浜松 [日記]
瀬戸内海3日目 [日記]
鵜島の夕暮れ/2重の欺瞞 [日記]
新横浜から、9時47分の、のぞみに乗って、
すぐに眠る。のぞみの速さは好きだ。
京都付近は雪できれいだった。
大阪で、ひかりに乗り換えて、福山着。
そこから高速バスで伯方島で下車、
バスの中から海が見えると、幸せになる。
そこに松下 哲雄さんが迎えに来てくれて、
フェリーで鵜島に4時に着いた。
プライベート・ビーチは最高で、
夕日を見ながらビールを飲む。
海は、内海で、穏やかだが、しかし潮流は速くて、
海は穏やかな顔の下に不穏なエネルギーを秘めている。
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先日、白濱雅也さんの個展の作品を評価したら、
おととい私のアトリエに来たら、
「彦坂さんの評価は信用できない」という。
初期の大作が《第1次元》の作品で芸術になっていたのを評価したのだが、
それに対する返答がこれであるのには
その言い分に、ちょっとあきれた。
でも、こういう反応は、いままでも経験がある。
いままで、不明だった仕組みが良く解った気がした。
生きている次元違うのだ。
今までも、変だとは思っていたのだが、
謎は解けたと思った。
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もともとは、アートバイゼロックスで、
白濱万亀さんが来ていて、
アートマネージメントをしていることを知って、
名刺交換するところから、始まった。
ご主人がアーティストをしているというので、
作品を見ますよと言って、
白濱雅也さんのアトリエまで見に行った。
それが矢切の渡しの利根川の近くで、
なんで俺は、こんな遠くまで、一銭にもならないのに来ているのだろうと
自分の馬鹿さ加減を、思ったものであった。
あのときに、往くべきではなかったのである。
見せられた作品が6次元で、ちょっとつきあいきれなくて、
もっと前の作品はありませんか、と言ったら出てきたのが、
初期のレリーフの作品で、これは良かった。
だから関係が始まったのだ。
その根底に私の場合には、芸術そのものがあって、
その可能性がある作品をつくるアーティストであれば、
尊敬してつきあえるが、何もない人とは、
つきあいきれるものではないからだ。
しかし、良く解ったが、
芸術性そのものは、逃げ水の様なものであって、
初期に良い作品があっても、あっという間に、
愚劣なものに転落してしまう。
そして愚劣さだけが、強固に存在し続ける。
こうした愚劣さは、つきあいきれるものではないのである。
白濱雅也さんと、私は、生きている次元が違うのだ。
正確には、私自身が生きている次元が、
白濱さんを含む多くの人と、次元が違うのだ。
簡単に言えば、私は狂っている。
ようやく解った気がする。
人間が生きる次元が、社会的な成功性だけで切られているのだろうと思う。
考えてみれば、いままでもこういうことを繰り返してきているのだ。
糸崎さんが、書いていたことに連動するのだが、
たぶん、芸術表現には、ある次元の差というものがあって、
第6次元を脱することの出来ない人のものは、
基本的には見ない方が良いのだ。
見ても、すべてが無駄になり、評価をしても、不信感しか返ってこないことになる。
誤解以外にはないのである。
だから見ない方が良い。
彼らは不思議な欺瞞ゲームをやっている。そこには真実も、コミュニケーションも無い。すべてが仇になって返ってくる。私が親切に、無償の行為をしたことが、仇で返ってくることは、今までも繰り返してきている。今回は、その秘密が解った。しっぽを、捕まえたのである。
不思議な倒錯世界なのだ。
ラカンは、想像界の人間が2重にフィクションの中に組み込まれているというのだが、この2重の欺瞞の中にいる人とのつきあいは、きわめて危険であると言うことになる。誠実さとか、真実という関係は、2重の欺瞞の中では、反転してしまうのである。
だから白濱雅也さん個人の問題ではなくて、
8割の人の問題である。
2重の欺瞞の中で、すべては反転してくるのである。
2重の自己欺瞞のシステムは、
システム的に強固なのである
だからこそ、距離が必要であると言える。
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見てきた作品で考えれば、
昔の白濱雅也さんは《1流》の作品で、しかも3界とも《真正の芸術》性を
持っていたけれども、
それが、日本社会に評価されなかったことで、
《第6次元》に下降して、《6流》作品をつくるようになった。
そうして、日本社会に適応することが出来たのである。
おそらく、こう指摘されることが、不愉快なのだろう。
確かに、おもしろい話ではない。
しかし、日本社会に適応できて、良かったのではないだろうか。
わたしは、良かったのだと思う。
人間は、このようにして、社会的に適応していくのである。
年末から年始/「深川いっぷく」 [日記]
福田 肇(フランス・レンヌ第一大学)
伊藤啓輔(専修大学)
先日、第8回研究会をいつものように
電気通信大学で開催する旨、お知らせいたしましたが、
当日は、身分証明書がないと構内に入れないことが判明致しました。
そのため、中島さんより、急遽、市ヶ谷の哲学塾をお借りし、
場所を変えて開催することとします。
場所は、以下でご確認ください
第8回
日 程: 2008年12月27日(土) 14:00〜
場所:市ヶ谷の哲学塾(http://gido.ph/)
協力: 中島義道氏(電気通信大学教授)
(1)主要テキスト=Jacques Lacan,"L'ethique de la psychanalyse")
(邦訳『精神分析の倫理』岩波書店 上・下巻)
(2) 第8回目の内容
引き続き、第1講・第2講の読解
コメンテーター 福田 肇
(3) 会の進め方
基本的に福田と伊藤の両名がコメントを担当するが、場合に
よっては、希望制で他の参加者にコメントをお願いすることもあります。
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昨日も、面白かったです。
会そのものは、フランス語で読んでいて、
私はフランス語は大学では2年取ってはいますが、
そんな程度で歯が立つレベルではないので、
ただ、聞いていて、日本語訳をされた部分で、
時々質問をしている程度です。
それでも、面白かったです。
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本日から、
白濱雅也/ゼロックス/朝日新聞/コールハウス [日記]
彦坂さま
○○○○さんから
以下のような情報をいただきました。
ヨーロッパもこの秋の市場暴落で大変なようです。
ベルリンアートフェアは来場者も少なく,超有名アーティストと極安い商品の他は全く売れていない状態でした。知人のギャラリーがコペンハーゲンから出店していたのですが,ようやく経費が出た程度で,上海とドバイへの出店計画は断念したようです。
ペインティングの作家は今困っているようですが,
プロジェクトベースのコンセプチュアルアーティスト,ライブアートの作家たちはアートマーケット崩壊を密かに喜んでいます。
これからたくさんのアーティストや画廊が淘汰されるのではないでしょうか。
本当にやりたいことを継続してやって行く人が結局は歴史に残っていくと思います。
年も押し詰まって世相は暗いニュースばかりですが
日本は欧米ほど傷んでいないので、起死回生の
可能性はあるのではないでしょうか?
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世界金融危機は、日本の美術界にも波及して来ています。
しかし、私自身は、いまのところ元気です。
生き生きとしている。
まあ、こういう事態が、結構好きなのでしょうね。
もっとも、そんなノンキなことを、いつまで言っていられるのか?
でも、悪い時の方が、
私自身は、元気になるのです。
プーサンの話を書いて、
読んで下さった方々の同意は、ほとんど得られないという事は、
実は、私は知っているし、
多くの人に、芸術自体はむずかしいのですが、
私自身は、明快になって、
はれやかな気持ちになっています。
琴平日記 [日記]
ドコモショップに行って、
携帯からインタネットにコンピューターを接続しようとしましたが、
マックはできませんでした。
しかたなく、ネットカフェを教えてもらって、
そこで打っています。
ネット環境の悪さを通して、日本の地方の衰退の原因が透けて見えます。
アートで町おこしをする前に、情報革命を受容することのほうが、実は大切なのです。
ブロガーと名刺に刷ってしまっているので、
それなりにがんばろうとするのですが、
そうでもなければ、この時代の中で、私も落ち着いて古い生活に安住してしまうかもしれません。
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書きたいことだけを書くと、
芸術そのものの探求は、私の中では、帝国美術館のための超1流の美術作品の収集で、ずいぶんと完成してきたいます。もちろん、実際はおくが深くて、きりがないのですが、それでも大きなデッサンは完成しつつあります。
そうした時に、同時に理解されるのは、
実は優れた芸術というものが、
普通に幸せな生活を探求する人々には、必要がないという事実です。
そうした時に、どうするのか?
ひとつの答えは、観客がいることを信じて、制作を続けることであります。
これは宗教に似ています。
教会で牧師は毎日毎週ミサを続けるのであって、
それは誰も信者がいなくてもやるのです。
それが宗教というものです。
芸術も、そして文章も同様であって、
誰か、100年後であっても、見てくれるとか、読んでくれることを信じて描き、書き続けるのです。
もうひとつは光琳のやったことをやることです。
つまり超1流の宗達を尊敬し、学んで、自分は社会に回帰して1流の社会的理性性に依拠した作品を作り、さらに光琳模様という6流のデザインワークを制作することで、普通の自然的な生活をする人々へ、芸術を回帰させることです。
つまり社会の常識の外に出て行って超1流の作品を制作するという往路と、
その超1流の高みから、再度、普通の社会生活に戻ってくるという復路を歩むという、
往復の道こそが、実は芸術の全領域であるのですが、
この全領域の往復路を歩むことが、
日本では難しいのです。
以前のポンピドーセンターで開催した日本の前衛展に対して、
日本のアーティストは、神風特攻隊のように、行っても、自爆して帰ってこないと、
フランスの美術批評家が書いていましたが、実際、日本のアーティストも、画廊も、この往復の道を理解することができないのです。
村上隆さんのやったことは、
この往復の道の、一方の方で、それは帰ってくる復路だけだったのです。
復路というのは、作品を売ることです。
売るというのは、決して軽んじられるものではないのです。
売れない作品の9割は壊されます。
売る必要があるのは、売ることで文化が社会に受容され定着するのです。
村上さんは、往復の往路ははしょっていて、
だから、村上さんはオリジナルというよりは、模倣を基盤性格が強くて、
独自性は、その復路性の中で発揮されています。
フィギア作品も中原浩大影響で生まれました。
その意味ですぐれて光琳的なアーティストが村上隆でありました。
モダンアートが終わって、
ある意味で、この光琳的な回帰の運動として現代アートが展開されていると
見ることはできます。
自然的な態度 [日記]
朝、早くに琴平市の虎丸旅館を出て、
トラックで丸亀市に来て、
ギャラリーarteのコンピューターでこのブログを書き始めました。
今朝の新聞には3紙に私の作品写真が載っているのを旅館の番頭さんに
教えられて、それは有難いと思います。
和室の天井になすとトマトをくっつけて、どこが良いのかと言われるかも知れませんが、
それは、まず、面白いことと、芸術であることの両立が図られているだけでなくて、
彦坂という作家の美術史的な出自への回帰性と、人間としての個人の体験の
原初性への退化性を含んでいるのです。
しかし観客にはそんなことは判らなくて、
ただ、面白いというだけになります。
この落差を埋めることができないところに、
私はむしろ美術の良さがあるように思います。
まあ、だから自分の作品については、あまり書きたくないという気持ちがあります。
合理的な説明にあまり意味を見出さないのです。
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このところ考えているのは、人間の自然的な態度の問題です。
先日のアートスタディーズでも、「歴史上最初の・・・」といった言い方をする方がいて、五十嵐さんがたしなめていましたが、歴史というのは実感で語ることは出来ないのです。調べなければ、駄目な領域です。だいたい歴史的には、初めてということはほとんどないのです。
しかし自然的な態度では、初めてと思えることはあるのです。自然的な態度というのは、調査や勉強は嫌いで、自分の直接の感覚だけを強く信じるのです。
この直接的な感覚は、しかし根強いものがあって、誰でもこの感覚を捨てるわけにはいきません。
だから作家も、この直接的な自然的な態度による選択と、これを抑圧し、反省的であるとともに、芸術理論的なはんだんからの選択との、選択の2重性の中で制作をしています。
観客が持っている自然的な態度も無視は出来ないのです。
しかし、無視した方が良いという考え方もあります。
それも間違いともいえない。
この辺の選択判断は難しくて、答えは出ないのです。
経験的には、観客の要求にストレートに応えることは、
良い結果にはならない。
観客というのは、主体がなくて、責任をとらないからです。
作家は主体ですから、責任だけは取っていかなければならないから、
主体なき人々に応えても意味はないのです。
だからといって無視してよいというものではありません。
どうすればよいのか?
答えは無いと思います。
答えの出ない領域はあるのです。
ともあれ、次元は2つあって、そのひとつは自然的な態度の直接性で、
それはそれで不滅なのです。
この不滅性が自然ということであって、
しかも自然性は実は刻々と変化をしていて、
しかも突如そして、地震のような大変動を引き起こすのです。
わけのわからないことを書いていて恐縮です。
こんぴらアート報告 [日記]
ネット環境が悪くて、
ブログが出来なくて失礼しました。
今も、琴平から丸亀のギャラリーアルテに車でもどって、
強引にブログを書いています。
こんぴらアートは、本日無事にオープしました。
わたしの方は、夜中の2時に飾り付け終わって、
まあ、良い作品になり、満足しています。
作品は2会場であって、
虎丸旅館の天井に、ナスとトマトの模型を両面テープで貼り付けた作品を
やったのですが、
これが、うまくいきました。
昨日、伊東直昭さん佐々木薫後夫妻が手伝いに来てくださったお蔭で、
余裕をもって作業が出来たことと、
わたしも経験をつんでいて、ナスやトマトの模型を事前に加工しておいたこと、
それに多様性を産む工夫。
天井へのインスタレーションのやり方の方法の組み立てがうまくいって、
非常に良い作品になりました。
各新聞社も反応してくれましたし、
なによりも企画者の梅谷さんが高く評価してくれて、
わたしも、作家冥利の仕事になりました。
しかし旅館の和室の天井へのインスタレーションですから、
写真撮影でうまく写る物ではありません。
皇居美術館の方は、琴平公会堂で、展示しました。
これは最終的にはうまくいきましたが、
わたしが、散らかし系の展示技術でやったために、
梅谷さんと食い違いって、一時期険悪になりましたが、
なんとかあきらめてくれました。
一般的ではありませんが超一流の良い展示になりました。
また、会場に戻ります。
会場にも、旅館にもネットがないというのは、
ほんとうに遅れていて、困りますね。