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池田光弘の作品(加筆2) [日本アーティスト序論]

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《想像界》の眼で《1流》、真性の芸術。
《象徴界》の眼で《1流》、真性の芸術。
《現実界》の眼で《1流》、真性の芸術。

芸術分析的には、《1流》の真性の芸術であって、
満点です。
これは評価できます。

ただ、絵画構造的には液体美術であって、
つまり、言い換えれば近代美術であって、
一つ前の絵画であって、古いのです。

無いものねだりで申し訳ありませんが、
もう一つ新しい構造の絵画が、欲しいのです。

私見で言えば、液体の時代は終わって、
気体化した時代になっているので、
そうした絵画構造の作品を見たいのです。

これはシニフィアンの美術です。
これも古い要素の一つであります。

それと、私の選んだ作品はましなのですが、
他のものは、《大空間》が描けていなくて、息苦しく感じます。

押井守の映画の良さの一つは、《大空間》を描いている事ですが、
すぐれた絵画というものは、《大空間》を描く所にあると思います。
それが池田光弘の絵画には欠けている。

文句ばかり言って恐縮ですが、
芸術の要素というのは、8個以上あって、
むずかしいというか、たいへんなのですね。
特に絵画は、すでに優れている作品が沢山作られて来ているので、
評価する、水準が高いのです。

頑張って、成長してください。


タグ:池田光弘
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榎忠の作品 [日本アーティスト序論]


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《想像界》の眼で、《8流》、真性の芸術。
《象徴界》の眼で、《超1流》、真性の芸術。
《現実界》の眼で、《超1流》、真性の芸術。

物質性を持ったシニフィアンの芸術です。
液体美術ですっから、つまり近代美術というものです。
そういう意味で、ひと昔前の、古い芸術であると言うべきでは、
あります。

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《想像界》の眼で、《8流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で、《8流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で、《8流》、デザイン的エンターテイメント。

この作品は、面白いですが、芸術ではありません。
液体美術です。
シニフィアンの表現です。

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榎忠の顔です。

《想像界》の眼で、《1流》
《象徴界》の眼で、《1流》
《現実界》の眼で、《1流》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界を持つ人格。
なかなか、たいした人物であります。

液体人間、つまり近代人であられる。


榎忠
1944年香川県生まれ。

60年代後半から関西を中心に活動。
70年代にグループZERO(後にJAPAN KOBE ZEROと改名)を結成し、
集団でパフォ-マンスを行う。
76年脱退後、ボディアートや大砲、銃、ダイオキシンなどを
テーマにした鋼鉄のオブジェの制作で話題を呼ぶ。
おもな展覧会は2006年「その男、榎忠」(KPOキリンプラザ大阪、大阪)など多数。
神戸市在住。 


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大砲や、銃の作品です。
銃を作品にしたのは、アルテポーベラに誰かいたという記憶があって、
探したのですが、確認できませんでした。

榎忠さんの作品や、パフォーマンスは、面白い事は、面白いです。

《想像界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント作品。
《象徴界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント作品。
《現実界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント作品。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
芸術というのは、私性が刻印されていて、
そして《非-実体性》《非-合法性》《退化性》などのあるものと、
彦坂尚嘉は考えます。

デザイン的エンターテイメントと、芸術は、
ちょうど裏表の様な関係にあります。
どちらも他者を魅了する技術という意味では、
同じです。

岡崎乾二郎は、
「芸術は人間に魂を自覚させる方法なんだょ」と定義していますが、
このような定義では、宗教や哲学も、芸術と化してしまいます。
しかし創価学会やエホバの証人といった新興宗教は、
芸術ではありません。

そうではなくて、
芸術とエンターテイメントは、
他人を魅了し、引きつける銅貨の両面です。
正確に言えば、両者とも、
パスカルの言う「きばらし」にすぎません。

それでも芸術は、消費されずに時を超える力があります。
その理由を分かりやすく言えば、
デザイン的エンターテイメントを抑制したものが、
芸術だからです。

榎忠の銃や大砲の作品には、
芸術固有の抑制性がありません。






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小谷元彦の作品(加筆3) [日本アーティスト序論]

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はじめに

 厳密な意味で作家であるので、私は評論家になりたいと思って来たのではないのです。したがって日本の美術批評が滅びてしまった事をなげく事も無いのであります。

 しかし、にもかかわらず私は、膨大に文章を書いて来たのですが、その本当の理由はさておいて、他人のせいにするとすれば、私の時代と世代の美術評論家がだらしなかったからです。一番は峯村敏明、谷新、千葉茂夫諸氏であって、彼らは、私の望む《厳密な学問としての美術批評》を書いてくれなかったのです。

 その中で、唯一の例外は藤枝晃雄氏でした。私の文章は、藤枝批評の作品論を学び、そして継承しつつ展開したものです。

 拙著『彦坂尚嘉のエクリチュール』の椹木野衣批判の文章は、古い美術評論家には書く事も、そしてある意味で読む事も出来ない、新しい地平を切り開いていると自負しています。ぜひ、興味のある方は読んでいただければと思います。決定的な新しさがあるのです。そして読みやすいものであります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 とにかく新しい美術が始まって20年も過ぎようとしている今日、新しい批評は必要であると思っています。

 時代は大きく変わって、昔の工業化社会の物質文明は終わり、今日の情報化社会の情報文明になりました。芸術も物質性を持ったシニフィアンを重視した時代がおわって、脳内リアリティであるシニフィエを重視した作品に代わって来ています。

 こうした変化を明快に切り分けて行く批評理論は、私のもの以外に、あるのでしょうか?

 さらに芸術とエンターテイメントの関係も複雑になって来ているのですから、これも明晰に指摘して行く必要があるのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 私は、新しい作品測定の技術として、「アートの格付け」をはじめとする批評技術を開拓して来たのです。

 それは主観批評の、技術革新であると、自負しています。

 比喩で言えば、昔は体重計も簡単で1キロ単位で目盛りがふってある程度ものでしたが、今は100グラムくらいに細かくなり、さらに体脂肪率、基礎代謝量、体水分量、筋肉量、測定骨量等々を測定できすようになっています。

 美術批評もまた、詳細な分析技術を開拓する必要があったのです。そこでラカン理論を背景とした精神分析ならぬ、芸術分析を展開して来ているのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 さて、今日のブログというのは、2004年に始まって、従来のマスコミとは違ったメディアとして、批評活動をなしうる媒体であると言えます。

 何よりも独りで、お金もかけずに、フリーメディアとして発信する事が出来ます。私のブログでヒットした記事は3000人もの人が読んでくれていますし、毎日延べで、多い時には1800に達するヒット数を得ているのです。合計のヒット数は25万件を超えているのです。

 読んでくださっている方々に深く感謝をするとともに、美術批評の革新の地平を切り開く、小さな試みを、新たにしておきたいと思います。

 すでに、鴻池朋子、加藤泉と開始しているのですが、『美術手帖』の2008年7月号の特集『日本のアーティスト序論』で取り上げられている30人の作家を、格付けしようとする試みです。今日は小谷元彦です。

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小谷元彦の作品/特集『日本のアーティスト序論』3

 東京芸術大学の彫刻家出身でありながら、写真、映像、インスタレーションなどメディアを選ばない作品を約10年発表してきた小谷元彦は、2006年、東京藝術大学先端芸術表現科の准教授になって、気のせいか、憂鬱な顔をしている。もっとも今の若い人は、こういうふてくされた様な暗い顔で写真を撮られるのが流行りという事なので、そういう流行顔なのだろうが。



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小谷元彦
1972年京都生まれ。

《想像界》の眼で《1流》
《象徴界》の眼で《8流》
《現実界》の眼で《超1流》

人格的には《現実界》と《想像界》の人。


《現実界》が《超1流》であると言う事は、
尋常なことではなくて、
実は単なる才能ですまされるものではないのです。
そこには原因となる何かがあるのです。

京都生まれというのも、その一つの原因ではあります。
京都は圧倒的に文化水準が高いのです。
しかし、それだけでは《1流》止まりの話であって、
《現実界》で《超1流》にはなり得ません。


《現実界》が《超1流》のキャラクターであるから、
それぞれの作品の完成度が高かったのですが、
実態のつかみづらいアーティストとしてあり続けてきました。

このつかみづらい小谷元彦の闇にこそ、
実は、本質が横たわっているのです。
その本質がシニフィエです。
脳内リアリティの露呈化が、表現として出現しています。
それもエンターテイメントとして、
見せ物化しているのです。

欠陥は、小谷元彦の《象徴界》性が弱い事です。
たぶん、難しい本を読まない子供であったのでしょう。

そのことが、小谷元彦の闇をさらに深くしています。

同時に、それは、芸術とエンターテイメントの区別が、
つかないで来た、悲劇と不毛性に結果しているのです。

そのために、この10年間の活動の意味が見えず、
憂鬱になっているのではないでしょうか?

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

私が、初めて見た作品は、
1999年11月20日(土)~2000年1月23日(日)に
水戸芸術館で、椹木野衣が開いた『日本ゼロ年』に出品された作品でありました。

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女性の彫刻(エア・ガスト、1999年の後ろに立っている木彫は、
記憶では、水が落ちている滝を彫ったものであったと思います
(エア・フォール、1999年)。
緻密な彫刻技術が、目立っている木彫であって、
私の記憶に残りました。

《想像界》の眼で《1流》
《象徴界》の眼で《8流》
《現実界》の眼で《超1流》

この作品は《シリアス・アート》で、
そして《ハイアート》でありました。

何故に裸婦彫刻と、水の落ちる滝の彫刻なのでしょうか?

滝の彫刻とは、何なのでしょうか?
年号的には前後してしまいますが、
1997年の東京恵比寿にあったP-HOUSEでの
第1回個展《Phantom-Limb》で展示されていた
白鳥の作品に対応しているのではないでしょうか?

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壁に激突した瞬間の白鳥の姿です。
白鳥の両眼は見開かれたままで、
白鳥は、この衝突によって出現した、
ジャック・ラカンが言うところの《現実界》を知覚していないことを表しています。

つまり滝=白鳥とは、【流れ/衝突/死】であり、
《現実界》の出現を意味しているのです。

滝という水の流れは、
これも時間の順序が逆になってしまいますが、
他には、オオカミの毛皮(『ヒューマン・レッスン(ドレス1)』1996年)になったり、
いろいろな形に姿を変えて現れてくるのです。

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水の流れる滝的作品は、その後の作品まで一貫した構造となっているのですが、
木彫では《シリアス・アート》《ハイアート》であったのに、
オオカミの毛皮や、白鳥に変貌した時には、
その作品は《気晴らしアート》そして《ローアート》に、堕落したのです。

この堕落にこそ、小谷元彦が、人気をはくした理由があります。2000年 - リヨン・ビエンナーレ、2001年 - イスタンブール・ビエンナーレ、2002年 - 光州ビエンナーレ、2003年 - ヴェネツィア・ビエンナーレでは日本代表として日本館で展示しているのです。

ひとびとは、エンターテイメントが好きですから、
《気晴らしアート》そして《ローアート》に、
熱狂したのです。

最近の骨の彫刻も、
それはこの滝の木彫が見せたものの、
《気晴らしアート》《ローアート》的なる展開に他ならないのです。

もっとも最近の骨の彫刻は、
1997年の東京恵比寿にあったP-HOUSEでの
第1回個展《Phantom-Limb》で展示されていた
『Circlet』(1997)という作品。
これはアンモナイトの螺旋形とサメの歯による混成体であったようですが、
この作品への、先祖返りの仕事であると見なすべきでしょうが、
この骨もまた、【生命の流れ/衝突/死】を象徴するものであり、
したがって《現実界》の出現のメタファーであると考えられます。

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彦坂尚嘉の私見からは、

瀧という水の流れのフォルムのバリエーションであるのです。

この部分の意味が、

実は《8流》の闇の中に封じ込められているのですが・・・。

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この女と、滝という水の流れ(《現実界》の出現)の対比の構造にこそ、

小谷元彦の闇が存在するのです。

それは、例えば、
次の写真作品の対比の構造にかいま見られるものです。

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ここにあるのは、死んだ者たちの体積としての瀧と、
生き残った者の優越性=権力としての女です。

エリアス・カネッティは、その名著『群衆と権力』の中で、
「生き残った瞬間が、権力の瞬間である」と書いています。

『…生き残る瞬間は権力の瞬間である…生き残った者が一人の死者に向かいあっていようと多数の死者に向かいあっていようと、この状況の重要な点は、かれが自分を唯一の人間だと感じていることにある…いかなる死者もすべて他者に生き残られた者である』(『群衆と権力』上巻p.333-p.388.)

それは戦場で死者たちの大地の上で、生き残った者に、
権力が発生する事を指摘したものでありました。

小谷元彦の瀧という水の流れと、女の対比の中には、
死の堆積と、生き残った者の権力の確立と言う、
残酷な闇が沈んでいるのではないでしょうか?

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加藤泉の作品(大幅改稿/読みやすく改稿1/加筆3) [日本アーティスト序論]

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加藤泉の作品の芸術分析です。
「芸術分析」という言い方は、「精神分析」という言い方を下敷きにしています。
私自身が、下敷きにしているのが、フロイト/ラカンの精神分析理論だからです。
とは言っても《超1流》から《41流》までの42段階の『アートの格付け』など、
《言語判定法》という彦坂尚嘉流の方法を使った、主観批評分析です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《想像界》の眼で《8流》
《象徴界》の眼で《8流》
《現実界》の眼で《8流》

《8流》というのは、信仰領域です。
つまり、この加藤泉の作品を素晴らしいと信じれば、
素晴らしいということになるという、
新興宗教のような領域で、この作品は作られています。

彦坂尚嘉の『アートの格付け』では、《1流》というのは社会的理性領域ですが、
加藤泉の作品は、社会的理性領域では作られていないと言う意味です。

《2流》というのは技術領域、
《3流》というのはポップ/コミュニケーション領域です。
《4流》は不条理領域(サルトルの『嘔吐』という小説のような世界)、
《5流》は優良品領域(ちょっと良いね、という感じ)、
《6流》は自然領域、
《7流》は、ビジネス領域で、
《8流》が信仰領域です。

そういう中で、加藤泉の作品は、
《8流》の新興領域で作られているのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

作品的には
《想像界》では、デザインワークです。
《象徴界》でも、デザインワークです。
《現実界》では、真性の芸術と言えます。

彦坂尚嘉が芸術としているのは、
非実体的で、非合法的で、
《退化性》のあるものとして定義しています。




さて、そうした3界に文節化して分析すると、
加藤泉の作品は、《現実界》だけで、
真性の芸術であるという事になります。

デザインワークというのは、
正確には《デザイン的エンターテイメント》という言い方になります。
芸術と、エンターテイメントを、対でとらえる視点で、
分析していますが、
詳しくは、前のブログの山口百恵の所で書いたと思います。
分かりやすく伝える為に、この加藤泉の作品では、
デザインワークという用語に簡略化して使います。

つまり、加藤泉の作品は、
2/3は、デザインワーク出来ています。
1/3だけが芸術であって、
それも《現実界》だけで、芸術なのです。

情報化社会の芸術は、《現実界》を重視している故に、
加藤泉の《8流》作品は、
評価されていると、私は判断するのです。


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こういう木彫立体を見ると、良くできているとは思うのですが、
独創的で、見た事のないものというものではなくて、
アフリカの黒人彫刻など、
どこかで見た事のあるものの
模倣の連鎖の中で作られているように見えます。

アフリカ彫刻と比較してみましょう。

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アフリカ彫刻です。

《想像界》の眼で《6流》で、工芸。
《象徴界》の眼で《6流》で、工芸。
《現実界》の眼で《6流》で、真性の芸術。

アフリカ彫刻は《6流》であるのに対して、
加藤泉は《8流》で落ちるのですが、
両方とも《現実界》で真性の芸術であるのは、
同じなのです。


伝統の中で考えると、木喰ですね。

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木喰の格付けです。
《想像界》の眼で《6流》で、工芸仕事。
《象徴界》の眼で《6流》で、工芸仕事。
《現実界》の眼で《6流》で、真性の芸術。

木喰は《6流》であるのに対して、
加藤泉は《8流》で落ちるのですが、
両方とも《現実界》で真性の芸術であるのは、
同じなのです。



《模倣の連鎖》の文化システムの中でつくられる芸術を、
《ローアート=民衆芸術》と呼びますが、
加藤泉の作品は、
自立した個人精神の独創で作られる《ハイアート=高級芸術》ではなくて、
民衆芸術のメカニズムのような《ローアート=民衆芸術》です。

模倣というよりも連想的に、
どうしてもゲオルクバゼリッツを思い出します。

以下3点はゲオルクバゼリッツの木彫です。

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ゲオルクバゼリッツの木彫の芸術分析です。

《想像界》の眼で《8流》
《象徴界》の眼で《8流》
《現実界》の眼で《超1流》

バゼリッツの場合には、
《超1流》性があるのです。
《超1流》というのは、《1流》の社会的理性領域を超えた精神性を示すものです。
そしてバゼリッツは《ハイアート=高級芸術》です。

そういう精神の超越性というものが、
バゼリッツの作品にはありますが、
加藤泉の作品にはありません。

バゼリッツの作品は、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界で、
《非実体性》《非-合法性》《退化性》があって、真性の芸術です。

加藤泉の木彫が、《現実界》で《8流》、
そして《現実界》だけで真性の芸術、
しかし《ローアート=民衆芸術》であるのに対して、
ゲオルクバゼリッツの木彫の方が、
《超1流》性もあるし、
3界で真性の芸術ですし、
《ハイアート=高級芸術》であって、
格段に優れているのです。
加藤泉は、落ちるのです。

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《8流》                《超1流》
《想像界》でデザイン。         《想像界》で真性の芸術。
《象徴界》でデザイン。         《象徴界》で真性の芸術。
《現実界》でのみ真性の芸術       《現実界》で真性の芸術。
《ローアート=民衆芸術》        《ハイアート=高級芸術》

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
 

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加藤泉の絵画の芸術分析です。

《想像界》の眼で《8流》で、デザインワーク。
《象徴界》の眼で《8流》で、デザインワーク。
《現実界》の眼で《8流》で、真性の芸術。
《ローアート=民衆芸術》


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鴻池朋子の作品(加筆1) [日本アーティスト序論]

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鴻池朋子
《想像界》の眼で、《8流》
《象徴界》の眼で、《8流》
《現実界》の眼で、《21流》

《8流》は、信仰世界です。
信じるものは救われる。
鴻池朋子をアートと信じる人は救われるのです。

何よりも鴻池自身が自分自身を信じているのです。
そういうことは、素晴らしいと考えるのが今の常識で、
今日のアートの一つの典型なのかもしれません。

欠点は、自分を神として信じる自己中毒教の教祖であり、
そして信者でありますから、
まあ、なんとも矮小な世界なのです。

《21流》はエロ絵画の領域。
彼女の絵の下品さは、《21流》ゆえのものです。
しかし《21流》だからこそ猥雑で、多くの人が好むのです。
多くの人は猥雑なものが好きなのです。

《21流》というのは、文明の至り着く場所で、
人間の生きて行く喜怒哀楽に、どっぷりと浸った領域です。
欠点は高さがない。
超越が無いのです。

鴻池朋子の作品は、《想像界》が主になっている作品なのです。
ファンタジーというか、童話画というか、イラストです。
それは《想像界》の持っている偶像崇拝的魑魅魍魎の世界なのです。

イメージによる鏡面地獄です。
先ほど、高さが無いと言ったのは、
この鏡面地獄を否定する契機が無いのが《21流》だからです。
迷信と、妄想と、空想と、自由解放があふれる地獄。
それもただの絵空事なのですが。
つまり自由解放という幻想そのものが、
限界をつくる自由の牢獄美術です。

鴻池の作品は、《想像界》の眼で見ても、合法的で、実体的です。
つまり《想像界》の領域でも、デザイン・エンターテイメントです。

もちろん《象徴界》でも、《現実界》でも芸術ではないのです。

《想像界》《象徴界》《現実界》という人間の3つの眼で、どれでも見ても、
つまり、いかなる意味でも、
鴻池の作品は芸術では、まったくないのです。

イラスト的、デザイン的エンターテイメントとして、
人々が楽しむ作品と言えます。

たのしい、良く出来た、精緻なイラストであり立体なのですから、
何にも文句は、無い事であります。

娯楽に徹した美術です。
エンターテイメント美術の女王です。

今日では、エンターテイメントであれば、
芸術の名をかぶせて、それで良しとする時代なのです。

ラスベガスのエンターテイメント・ショーは芸術であり、
ラスベガスの嘘に満ちたデコレーションが、
芸術として信じられる時代なのです。
ここでも《8流》の信仰の問題です。
芸術であると信じれば、何でもアートは成立するのです。
能天気な世界です。

それで、どこが悪いと言われれば、
芸術のゲの字も無い美術というのも、
それはそれで過激で、面白いと言うしかありません。
その空無性が,芸術に似ているからです。

ハリウッドのエンターテイメント映画は、
見ている時には面白くて、
終わってしまうと空しいですが、
ああいうもののを肯定できる、若さというのも、
あるのです。

そのうちに飽きて、
ハリウッドのエンターテイメントは、まったく
受け付けなくなりますが、
それでも私なんかも下品ですから、
どこかで常に、そういう、「面白いもの」を求めている。

芸術という名前は、そうしたインチキ性をはらんだものと言えます。
そういう、インチキ美術の若手の代表と言えるでしょう。

エンターテイメント絵本画の女王
鴻池朋子

東京芸術大学日本画卒後、
玩具のデザイナーを経て、
国内外の美術で絵画、彫刻、アニメ、絵本などの作品を積極的に発表してきたという。

芸大日本画を卒業しているという事で、アーティストと誤解されているのだでしょうが、
これはただのイラストレイターでしかない。

池は2000年に初めてペインティングの個展を開催したという。
そういう意味で2000年代作家であります。
以来、鉛筆アニメーション、立体作品、
また、渋澤龍彦の「狐媚記(こびき)」の挿画制作
東京を森にする「六森未来図」(森美術館)ワークショップも展開。
「美麗新世界」広東美術館(中国)、CAAC美術館(スペイン)でも展示が行われた。

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鴻池朋子の顔である。

《想像界》の眼で、《8流》の人。
《象徴界》の眼で、《8流》の人。
《現実界》の眼で、《2流》美人。

《想像界》で主体を作っている人。
気体人間、つまり情報時代の作家、

気体という意味で、新しい時代の作家です。


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