構造のものが、
現代の文明の中にも出現して来ていて、たくさんあるという事です。

文明の中の《原始平面》であり、文明の中の野蛮美術です。

そういう文明の中の原始美術があっていけないわけではないのですが、
文明の中の野蛮美術に、必要以上の意味を見いだす事に、
私は、同意しかねるのです。
野蛮は野蛮なのです。
自然美術というのは、神の作ったデザイン的エンターテイメントと、
同じ構造なのであって、それは《真性の芸術》という
人間と神の闘争のドラマではないのです。

Nazca-lineas-manos-c01.jpg
Nazca-lineas-perro-c01.jpg
79884792.OsWABNBW.Monkey.jpg
80219231.aQbAgNHB.jpg
80580276.sWQ7Rkz8.Austranaut.jpg
Nazca-lineas-astronauta-c01.jpg



【続きは下記をクリックして下さい】

続きを読む


nice!(1)  コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。